天地創造 31
「信仰を守る戦いB 正義の胸当て」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜6節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 第6章10〜20節
サタンの目的
 サタンが人間に語りかけ、誘惑するなどというはなしは、なかなか現実のことと受けとめにくいことと思われます。しかし、確かに私たちは自分の気持ちだけでは善を行う人間になれないという経験をします。善意があっても、あるいは神様への信仰があっても、自分の心に逆らうようなことを行ってしまうのです。それは、自分を罪に誘い、神様の愛と祝福から引き離そうとする力が、いつも自分の中に働いていることにならないでしょうか。

 使徒パウロも自分自身のそのような経験について、このように語っています。

 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・ わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(『ローマの信徒への手紙』7章15〜25節)

 エバが蛇の誘惑に負けてしまったように、私たちも自分のなかに忍び込んでくる誘惑の声に負けてしまっていることがあるのです。聖書が語っているのは、そのような私たち自身の本来の善き願いを打ち砕き、私たちを惨めな者としてしまう恐るべきサタンの力についてなのです。

 『エフェソの信徒への手紙』6章10節以下に記されているのは、そのようなサタンの策略に対抗し、信仰を守り抜くためにはどうしたらいいのかということです。前回は二つのことを申し上げました。一つは、戦いの姿勢を取るということ、もう一つは真理の帯を腰に締めるということでした。14〜15節を読んでみます。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

 まず《立って》と言われています。立つとは、戦いの姿勢をとることです。エバは神様を愛していたし、敬っていたし、そのお言葉を守ろうともしていました。それなら、どうして蛇の誘惑にやすやすと乗ってしまったのか。それは、自分自身に襲ってくる誘惑、邪悪な力の存在に、まったく無警戒だったからなのです。このような無邪気さが、エバの致命傷となってしまったのでした。だから、パウロは悪魔の策略というものを知り、それに対する戦いの姿勢を取りなさいというのです。

 そして、《真理の帯を腰に締め》と言われています。帯は、身にまとっているものを一つに纏めるものです。私たちも、生活していく上でいろいろなものをまとっています。仕事もあり、家族もあり、地域社会のこともありましょう。そういうものが、神様への信仰という帯によって一つに纏められること、それが私たちの生き方を迷いのないもの、力強いものとするのです。
正義の胸当て
 さらに、今日は《正義の胸当て》について学びたいと思います。

 正義とは何でしょうか。辞書で調べると「人として行うべき正しい道」とあります。「正しい生き方」と言ってもいいかもしれません。けれども、何が「正しい生き方」なのかということを、私たちはどれだけ分かっているでしょうか。

 たとえば義賊と言われる人がいます。ロビン・フッドとか、ねずみ小僧とか、社会的な規範からすれば悪人なのですが、貧しい民衆から英雄に祭り上げられている人たちです。義賊は、もしかしたら間違っているのは社会的規範なのかもしれない、本当の正義の味方なのかもしれないと思わせる存在です。

 先日、皆様にもお祈りとご協力を頂き大成功を収めましたが、からしだねの家のチャリティー映画会で、「ディア・ドクター」という映画を見ました。山あいの小さな村の診療所で働くお医者さんのお話です。お医者さんといっても、実は免許を持たないばかりか、医学も勉強をしたことがないまったくの偽医者なのです。しかし、本当に彼を悪い人間として裁くことができるのかと考えさせられる映画でした。

 むしろ、多くの恩を受けていながら、偽医者だとわかった途端、掌を返したように彼を悪者のように言う人の方が、なんだか人間として間違っているように思えてしまう。刑事がなんとか彼を悪者に仕立て上げようとするのですが、見当はずれなことをしているような感じが残ってしまう。主人公の偽医者は、決して立派な人間ではないし、自分でもそんなことは思わず、かえって自分が偽者であることに苦しんでいる人間でした。そんな彼がかえって人間らしく生きているように見えてしまうのです。誰も本当に悪い人はいない。誰も本当にいい人はいない。善と悪を白黒はっきり分けることが無意味に思えてしまう。そんな映画でした。

 人間は、これだけ長い歴史を生きていながら、未だに何が人間として正しい道なのかということさえ分からないでいるのではないでしょうか。もちろん、60パーセントぐらい正しい、80パーセントぐらい正しいということはあるでしょう。しかし、そういうものを正義の胸当てとして誇ったところで、悪魔にどれだけ通用するでしょうか。悪魔の策略に対抗するためには、100パーセントの正しさを持たなければ意味をなしません。

 しかし、100パーセントの正しさをもつ人間などいません。それならば、《正義の胸当て》とは、自分が考える正しさや、自分の業の正しさを誇ることではなく、神が私たちに与えてくださる正しさで身を固めるということに違いありません。

 自分がどんな正しいことをしたか、自分の考えがどんなに正しいか、そのようなことは、結局、悪魔に通用しないのです。かならずほころびが出てくる。そこを悪魔につけいられるのがオチです。

 そうではなく、神様が私たちに与えてくださる正しさ、その神様の恵みを誇りとして生きることこそ、悪魔に対抗する正義の胸当てということになるのです。
神の義
 『ナルニア国ものがたり』や数々の信仰的著作で知られていますC.S.ルイスが、『悪魔の手紙』という一風かわった本を書いています。スクルーティプというベテランの悪魔が甥っ子の新米悪魔を指南するために書いたという設定の手紙です。悪魔からみた人間、悪魔からみた神様というものが描かれていて、とても面白い本であると同時にいろいろと学ばされる本です。

 その最後に、地獄の悪魔研修所における晩餐会で、スクルーティプが蕩々と演説をする場面があります。

 今宵われわれが苦悶を賞味いたして参りました人間どもの霊魂はなんとも貧弱な品質でありますことは、否むもおろかであります。腕によりをかけたわれらの拷問者蓮のさすがの料理術といえども、もともと味気ないものをうまくは調理できなかったのもことわりであります。
 ああ、今ひとたびファリナータかヘンリー八世、せめてヒットラーでいいからかぶりついてみたい。あの本物のパリパリした歯ごたえ。噛めば噛むほどに味のある猛然たる憤怒、独善、残忍。これらはわれわれにひけを取らぬほど豪快でありました。のどを通る時のあのジタバタするえびのおどりのような味わい。のみ下せばはらわたにジーンとしみわたるあのぬくもり。
 それがどうです。この今夜の献立ときたら。汚職ソースあえの市当局者というのがありましたね。だがわたしなりに申しますと、そこには前世紀の財界巨頭たちの、われわれを狂気させた真に情熱的で残忍な貪欲の風味など、薬にしたくもありませんでした。あれこそまぎれもない小物―けちな冗談をこっそり言いながら懐にしては、人前でうんざりするような月なみな言辞でしらを切ったけちなリベートの犠牲―自分が汚職しているという自覚はうすうすあるものの、みんながやっているというだけで汚職へと押し流されたうすぎたない名無しの権兵衛―そんなところでしょうかね。それからあのなまぬるい浮気男浮気女の抱き合わせ煮。本当に燃え上がった、挑戦的な、反逆的な、飽くなき情欲、そんなものがかけらでも見つかりましたでしょうか。否。どれもこれも性的に未熟な白痴どもが、何を血迷ったか、フラフラと他人のベッドへもぐりこんだはよいが、それというのもセクシーな広告への条件反射なのか、それともモダンで解放された人間という気分を味わうためか、それとも自分の「男性」ないしは「正常性」を確認したかったのか、はたまた他にすることがなくて退屈だったからか。率直にいいまして、メッサリーナとカザノーヴァの味を一旦知りましたこの身には、これは胸の悪くなるしろものでありました。ハッタリ粉でまぶした労組委員長の方がまだしもだった。彼は何ほどかの実害をなした人物だったからであります。彼は知らず識らずに、流血、飢餓、自由の壊滅のために貢献したのでした。そう、ある意味で。それにしても何たるやり方! 彼はそんな究極目的のことなど考えやいたしません。党路線の踏襲、自尊心、何よりも日常業務が彼の生活を真に支配していたものであります。
 だが、次の所が肝心の点であります。美食の観点からは、以上のことは嘆かわしいことではありますが、われわれの誰も、美食を第一に、という者はおらぬと思います。このことは、別の、またはるかに重大な意味において、希望と約束に満ちたことではないでしょうか。
 先ず量のみについて考えてください。なるほど質の方は目もあてられませんが、これほどふんだんに霊魂(とまあ言えましょう)が手に入ったためしはないのであります。
 次が勝利という点であります。そりゃ、こんな霊魂―と申しますか、ともかくかつて霊魂なりしもののふやけてとろけた残りかすーなんか、地獄に墜としてやるだけの値打ちもなかろう、と言いたいところであります。ところがです。敵は(何のへそ曲がりな理由があってのことか、見当がつきかねますが)ともかくそんな魂でも救う値打ちがあると考えたのであります。本当なのですよ。諸君はまだ若造で実際の勤務に服したことがないものだから、こんなくだらぬ人間どもの一人ひとりが、どれほどの労苦とどれほどの巧妙なわざでもって捕まえられたのか、お分かりではない。


 ルイスは、この悪魔の言葉を借りて、こう言いたいのでありましょう。地獄におとしてやる値打ちもないようなちんけな悪人でさえ、神様は価値あるものとして愛し、救い、天国にふさわしい義をお与えになって御自分のもとへとお招きになっている、悪魔はそのことを本当に脅威に感じているに違いないということです。

 悪魔に対抗できる《正義の胸当て》をつけるとは、このような神様の救いを信頼し、徹底的に依り頼むということです。自分の知恵や力、正しさ、経験、功績というものを少しでも誇ろうとするときに、私たちは傲慢に陥ったり、自己憐憫に陥ったりします。それはどちらも神様に心を閉ざす原因となり、悪魔のつけいる隙になるのです。

 そうではなくて、自分をまったく取るに足らぬ者としながらも、このような自分を愛し、自分を神様のものとして天国に招いてくださっている神様の愛、イエス・キリストの救いというものを心から信頼するのです。

 そして、もうひとつ《平和の福音を告げる準備を履物としなさい。》といわれています。履物とは、足をまもるために身につけるものです。足とは何か。それはしっかりと立つために、そして歩むためにあるわけです。歩みとは、日々の生活や人生のことだとも言えます。それがしっかりとしたものとなるためには、《平和の福音を告げる準備を履き物としなさい》といわれているのです。

 福音とは、今お話ししましたように自分の力によってではなく、神様の愛、イエス様の救いによって、私たちが救われることです。救われるとは、罪をゆるされて、神様との平和が与えられることですから、《平和の福音》と言われているのです。

 その救われた事実を「告げる」とは、隠さないでおおっぴらにするということでありましょう。それが神様の栄光を表すことになりますし、また神様の祝福を分かち合う兄弟を得ることになります。つまり、仲間が増えるわけです。一人で悪魔の策略に対抗しようとするのではなく、兄姉姉妹が互いに励まし合い、祈り合って対抗するということです。

 しかし、ここには《準備》と言われています。証しすること、宣べ伝えることが目標ですが、いつでもそれができるように準備をしておくことが大事だというのです。それは神様の愛を、キリストの救いを喜んで、感謝して生活するということです。ただそれだけのことですが、それが悪魔から自分を守ることになるのです。

 私たちは自分が神様のために何ができるか、そんなことをまったく想像もできません。いざという時、信仰を棄てて逃げ出してしまうのではないか、そんな危惧を覚えることさえあります。実際、ペトロは「たとえ死ぬようなことがあったとしても、あなたを裏切りません」と言っておきながら、イエス様の目の前で裏切ってしまうのです。私たちもそれと同じになりはしないかと心配があります。

 しかし、いざという時の力は、日頃の準備にかかっています。日頃から神様の愛とイエス様の救いを喜んで生活しているならば、いざという時にも思いがけない力をいただけるのではないでしょうか。それが平和の福音を告げる準備の履き物ということではないかと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp