天地創造 32
「信仰を守る戦いC 信仰の大盾」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章1〜6節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 第6章10〜20節
救いの物語
 聖書は、神様が天と地をお造りになったという物語のすぐあとに、アダムとエバが犯した罪の物語を描き出しています。ここに、私たちの世界の一番深いところに刻み込まれている、二つの物語が示されているのです。

 一つは、この世界は、神様の良き御業によって造られ、神様の祝福のもとに完成されたという物語です。もう一つは、この世界は、人間が造り主である神様に対して犯した罪によって、はじめの祝福を大きく損なってしまったという物語です。この二つの物語を内に抱きつつ、わたしたちの世界は存在しています。

 たとえば、自然界にしても、ほんとうに神様がお造りになったものだと思えるような美しさや輝きを見せることもあれば、恐ろしいまでの憤怒とか、残酷さとか、混沌さを見せることもあるのです。人間もそうです。人間のいのちの中にも、神様の祝福と罪という二つの物語が息づいています。ですから、天使のように見えることもあれば、悪魔のように見えたりすることもあるわけです。

 ただ、このような矛盾を抱えた世界や人間に、希望をもたらすことが一つあります。確かに、私たちが内にかかえている罪の物語というのは非常に深刻です。『エレミヤ書』13章23節には、こう語られています。

 クシュ人は皮膚を
 豹はまだらの皮を変ええようか。
 それなら、悪に馴らされたお前たちも
 正しい者となりえよう。

 良い人間になろうという決心や意志の力をもってしても、はたまた血が滲むような努力をもってしても、どうにもならないほど、罪の物語は、私たちの本性に絶望的に染みついてしまっています。

 もう一つ、そのことを的確に表した譬えがあります。『詩篇』78編57節

 先祖と同じように背き、裏切り
 欺く弓で射た矢のようにそれて行き


 真実を失い、罪を繰り返すあなたがたは《欺く弓》のようだというのです。1955年訳の口語訳では《狂った弓》と訳されています。弓が狂っていますから、いくら正しい的に狙いを定めても矢はとんでもない方向に飛んでいってしまう、それが私たち人間の有り様だというのです。

 それにも関わらず、わたしたちに一縷の望みがあるというのはどういうことかと言いますと、この罪の物語に先んじて、まず神様の祝福の物語があったということです。罪の物語をつむぐのは人間です。人間はただひたすら罪に罪を重ねる歴史を生きてきました。しかし、この世界には、もうひとり、まったく別の物語をつむぐ方がおられます。それが天と地を良き御業をもって、大いなる祝福のもとにお造りになった神様です。祝福の物語として世界の歴史、人間の歴史をつむぎ始められた神様は、それをいっぺんに損なうような罪の物語が入り込んできたにもかからず、なお祝福の物語を完成させるために、救いの物語をつむぎ始められるのです。

 私たちは単純に、この世界を神様が造られた良い世界だと言うことができません。神様がお造りになった世界の素晴らしさの一端を垣間見ることはありましても、それがすべてではないからです。だからといって、罪一色に塗り込められた悪しき世界だと言い切ってしまったら、そこには何の希望もありません。確かに罪の問題は深刻であり、豹の斑点のように消し去ることができないものとして染みついている。人間がいくら真実を求めて努力しても、曲がった弓のように矢はことごとく的を外れてしまう。それにもかかわらず、天地の造り主である神様は、この世界を元の祝福へと回復させようとしてくださっているのです。

 『詩篇』121編1〜2節にこうあります。

 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
 天地を造られた主のもとから。


 これは宮詣をする信仰者の祈りです。その道のりには、高き山々が難所としてそびえ立っている。それを見ると、心が挫けそうになってしまうのです。この山々を越えて、神様のもとにいくことなんて私のような足の弱い人間にできるのだろうか・・・しかし、そこで、この詩篇詩人はその迷いを振り切るかのように、《わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから》と言ったのです。困難を見たら挫けそうになる。自分を見たら弱気になる。しかし、神様を見上げる。そこから救いが来ることを信じる。こうして、詩人は足を強め、山を踏み越える旅路を歩み出すのです。

 新約聖書にも、こういう話しがあります。イエス様のもとに一人の青年がやってきて教えを請います。「先生、永遠の命をえるためにどうしたらいいでしょうか」と尋ねるのです。この青年は、たいへん真面目な人で、幼いときから神様の戒めをきちんと守ってきました。しかし、それでも救われた気がしない。それで、わたしに何が足りないのか教えてくださいと、イエス様に尋ねます。すると、イエス様は、「あなたの持ち物をすべて貧しい人に施し、わたしに従ってきなさい」と言われました。これを聞いて、自分にはとうていそんなことはできないと思った青年はたいへん悲しい顔をしながら、イエス様のもとを黙って立ち去っていったのでした。

 これを見て、イエス様は「自分自身にたくさんのものを持っている人間が救われるのは、らくだが針の穴をくぐり抜けるよりも難しいことだなあ」と、弟子たちに漏らされます。弟子たちは「それじゃあ、いったい誰が救われるのですか。本当に救われる人なんているのでしょうか」と尋ねます。すると、イエス様は「それは人間にはできないことだが、神にはできる」とお答えになりました。人間は自分の力で自分を救うことができません。しかし、神様が救おうと思えば、どんなところからでも私たちを救い出してくださる。この神様に望みを置いて生きること、それが信仰です。

救いの大盾
 私たちは、エバが禁断の木の実を食べてしまったというところまで『創世記』の学びをして参りました。そこから少し横道に逸れて、悪魔の策略に対抗するためにどうすればいいのかということを学んでおります。それには神の武具を身につけ、神様の力によって強められることが必要で、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を伝える準備の履き物というところまで学んできました。それに続く16節、「信仰の盾」についてです。

 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 
 これは、わたしたちの信仰が悪魔の策略によって揺るがないようにするための戦いです。それならば、信仰を盾としてしっかりと握りしめるということは言うまでもないことでしょう。しかし、信仰を握りしめるということはどういうことでしょうか。それは、信じる気持ちを強くすることでしょうか。

 私たちはよく、信仰が強いとか信仰が弱いということを言うことがあります。そこで問題となるのは、信じる気持ちです。信じる気持ちが強いから、疑わない。望みを持ち続ける。信じる気持ちが弱いから、疑ってしまう。そしてすぐ恐れてしまう。しかし、信じる気持ちは、人間の内側から起こってくるものであるかぎり、やはり弱さがあるのです。前回も申しましたが、私たちが相手にしているのは悪魔でありますから、100パーンセトでなければ意味がありません。悪魔にしてみれば信じる気持ちが40パーセントの信仰も、80パーセントの信仰も大差がありません。悪魔は弱いところを確実についてくるからです。

 実は、信仰の確かさとは、信じる気持ちの大きさからくるのではなく、何を信じるかということから来るのです。「鰯の頭も信心から」と申します。何であれ、そのことを強く思えば何かしら力が湧いてくるということがあります。しかし、どんなに強く念じても、鰯の頭が何か力をくれるのではありません。私たちの信仰はそのようなものの延長ではないのです。信じる気持ちの強さではなく、何を信じるかという信仰の内容の確かさ、そこに信仰の力があるのです。

 何を信じるのでしょうか。神様の救いの物語を信じるのです。私たちの罪がいかに深くとも、いかに染みついていようとも、それをぬぐい去ることはらくだが針の穴をくぐるより難しいと言われようとも、神様は私たちの罪をゆるし、はじめの祝福へと招き、私たちのうちにある祝福の物語を回復してくださるということなのです。

 『コロサイの信徒への手紙』1章23節には、こう記されています。

 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。

 私は「信仰の盾をしっかりと握りしめる」と言いましたが、ここには《揺るぐことなく信仰に踏みとどまり》と書いてあります。握りしめるも踏みとどまるも同じことを言っています。では信仰にしっかりと踏みとどまるとはどういうことかといえば、それは《福音の希望から離れではならない》ことだというのです。

 わたしは「神の救いの物語」と言ったのですが、同じことが《福音の希望》と言われています。そこから離れないことが大事なのです。なぜなら、私たちを強めてくれるのは、この福音だからです。福音とは何か。いつも言っていることですが、イエス様がしてくださったこと、してくださること、この二つによって私たちが救われるということです。私が何をしてきたか、何ができるかということは、いっさい関係がないのです。そういう私たちの業によってではなく、神様のめぐみによって救われるということ、それが福音です。そのことを知り、そのことを信じて生きること、それが信仰なのです。

 信仰の確かさとは、信じる気持ちの強さにあるのではなく、何を信じるのかという信仰の内容によるものであるということ、そのことをはき違えると信仰はまったく力になりません。むしろ、わたしの信仰はダメだ、ダメだという嘆きで終わってしまうのです。信仰さえも自分の力に頼っているからです。信仰の盾を取るとは、信仰の内容を、つまり福音を知るということです。このことを知れば知るほど、私たちは神様から力が与えられることを知ることになり、それが私たちの力になるのです。 
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email: yuto@indigo.plala.or.jp