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悪魔の策略に対抗するためには、神の武具を身につけなさいと語られています。真理の帯を腰に締め、正義の胸当てをつけ、平和の福音を宣べ伝える準備を履き物とし、信仰を盾として持ち、救いの兜を頭にかぶり、霊の剣を手に取りなさいというのです。いろいろありますけれども、神の武具を身につけるとは、ようするに神の力にまもられるということでありましょう。
神の力にまもられるということに関して、ある本にこんなことが書かれていました。小さな子どもが大切にしていたオモチャを壊してしまいます。自分で直そうとあちこちいじってみるのですが、オモチャは直りません。それどころかいじればいじるほど、オモチャは収拾がつかなくなっていきます。どうしようもなくなった子どもは、オモチャをお父さんのところにもっていき、直してくれるように頼みました。お父さんはオモチャを受け取り、「大丈夫だよ。わたしに任せなさい。」と約束してくれました。
私たちにも、自分ではどうすることもできなくなって、なんとかしようと藻掻けば藻掻くほどこじれて、収拾がつかなくなってしまう問題があるかもしれません。そのような時、「大丈夫だよ。わたしに任せなさい」と言ってくださる天の父なる神様のところに行き、問題を神様にすっかりお願いすること、そして神様の力によって問題を解決していただくこと。それが神様の力にまもられるということなのです。
ところが、その時、私たちの弱さ、愚かさが現れてしまうことがあります。壊れたオモチャをお父さんに預けた子どもは、「ほら、直ったよ」とオモチャを返してくれるのを待つだけでよいはずでした。その間、子どもはまったく別の遊びをしていてもいいのです。ところが、よほど大切なオモチャであったのでしょう。オモチャのことが心配でならない子どもは、ずっとオモチャを直し始めたお父さんを傍で見守っていました。それは良いのです。ところが、子どもはお父さんがやることにいちいち口を出します。「なぜ、そのネジを外すのか? そんなことをしたら、余計バラバラになってしまう」とか、「壊れているのはそこではない。こっちだ」とか、お父さんはちゃんと直し方を知っており、手順を考えて仕事をしているのに、子どもはそれを理解できませんから、黙っていられないのです。その度に、お父さんは「心配しなくても大丈夫。お父さんに任せて起きなさい」と諭すのですが、子どものイライラは募り、ついにお父さんの手から「もういい!」とオモチャを取り上げて、また自分でオモチャをいじりはじめ、ますます収拾が付かなくなってしまったのでした。
神様が、私たちの問題を取り扱ってくださるとき、私たちもこの子どものようなことを神様にしていないでしょうか。つまり、いちど神様に預けた問題を、また自分の手に取り戻そうとしてしまうのです。自分ではどうにもならないと分かったからこそ、神様にお願いをしたのに、神様のやることにああでもない、こうでもないと難癖をつけたり、余計な手出しをして、神様がわたしたちのためにしようとしておられることを、自分自身で妨害してしまう。そんなことがないように、私たちは神様の力の前にもっともっと遜らなければならないのです。
『ペトロの手紙一』5章6〜7節には、このように勧められています。
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
《神の力強い御手の下で自分を低くしなさい》とは、自分の無力さを認めるということです。これがなかなか難しいのです。たとえば、イエス様はこう言われます。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
イエス様も《わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。》(『ヨハネによる福音書』15章5節)と、私たちの無力について語られています。私たちは、イエス様を離れては本当に何もできないのでしょうか。教会に行かなくても、聖書を読まなくても、お祈りをしなくても、イエス様のことなんて何も知らなくても、それなりにできることがあるように思えます。実際、そのように生きている人はごまんといるのです。しかし、イエス様が仰っておられるのは、私たちが自分の力で何かをしているつもりになっていたとしても、結局、それは何も実を結ばないだろうということなのです。
子どもが一生懸命にいじってオモチャを直しているつもりになっていても、実際にはますます自体を悪くしているのと同じです。お恥ずかしい話しですが、わたしもそれと同じことをよくやります。たとえば水道の蛇口から水が漏れていた。パッキンが傷んでいたのです。これぐらい水道屋を呼ぶまでもない。自分で直せると高をくくった私は、ホームセンターに行き、パッキンを購入しました。そして、水道の元栓を閉め、新しいパッキンに交換したのです。これでもう水漏れはしないはずです。そして、水道の元栓を明けた途端、蛇口から噴水のように水が噴き出しまして、台所を水浸しにしてしまったのでした。
こんなこともありました。自転車がパンクの修理をした時にもこんなことがありました。修理の仕方は知っています。道具も、材料もあるし、いくらかの経験もありました。ところがパンク修理が終わったと思ったら、どういうわけかチューブが破裂をしてしまいまして、自転車屋でチューブを交換しなくてはならないはめになってしまったのです。要するに、私が不器用なだけな話しですが、それにもかかわらず自分でできると思ってしまう。その結果、ますます自体を悪くしてしまうのです。
水道や自転車のパンクなら、その程度の話しで済みましょう。しかし、人生の問題はそうはいきません。私たちは毎日の生活を自分の力で一所懸命に生きていると思っているかもしれません。けれども、それが最終的にどういう結果をもたらすのかは知りません。すべてがうまくいっているようにおもっていても、私がした水道修理のように、最後に蛇口をひねったらとんでもないことになるかもしれないのです。《わたしを離れては、あなたがたは何もできないのである》とは、そういうことです。わたしたちは人生に対して無力な者である、だからわたしたちにつながっていなさい。そうすればあなたがたは豊かに実を結ぶ人生を生きることができるのだ、とイエス様は言われるのです。
イエス様は、神様から遣わされた救い主です。それなら、イエス様につながっているとは、神様の救いの力につながっているということに他なりません。ペトロが言う「神様の力強い御手の下で自分を低くする」ということも、同じことです。神様が自分より偉大であるということは、わたしたちの誰もが知っています。しかし、神様なしには自分はまったく無力であるということを知らないばかりに、「この程度なら」とか、「今はとくに必要ない」という具合に、神様をないがしろにして生きてしまうことがあるのではないでしょうか。
さて、話しは神の武具であります。神の武具で身を鎧うとは、神様の力に依り頼むと言うことです。それならば、神様の前に自分を無力な者とし、自分が創り出した真理、正義、福音、信仰、救いを役に立たないものとして捨て去ることです。この無力さが、実は私たちの力となります。なぜなら、この無力さの中にこそ、神の力が宿るからです。コップの中に砂がいっぱい入っていたら、そこに水を入れることはできません。私たちは自らを空のコップとして神様に差し出す必要があります。そうすれば、そこに神様の力がいっぱいに注がれるのです。
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今日は神の武具の最後に記されている《霊の剣》のお話しです。霊とは聖霊のことです。聖霊については、よくわからないという話しを聞くことがあります。それは聖霊が、私たちの内なる御方であるからでありましょう。聖霊はわたしたちの身体を神殿としてお住みくださると、聖書に書いてあります。そのように聖霊は、無力さをもって神様に明け渡された私たちの内側に注がれて、私たちのうちに聖霊が創り出す知恵や心や力をあふれさせてくださるのです。
いくつか聖書をあげてみましょう。『コリントの信徒への手紙1』12:3
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
私たちに信仰を与えてくださるのも聖霊の働きであると言われています。自分の知恵や力で信じるのではなく、聖霊が私たちの信じる心となってくださるということなのです。また、『ローマの信徒への手紙』15章13節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
聖霊は、私たちを希望に満ち溢れさせてくださるとあります。希望とは、良いことを思い描くことができる力です。そのために、聖霊は私たちに神様の恵みやご計画が何であるかというものを悟らせてくださいます。また、同じ『ローマの信徒への手紙』ですが、5章5節にはこのような言葉もあります。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
聖霊によって、神様の愛が私たちの心に注がれると言われています。聖書によれば、信仰、希望、愛というのは、私たちの精神力で持つものではありません。聖霊が私たちのうちに創造してくださる心なのです。聖霊は、私たちの内に信仰、希望、愛を創造し、私たちを新しい心を持った人間にしてくださるのです。
このような聖霊に満たされた人となり、聖霊の導きに従って生きる時、私たちは悪魔の世にあっても、強く雄々しく、大胆に生きるものとされていくのです。
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聖書 新共同訳:
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