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最初に、『創世記』第2章7節を読んでみましょう。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
神様は人間をまず《土の塵》で形作られました。それは、たとえ人間が内なる命として神の息、つまり神の霊をいただく者であったとしても、あるいは神の似姿をもっているとしても、はたまた生きとし生けるものを支配する力をもっていようとも、《土の塵》としての限界の中に生きる者であることを物語っています。《善悪の知識の木》もそうです。神様は、これを《決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう》と言われました。それは人間には踏み越えてはならない限界があることを意味していました。このような人間としての限界の中で、神を神として崇め、その祝福に与って生きることが、わたしたちに対する神様のみこころなのです。
しかし、アダムとエバは、《善悪の知識の木》に手を伸ばし、その実を口にしてしまいました。それは、神様がお定めになった人間としての限界を踏み越えようとすることであり、すなわち神様との関係を壊すことに他なりませんでした。
その結果、どのようなことが人間の身に起こったのか。3章7節に、こう記されています。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
《善悪の知識の木》の実を食べたアダムとエバは、目が開けたと書かれています。目が開けるとは、今まで見えなかったものが見えるようになるということです。二人は、目が開ければどんなにか素晴らしい世界が見えてくるだろうと期待をしたかもしれません。しかし、彼らに見えてきたのは世界のすばらしさではなく、まったく自分たちのみずぼらしい姿でした。これが善悪の知識のもたらしたものだったのです。
善悪の知識は、それ自体悪いものではありません。むしろ、さまざまな知識の中でも、トップクラスの重要な知識でありましょう。しかし、人間は、この知識を完全に自分のものにすることができないのです。これもまた、神様がお定めになった人間の限界なのです。だからこそ、神様は人間が善悪の知識を持つことをおゆるしにならなかったのです。
善悪の知識は、中途半端に身につけることが一番よくないことです。善を知っても、善を行うことができない。悪を知っても、悪を避けることができない。そのくせ、他人の悪は厳しく裁き、自分自身はこざかしい知恵で善人のようにふるまう。彼らは、自分たちの裸の姿、つまりあるがままの姿を恥じるようになったとあります。それは、彼らがお互いの姿を批判の目で見るようになったからでありましょう。また、いちじくの葉で身を隠したと記されています。それは、自分たちを善なるものに見せかけようとすることでありましょう。彼らは、善悪の知識を身につけたところで、このような中途半端な知恵しか持ち得なかったのです。
これは、人間の良心の不完全さを意味しています。善悪の判断をするのが良心です。聖書によれば、最初、人間は善悪の知識をもっていなかったのですから、良心なるものがなかったことになります。だからといって、すべてを本能によって行動していたのでもありません。それでは動物と変わりがありません。人間と動物の違いは、神様の愛に対して能動的に応答することができるということです。彼らは、善悪の判断をもって行動するということはありませんでしたが、神様に対する愛と信頼、つまり信仰を基準に自分たちの行動を決めることができたのです。
禁断の木の実を食べる行為もそうです。彼らには、それが善であるか、悪であるかという判断を迫られたのではありません。神様の言葉を信じるか、蛇の言葉を信じるか、そのような信仰の判断こそ迫られたのです。そして、彼らは神様の言葉をないがしろにし、蛇の言葉を信じました。その結果が、神様の愛に対する裏切りとなり、人間の堕落となったのです。
したがって、この堕落以前には、善悪を判断する良心というものはありませんでした。人間の良心は、善悪の知識の木から取って食べるという、不信仰の行動によってもたらされたものなのです。そして、彼らは以後、神への信仰ではなく、つまり神様への愛と信頼ではなく、自分たちの良心にしたがって行動するようになります。しかも、たいへん不完全な良心によって行動するのです。
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そのことを、よく物語っているのが、第3章8〜9節でありましょう。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(第3章8-9節)
《主なる神の顔を避けて》と記されています。これが、神様への愛と信頼によってではなく、自らの良心に従って行動したアダムとエバの姿でした。彼らが神様の御顔を直視できなかったのは、彼らに良心があるからです。神様が園の中を歩み二人に近付いてこられる音を聞くと、彼らの良心は、彼らの心に語りかけます。「お前は神様の言いつけを守らず、罪を犯した。お前は悪い人間だ。神様の前に立つことはできない。そんな資格はない。お前は神様を裏切ったのだ。悲しませたのだ。どうして、神様の顔をまっすぐに見ることができるのか。どうして、神様の前に立つことができるのか。」 そして、彼らは木の間に身を隠すのです。自分が罪人であることを知るがゆえに、神様から身を隠さざるを得なかったのでした。
そのことは、神様とアダムのやりとりでいっそう明らかにされていきます。9〜10節を読んでみましょう。
主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神様は二人に、《どこにいるのか》とお尋ねになります。それに対して、アダムは《恐ろしくなり、隠れております》と答えています。「恐ろしくなった」とは、アダムの苦しみを表しています。神様が共にいるということは、アダムにとって祝福のすべてでしたが、それがこの上なく苦しいことになってしまったのです。
《わたしは裸ですから》とアダムは答えます。それは「わたしは恥ずべき者ですから」という意味でありましょう。アダムの良心が、「お前は自分が神様の前に何のふさわしさもない人間である」と告げているのです。それゆえ、神様が訪ねてきても、アダムは恐れ、不安になり、それを少しで和らげるために、身を隠したわけです。
すると、神様はどうしてそんな考えをするようになったのかと、アダムに尋ねます。11節
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
神様は、その答えを知らなかったわけではありません。神様はすべてをご存じでいらっしゃいます。では、なぜ神様はアダムに尋ねるのでしょう。それは、もう一度、御自分の前に、アダムを立たせたいのです。
「あなたはどこに隠れているのか。どうして、わたしの前に出てこないのか。アダムよ、隠れ家から出てきなさい。自分で自分を非難することをやめなさい。自分は悪い人間だとか、自分に資格がないとか、私が厳しく臨むであろうとか、自分を責め苛む良心に、あなたは苦しんでいる。しかし、そのような良心によって絶望し、本来のあなたを失うことがあってはならない。あなたの本来の姿は何か。あなたに必要なことは何か。それは、わたしに対する愛と信頼をもって、わたしの前に立つことではないのか。たとえあなたが罪を犯しても、中途半端な良心によって苦しんでいようとも、わたしはあなたの造り主であり、あなたを愛し、あなたのその苦しみから救うことができるのだ。さあ、わたしの前に立ち、あなたのしたことを正直に告白し、わたしの変わることのない愛とゆるしを受け取りなさい」
神様がおっしゃりたいのは、そういうことであったのでありましょう。そうでなければ、神様がアダムに呼びかけたりする必要はなかったのです。「この実を食べたら、必ず死ぬ」と警告しておいた通り、何の弁解も求めずに裁きを行えば済むからです。しかし、神様はそうなさいませんでした。アダムを呼び求められたのです。そして、御自分の前に出てくるように促されたのです。
アダムはこのような神様の愛に応えることができませんでした。12節、
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
アダムは、善悪の知識の木から取って食べたことを白状しました。しかし、アダムは言い訳をします。彼の中途半端な良心が、そうさせるのです。
「お前は確かに悪いことをした。それは神様の裏切りだ。罪だ。しかし、本当にお前のすべてが悪いのか。最初に食べたのはエバではないか。エバがお前に実をわたしさせしなければ、お前はこんな罪を犯さずに済んだのではないか。そして、そのエバをお前に連れてきたのは、神様ご自身ではないか・・・」
アダムの良心は、アダムに善と悪を教えます。お前は罪人である。しかし、お前をそうさせたのはエバではないか、もっと元を辿れば神ご自身ではないか。お前にも三分の理があるではないか。こうしてアダムは、神様から逃げるのです。そうです。アダムは神様の前から隠れただけではなく、逃げるのです。わたしの前に立ちなさいという神様の呼びかけに対して、アダムのとった行動はそれでありました。エバも同じです。13〜14節、
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
神様は、お前は罪人だから、わたしの前に立ちなさいと求めておられるのに、アダムとエバは、「わたしは罪人だから、あなたの前に立つことができません」と言っているのです。 |
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「あなたはどこにいるのか」 神様は今もわたしたちを尋ね求めておられます。
イエス様は言われました。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書19章10節
私たちも、もし良心すなわち善悪の知識をもって、神様を見上げるならば、アダムの子、エバの子として、彼らの道を歩むことになるでありましょう。「わたしは罪人だ。わたしはとても神様の前に出る資格はない。」とか、「わたしだけが悪いのではない。あの人も悪いのだ。神様も悪いのだ。」と、私たちを呼び求める神様の御顔を避け、自己義認や自己憐憫の中に身を隠したり、逃げてしまうのです。
イエス様がザアカイを呼び求められたとき、人々はこうつぶやきました。
「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
こんなことをいう人たちも、自分の壊れた良心に従って、自己義認に陥り、神様の御顔を避けている人々でありましょう。
しかし、神様が私たちに求めているのは、そのような良心に照らしたり、善悪の知識をもって、偉そうなことを言ったり、人を非難したり、はまたま神様までも非難したり、自分を傷つけたり・・・つまり、ザアカイのように身を隠しながら、神様を、見下ろすことではないのです。私たちの携えている中途半端な善悪の知識によってではなく、信仰をもって神様の御前に立つことです。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
私たちがどこにても、たとえ自己義認の傲慢の高みにいても、また自分を裁き、傷つけ、神様から逃げ出すところにいても、神様は「あなたはどこにいるのか」と捜し求めておられます。それは私たちを裁くためではなく、ゆるし、癒し、新しく生まれ変わらせるためです。私たちは、《あの人は罪深い男のところに行って宿をとった》と、つぶやくような人間ではなく、ザアカイのように喜んで木からおりてきて、御前にひれ伏す者になりたいと願います。
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