天地創造 39
「不信仰との戦いに生きる人間」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記3章14〜15節
新約聖書 マルコによる福音書 第9章14〜29節
自己否定と自己義認
 神様に「食べてはならない」と禁じられていた善悪の知識の木から、実を取って食べてしまったアダムとエバは、目が開け、善悪の知識を得ました。しかし、そのことがふたりにもたらしたのは、大きな不幸でありました。彼らは、自分が裸であることを知り、いちじくの葉で裸を覆い隠します。神様がお造りくださったままなる姿を受け入れることができず、それを自分で覆いかくすようになってしまったのです。そこには、自分を、少しでも善く見せようとする心理が、働いているのでありましょう。つまり自己義認です。

 このときから、人間は、自分のなかに、大きな矛盾を抱えて生きることになります。一方では、神様が善きものとしてお造りになった自分の姿を否定し、他方では、自分は善い人間であるかのように振る舞おうとする。しかし、善い人間になろうとすることは、神様の創造の御業として自分が、善しとされていることを否定することを出発点としているわけですから、自分を善くしようとすればするほど、自分を否定し、神様から離れていくということになってしまうのです。

 それが示されているのが、先週お読みしました『創世記』第3章8〜13節です。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか。」
 彼は答えた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神は言われた。
 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 アダムは答えた。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。
 「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」


 神様が近付くと、アダムとエバは、さっと園の木の間に隠れてしまいます。そんなアダムとエバを見て、神様は、「どこにいるのか。なぜ、そんなところに隠れているのか。出て来なさい」と呼びかけます。しかし、ふたりは出てくることができません。神様の言いつけに背いてしまったわけですから、すぐに出てこられないのは当然かもしれません。

 しかし、本来であるならば、罪を犯したからこそ、神様の前に立って、「ごめんなさい」と言うべきではないのでしょうか。もし、罪を犯したとしても、神様への愛と信頼の中に生き続けていたならば、そのようにしたでありましょう。けれども、善悪の知識を身につけたふたりは、そうではなかったのです。彼らは、もはや神様への愛と信頼によってではなく、自分のうちにある善悪の知識によって生きる者となってしまいました。神様の声に聞き従うのではなく、自らの良心の声に聞き従う者となってしまったのです。

 神様が「隠れ家から出て来て、わたしの前に立ちなさい」というと、彼らの良心は彼らに「お前は罪人であるから神様の前に立つ資格がない」と語りかけます。「お前は食べるなという実を食べたのか」というと「あの女が悪い。あの蛇が悪い。神様があんなの女を連れてこなければ、あんな蛇を造らなければ」と自己弁解をするのです。神様は、彼らをもう一度御自分の前に立つ者にしようとしておられるのに、それがあってこそ和解もあったのであろうに、彼らは決して神様の前に立とうとせず、神様から逃げるばかりの人間になってしまったのです。
サタンに対する敵意
 それゆえ、アダムとエバは神なき世界に生きることになります。この「神なき世界」という言葉は、誤解を招きやすいので説明しますと、本当に神様がいない世界なんてどこにもありません。しかし、神様がおられても、神様の前に立つことができない。神様の愛と祝福のうちに生きることができない。神様がおられるにも関わらず、神と共に生きられない世界、それが「神なき世界」です。

 では、この「神なき世界」は、神に見棄てられた世界なのでしょうか。いいえ、神様は、決してこの世界を見棄ててはおられません。神様は、この世界を創造し、祝福された言葉とは別の言葉をもって、神様から離れてしまった人間と世界をお支えになります。それは約束の言葉です。人間は罪を犯したゆえに、そして神様の前に立つことを拒んだがゆえに、神様の無条件の祝福を失いました。それゆえ、「神なき世界」に生きることになりました。しかし、神様は、このような人間を見棄て給うことなく、約束の言葉をお与えになり、人間を神の約束に生きる者とされたのです。

 今日はそのことを聖書からみてまいりたいと思います。神様はまず、エバを誘惑した蛇に語りかけました。

 主なる神は、蛇に向かって言われた。
 「このようなことをしたお前は
 あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
 呪われるものとなった。
 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
 わたしは敵意を置く。
 彼はお前の頭を砕き
 お前は彼のかかとを砕く。」


 神様は、《このようなことをしたお前は》と、蛇に言います。《このようなこと》とは、何でしょうか。蛇がしたことは、禁断の木から実をとり、「さあ、これを食べなさい」とエバに手渡したことではありませんでした。「食べなければ、承知しないぞ」などと脅かすこともありませんでした。ただエバに語りかけ、話しをしただけなのです。しかし、それは、神様なしに生きる者の言葉でした。「あなたは神など必要ない。この実を食べれば、神のような知恵をもって、自分の力で生きていくことができるのだ」と言ったのです。

 このようなことをする者は、今日も私たちを取り囲んでいます。「神に祈っていても無益だ。世の中で成功し、幸せになりたいのであれば、自分の知恵と力を信じなさい。教会で聖書を勉強するのも結構だが、そんなことで飯が食えるわけではない。ほどほどにしなさい。それよりも勉強し、働くことの方が大切だ。」等々、かつて古代の蛇が語ったのと同じことを、つまり神様に依り頼む生き方ではなく、神様から自立する生き方を教える声が、21世紀の巷にも瀰漫しているのです。

 そのようなことを言う人たちは、決してサタンの顔をしているのではありません。子どもに優しい母親であったり、真面目に働いている父親であったり、裸一貫から成功をおさめた実業家であったり、思慮深い哲学者、科学者であったりします。しかし、神様は、《お前は、生涯這いまわり、塵を食らう》と、そのような者たちに言われます。這いまわるとは、天からもっとも遠いところで生きるということでありましょう。塵を食らうとは、天からの祝福、たまものに与ることなく、この世界が生み出すもの、所詮塵からとられた塵に過ぎないものに依り頼んで生きることになるということなのです。

 さらに、神様は、このようなに神なしに生きる者に対して、つまり人間中心主義者に対して、永遠に人類の敵というレッテルを貼られます。いかに多くの尊敬を集めていようとも、少しも悪い人に見えなくても、それは人間を真の幸福から遠ざけ、真っ暗な闇の中に迷い込ませる敵として生きるのです。そして、このような敵は、私たちのまわりに存在するというよりも、常に私たちの内側に潜んでいるものなのです。

 しかし、神様は、《敵意を置く》と言われました。ここに神様の恵み深い約束が隠されています。この敵意は、神様と蛇との敵対関係を意味するのではありません。女の子孫と蛇、つまり人類と蛇との敵対関係です。敵意があるとは、決して両立しない関係がそこにあるということです。私たちは、サタンに捕らえられて捕虜になることはあっても、決してその仲間にはならないということです。

 確かに、私たちはサタンの誘惑に負け、サタンの捕虜となり、サタンの言うがままの人生を生きてしまうかもしれません。しかし、他方で、私たちは神様のものであるという意識を失い、サタンとまったく同化してしまうということはないのです。たとえ今は、サタンに仕えていようとも、サタンは私たちの主ではなく、敵であり続けます。だからこそ、私たちは苦しみます。私たちの人生は、いつも敵に仕え、服従させられ、自分の本来を生きていないという思いをぬぐい去ることはできません。本当は神に仕え、神のもとに生きたいのに、それができないという思いが常に私たちを苦しめるのです。

 しかし、この苦しみこそは、神様がなおわたしたちを見棄て給わず、私たちが完全にサタンのものになることを善しとされない、もっと言えば、なお御自分のものとしてくださっている神様の憐れみの表れなのです。そして、たとえ私たちがサタンの奴隷となっていようとも、あなたたちは私の子たちなのだといい続けてくださるという、神様の約束なのです。

 今日は『マルコによる福音書』から、イエス様の癒しの記事をご一緒にお読みしました。ある父親が、悪霊に憑かれた子どもを、イエス様のもとにお連れして、癒しを願います。父親は「もしおできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いました。するとイエス様は「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」とお答えになります。父親は慌てて、「信じます。信仰のない私をお助けください」と言い直し、イエス様の救いを戴いたという話しです。文語訳で申しますと、「われ信ず。信仰なき我を助け給へ」という父親の言葉、これが罪を犯し、神様から逃げて生きる私たちの状況を、とてもよく物語っていると思うのです。

 私たちは、神の子どもらとして、神様のもとに帰り、神様の祝福のもとに生きたいのです。しかし、同時に、サタンによって心に植え込まれた神様に対する不信を、払拭することができません。信仰と不信仰、この相容れないものを一緒に自分の中に抱え込んでしまっているのが、私たちの姿です。信仰に立とうとすれば、必ずそこに不信仰がむくむくと頭をもたげてきます。その不信仰との戦いなくして、信仰に立つことができません。これは、みんなそうなのです。信仰者は、不信仰者ではないというのは間違った考えです。

 神様が蛇に言われた言葉はこうです。

彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。


 《彼》とは、エバの子孫ですから、私たちすべてのことでありましょう。私たちは蛇の頭を砕くことによって、つまり不信仰を砕くことによって、信仰に立ちます。しかし、ただちに蛇の反撃があり、不信仰は、私たちの信仰の足を、かかとを砕くのだというのです。このように、常に信仰と不信仰の相克に、私たちは生きています。それが罪を犯した私たちが背負わなければならない運命なのです。

 本来の神様によって与えられた祝福に較べたら、これは呪いだと言ってもいいことです。しかし、これを神の呪いとしてではなく、神の約束として聞くことが、そのことが神様に罪を犯し、神様から隠れ、神様から逃げ続けている私たちにとって大切なのです。いかなる約束か。先ほども申しましたように、たとえ私たちが不信仰であっても、サタンの奴隷であっても、なお私たちは神の子であり、決してサタンの子ではないということです。この約束に生き、サタンと戦い続けること、それが罪を犯した私たちに与えられた生き方なのです。

 しかし、この戦いのすえ、結局、不信仰に破れ、信仰などずたずたにされてしまったらどうなるのか? たしかに、私たちの内側に渦巻くサタンの力をみたら、そういう恐れや不安を拭うことはできません。

 けれども、神様の恵みの力が、私たちに勝利を賜ります。イレナエウス(115〜202)という人が、蛇に対する神様の言葉は、イエス・キリストによる救いを指し示すと解釈して以来、教会は、これを神様が最初に罪人に示してくださった福音の言葉として読んできました。つまり、女の子孫とは、イエス・キリストのことであり、イエス・キリストがかかとを砕かれながらも、サタンの頭を砕いてくださるという福音がここに示されているのだというのです。

 私としては、ここだけを読んでそのように解釈するのは、無理があるように思うのですが、しかし、決して的外れなことではありません。イエス様が、エバの子孫、つまり罪人の一人に数えられ、罪人の隣人として、サタンに勝利してくださることによって、私たちには、サタンに対する最終的な勝利が約束されたのです。イエス様も言われたように、私たちには戦いがあります。信仰に生きるということは、常に不信仰との戦いなのです。しかし、その苦しみもまた、神様の恵みであるということを、今日は覚えて感謝したいと思います。
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