天地創造 40
「喜びと苦しみの狭間で生きる人間」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第3章16〜19節
新約聖書 使徒言行録 第27章13〜26節
苦しみは神の罰か?
 わたしはクリスチャンである両親に育てられ、幼い時からこのエデンの園の物語に親しんできました。そして、何の疑問もなく、こんなふうに考えていました。アダムとエバは、罪を犯したために、神様の罰として生きるための苦しみを与えられた。その子孫である私たちも、同じ苦しみを運命として負っている。苦しみは、すべて神様に背いた罪の結果なのだ、と。

しかし、自分の人生を顧みたり、いろいろな苦しみや悲しみを背負いながら生きている人たちの人生と深く関わらせていただいたりしながら、聖書を丁寧に読み、学んでいきますと、どうもそういうことではないのではないか、という気がしてきたのです。

 いま申しましたように、わたしは子どもの頃から教会学校に通い、神様のこと、イエス様のこと、聖書に出てくる信仰者たちのことを学んできました。お祈りもしてきました。わたしは今、そのことを神様の恵みとしてほんとうに感謝して受け取っています。けれども、クリスチャン・ホームに育った子どもたちの宿命のようなものですが、ある時期、神様への反抗期のようなものが訪れ、神様に疑いを持つようになりました。聖書に書いてあることは本当だろうか? どうしてキリスト教だけが正しいといえるのか? そもそも神様なんて本当にいるのか? キリストが復活したなどという話しをどうして信じられるのか? 

 こういう疑問は、いくら上手に説明を聞かされても素直に了解できることではありません。信仰のことを頭で納得できるようになるためには、まず前提として神様を信頼していなければならないのです。ところが、まさにその前提が疑いの嵐で揺らいでしまっているのですから。

 しかし、このような懐疑の嵐が一気に静まり、心が讃美で一杯になるような事が起こります。それは私が神を疑い、自己否定の気持ちに悩まされ、世界が真っ暗に見え、その真っ暗な世界の中にポツンとひとりいる感覚が毎日ひしひしと押し寄せてくる・・・人生の中でもっとも深い絶望に落ち込んだ時でした。そのような時、わたしがただ一つ求め続けたのは、お金でもなく、立身出世でもなく、健康でもなく、生き甲斐でもなく、ただ救い主イエス様と出会うことでした。イエス様に出会うことができたら、もう自分の人生はどうなってもいい。死んでもいい。そんな気持ちで呻くような祈りを捧げることだけが、私にできる唯一のことだったのです。そして、それは今でも忘れることができない人生の最大の喜びに変えられました。まったく力ない祈りのなかで、わたしは、聖霊の力に溢れ、異言を語り、天の門に立つイエス様の姿を幻に見たのです。

 その後、わたしは牧師となり、いろいろな方の人生に、とくにその苦しみに関わり、共に祈る恵みが与えられました。そこでも、わたしは、苦しみのただ中にある人が、まさにその苦しみのゆえに神様を真剣に求め、その出会いを経験し、神様に愛に満たされるという姿を、幾度となく見せていただきました。そもそも、幸せであることを理由にして、教会を訪ねてくる方はほとんどありません。みなさんも、最初に教会に行こうと思ったときのことを考えてみれば、思い当たるのではありませんでしょうか。「私は毎日が幸せでなりません。どうしてもそれを神様に感謝したくて教会に来ました」という人は、どれだけいるでしょうか。ほとんどの方が、「わたしは毎日が苦しくてなりません。もし神様がいるならばなんとか助けて戴きたいのだ」といって、教会に来るのです。そして、その祈りは聞かれます。苦しみのただ中で神様に出会い、その愛を経験し、神様を讃美する者へと変えられていくのです。

 そういう経験をしてきますと、苦しみとは、本当に神様の罰なのだろうかと思うのです。苦しみがあればこそ、人間は神様を求める者となり、神様の呼びかけを聞く者となり、それにこたえて神様の御許に立ち帰る者になり、神様の御心を悟り、その愛を知る者となっていくのではありませんでしょうか。
苦しみは神の恵みか
そうだとするとと、苦しみの中には、苦しみだけではなく、神様の恵みも隠されているのです。

 この恵みは、神様の深い知恵によって隠されています。ですから、最初、わたしたちは、「なぜ、愛の神様がこのような苦しみをわたしに与えるのだろうか」と感じます。「神も仏もあるものか」と考えます。しかし、そのような人でさえ、やがて神様に出会い、讃美する者に変えられるのを、私は何度も見てきました。苦しみの中には、たしかに神様の恵みがあるのです。

 あなたの苦しみにはこういう意味がありますとか、このように考えれば苦しみは和らぎますなどと軽々しくいうことはできません。苦しみは、ひたすら苦しみでしかないのです。それにも関わらず、そのなかに神様の恵みが隠されているのです。わたしに言えることは、どんな苦しみ、どんな絶望であっても、神様は必ずなんとかしてくださるということです。

 パウロは、囚人としてローマに向かうため、ローマ皇帝直属の百人隊長ユリウスに引き渡され、イスラエルを出発し、地中海を航海していました。途中、たいへんな台風に巻き込まれ、船は舵を失い、船の人々は絶望しきってしまいます。『使徒言行録』27章13〜14節にはこう記されています。

 ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。

 彼らは最初、すべて自分たちの計画通りに事が運ぶのだと安心しきっていました。しかし、いざ進んでみると、「エウラキロン」という暴風に襲われ、自信満々で出港した船は難破してしまうのです。

 実をいいますと、この「エウラキロン」という暴風は、台風のような季節性の暴風でありまして、その知識と用心深さがあれば避けられるものでした。実際、10節をみますと、パウロはその危険を察知し、この護送の責任者である百人隊長ユリウスに航海の危険性について忠告していたのでした。しかし、自分たちの利益を優先する船長や船主は、「大丈夫だ」と言い張り、百人隊長も一囚人に過ぎないパウロのいうことよりも、彼らのいうことを信じたと書いてあります。

 このように、私たちが経験する苦難は、私たちがより注意深く生きていれば、避けられたものであるという場合が少なくありません。あとになって、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと悩むことが多いのです。しかし、時すでに遅し、後の祭り、どうすることもできない状況に陥ってしまうのです。15節にこうあります。

 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。

 この苦難は、自分の愚かさによるものだったのです。そして、私たちのそのような愚かさ、傲慢さを、敢えてそのままにしておかれる神様がおられるのです。神様は、私達が自業自得ともいうべき苦難に陥り、私たちが自分の望み通りに事が運ぶのだなどという思い上がりを徹底的に打ち砕かれるのを待っておられるのではないでしょうか。18〜19節にこう記されています。

 しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。

 積み荷のみならず船具まで、海に投げ捨てなければならなかった。このように守りたいものを投げ捨て、苦難に抗う術も一切なげすて、苦難という嵐のなかで、ただ流れに運命を任せるしかなくないまったく無力な人間となったということです。

 実は、このように自分の力をすべて失った時に、神様の恵みが表れます。天使がパウロに現れ、この航海には神様が共におられる、と励ましてくださったのです。パウロは、船の人たちを励まします。22〜26節を読んでみましょう。

 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」

 暴風のただ中にあっても恐れるな、船を失うとしても元気をだせ、天使が現れ、わたしたちの誰一人としていのちを失う者はないと告げられたと、パウロは船の人たちを励ましました。そして、こう付け加えたのです。

 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。

 この御言葉は、私たちが苦難にあるときに、ぜひとも思い起こしたい御言葉です。苦難の最中にも神様の知恵によって隠されている神の恵みがあるとしても、それがどこにあるのか、なんであるのかを、わたしたちが自分の知恵で知ることはできません。神の恵みが分からないまま、苦難は私たちが大切に守ってきたもの、依り頼んでいるものを容赦なく奪うに違いありません。しかし、神様は必ず、どこかの島に打ち上げてくださるというのです。

 それが真実であることが分かるまで、パウロの一行はさらに7日間、望みなく嵐の海のなかを漂流しなければなりませんでした。その間に、脱出用のボートを捨て、食糧までも捨てなければなりませんでした。しかし、彼らはみな救われたのです。

 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。

 このみ言葉は、たとえ自分の愚かさが招いた苦難であったとしても、またどこをみても救いの可能性がないような状況においても、多くの大切なもの、頼みの綱を失うことになろうとも、苦難のなかには必ず神様の恵みのご計画が隠されているのです。

 こう考えたらどうでしょうか。私たちが何でも自分の思い通りに満たされていたら、私たちは自分を信じ、神様を信じないでありましょう。何でも欲しいものを手に入れることができたならば、私たちの心はこの世に執着し、神様の御国に向かないでしょう。神様は、私たちが神様との愛と信頼関係に生き、神様の祝福のなかですべてを満たされる者となることを願い、この地上から天に向かって歩み出すようにと呼びかけ、招いておられるのです。

 ですから、私たちが思い通りにならないとしても、多くのものを失うとしても、その苦難は決して絶望ではありません。それは、神様の恵み深い招きであり、神様の国を忘れ、目に見えるものにつかりきって満足してしまうという誘惑から私たちを守り、まず神の国と神の義を求める者にするためのご計画なのです。

生きるための苦しみ
 さて、そうしますと、『創世記』3章16〜19節もまた、神様の呪いの言葉ではなく、罪を犯した人間が神様のもとに立ち帰るための恵みとして負わされた苦難だと読むことが正しいのではありませんでしょうか。

 確かに、罪が入り込むことによって、人間に対する最初の祝福は失われました。神様はエバに言います。16節、

 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」

 子どもを産むこと、育てること、男女が愛しあい、助け合い、共に生きることも、すべては、神様が最初の祝福としてお与えくださったことです。それが苦しみの伴うものとなったと記されています。つづいて神様はアダムに言われました。17-19節

 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 食べること、そして働くことも、エデンの園で人間に対する神様の祝福として与えられたことでした。しかし、それが苦難の伴うものとなることが告げられています。神様が、アダムとエバに告げられた重荷は、確かにその通りになり、その子孫である私たちも背負うものとなりました。

 しかし、聖書は、それだけが罪人の人生であるとは語りません。人生は、決して苦しみだけではないのです。男女が互いに愛しあい、子どもを産み、育てるということには、大きな喜びが伴います。仕事もまた、私たちに生き甲斐を与え、他者に必要とされたり、役に立ったり、感謝されたりするという喜びが伴います。食べることもそうです。それは私たちの楽しみとなります。つまり、愛すること、生み育てること、働くこと、食べること、これらの祝福は今なお私たちに与えられているのです。

 問題は、無条件に与えられていたこれらの生きる喜びは、決して無条件ではなくなってしまった。それらが生きる喜びであるがゆえに、それらを得るための苦しみや、痛みや、徒労や、悲しみを重荷として追い続けて生きなければならないものになってしまったということなのです。人間が、罪を犯したからです。この罪は、私たちが神様なしに生きようとするという罪です。

 しかし、その重荷の中にこそ、罪人である私たちに対する深い憐れみが、恵みが、神様の知恵によって隠されているのです。

 旧約聖書では、バビロン捕囚という民族の苦難が記されています。バビロン帝国に、ユダ王国が滅ぼされるという歴史的事件です。神殿は破壊され、エルサレムは焼き尽くされました。そして、王様を含め、国の主だった人たちが皆、外国に連れ去られてしまったのです。しかし、預言者エレミヤは、次のような神様の言葉を語ります。『エレミヤ書』29章10〜14節

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

 苦難というのは、決して罪の罰としての呪いではなく、罪人が神様に再び出会い、神様に立ち帰り、そこから新しい人生を生きる者とされるための恵みのご計画なのです。神様は、ご自分に対して罪を犯した人間を、なお見捨て給うのではなく、このように愛してくださっているのです。
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