天地創造 43
「カインの誕生」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第4章1〜16節
新約聖書 マタイによる福音書 第5章21〜26節
わたしたちとカイン
 『創世記』第1〜3章までを読んできました。これまでに学んだことをまとめてみましょう。第1に、神様は、天地万物の創造主であること。第2に、神様は、わたしたち人間の主であるということ。第3に、わたしたち人間は、神様に罪を犯し、楽園を追放された身であるということ。こうして聖書は、わたしたちが生きていく上で、忘れてはならない極めて重要な世界観、人間観を与えてくれているのです。

 しかし、これは、人間の知恵や経験では、確かめようもない話です。そもそも人間が生まれる前の話まで書いてあるのです。そんな話は、誰かの作り話だろうと言いたくなるのは当然です。実際、人間は、こんな聖書の話をまったく無視して、自分たちの知恵や経験だけで、宇宙の成り立ちはどうだったのか、人間とは何なのか、そういうことを一所懸命に考える人たちがたくさんいるのです。

 けれども、神なしにこの世界を考え、それだけのものにしようとするならば、わたしたちはまったく希望がない存在です。自分が何のために生きているのか、なぜ苦しみに耐えて生きていくのか、なぜ気の遭わない隣人とも一緒に生きて行かなくてはならないのか、そういう生きていく上の問題に、何もきちんと答えられない存在として、虚無に服してしまうのです。

 たとえば、今日お読みしました4章のカインとアベルの物語です。この物語は、これまで学んできた1〜3章とは違って、私たちの経験からしても、とてもよく分かる話、私たちの生活に今もある、非常に現実的な話しなのです。

 楽園を追放されたアダムとエバは、ふたりの男の子をもうけ、カインとアベルと名づけました。カインという名前は、「作る」とか「槍」という意味があるそうです。いずれにせよ、強さを象徴する名前です。他方、アベルという名前は、「息」という意味です。儚さ、弱さを象徴する名前です。二人の子は、同じ親から生まれながら、それぞれ違う性質、賜物をもっていました。

 親が生まれてくる子に願うことは、カインに対しても、アベルに対しても、同じであったに違いありません。しかし、親の思い通りに子どもが生まれてくるわけではありません。ある者は強く、ある者は弱く生まれてきます。ある者は荒々しい性格をもって、ある者は物静かな性格をもって生まれてきます。親は、それを神様からの賜物として受け取らなければなりません。これが現実です。

 ふたりはやがて成長し、カインは農業を、アベルは酪農を営むようになります。ある日、ふたりは、自分たちの働きの実りを感謝し、それぞれ捧げ物をもって神様を礼拝します。神様は、アベルとその捧げ物には目を留められます。ところが、カインとその捧げ物には目を留められなかったのです。

 なぜ、神様はこのような依怙贔屓をされるのでしょうか。これが、カインとアベルの物語のなかで、もっとも理解に苦しむところです。ただ、こういうことは、私たちの生きている現実においてしばしば経験していることでもあるのです。同じことをしていても、ある人は成功し、ある人は失敗する。同じような生活をしていても、ある人は健康であり、ある人は病弱である。願わなくてもとんとん拍子に人生が進んでいく人もあれば、どんなに願っても人生がうまく進まない人がいる。カインとアベルの物語は、そういうことを物語っています。

 「なぜ神様は・・・?」という問いに、なかなか答えられないとしても、これが私たちの生きている現実そのものであるということは、私たちがよく知っている現実なのです。

 物語は、さらに続いていきます。カインはアベルに嫉妬します。そして神様に対して顔を背けます。これもあり得る話です。私たちは、カインの気持ちが痛いほどよくわかるのです。嫉妬は、結局八つ当たりみたいなものですが、そんなことでもしなければ気が済まないほど、「なぜわたしばかりが・・・」という人生の理不尽さを経験することがあるからです。

  このような理不尽さを経験した時、人間は誰でも、神様に食ってかかるのではないでしょうか? 日頃から神様を礼拝している人間ならば、「わたしは、他の人に較べて遜色ないほど神様を敬ってきました。それなのに、どうしてあなたはわたしを顧みてくださらないのですか」と食ってかかるでしょう。また、まったく不信仰、無信仰に生きている人たちですらも、あまりの不条理を目の当たりにしたときなどは、「神様がいるならばどうしてこんなことが起こるのか」という考えが起こってきます。

 そして、殺人が起こります。カインは、アベルを野原に連れて行き、そこで殺害してしまうのです。「わたしは、そんなことで殺しはしない」と、この物語と自分との距離を感じる方もいるかもしれません。しかし、そうでしょうか。『マタイによる福音書』5章で、イエス様は、人を殺すとは刃物をもって命を奪うことばかりではなく、「ばか者」、「愚か者」という言葉、もっと今風に言えば「役立たず」、「関係ない」、「死んでしまえ」、「お前なんか生まれてこなければよかった」・・・そういう相手の人格、存在を傷つけ、否定することが、もう人殺しと同罪なのだ、と仰っておられます。相手の命を奪うとは、その延長線上にあることなのです。そうしますと、私たちは自分はカインとは違うと言えなくなってしまうのではないでしょうか。カインは私たちの中に住んでいると言ってもいいのかもしれません。

 他方、アベルはどうでしょうか。彼は、何も悪いことはしていないのに、カインに怨まれ、存在を否定され、殺されてしまいます。なぜ、カインに殺されなければならないのか。怨まれなければならないのか。アベルには、まったくわけが分かりません。

 このような現実も、私たちは経験します。自分は、誰に対しても善意をもって接しているのに、他人から悪意を受けて苦しんだことがない人がいるでしょうか。カインの攻撃性はもちろんのこと、アベルの受けた傷の痛みも、けっして他人事ではないのです。

神との関わり
 このように考えますと、カインとアベルの物語は、わたしたちの現実そのものであると言えましょう。『創世記』第1〜3章の、天地創造やアダムとエバの物語が信じられない人も、カインとアベルの物語はさもありなんと思わざるを得ないほど、まことに本当らしい話なのです。有島武郎の『カインの末裔』、スタインベックの『エデンの東』など、この旧約聖書の物語にインスパイアされて創り出された文学作品は実にたくさんあることも、それを物語っています。

 けれども、このカインとアベルの物語は『創世記』第1〜3章との深い関わりのなかで、はじめて意味をもってくる話なのです。つまり、神様が、天地万物の創造主であるということ。人間の主であるということ。人間が神様に対して罪を犯し楽園を喪失した者であるということ。このような前提を抜きにして、この物語を読むならば、「いったいカインの何が悪いのか?」、「アベルのどこが悲劇なのか?」ということになってしまいます。この物語が、わたしたち人間の現実であることは、紛れないもないことです。しかし、その現実の中で、自分はどう生きたらいいのかということまでは、説明も、理解できないのです。

 この物語について、より細かな考察は、次回以降にお話しをすることにいたします。今日は、次の一点を、心に留めたいと思います。それは、アダムとエバが楽園を追放された後も、神様はアダムとエバ、そして子ら、もっと言えば私たちに人間に対して、深い関心を持っておられるということです。

 それがなければ、神様と人間の物語は『創世記』第1章〜3章で終わっていてしかるべきなのです。第4章以降は、自らの罪のゆえに破滅していく人間、神なく望みなく地上をさまよう人間の物語ということになるのです。しかし、実際には違います。この第4章から、神と人間の物語、歴史が始まっているのです。

 人間の生々しい現実社会の中に、混沌とした人生の中に、なお神様がおられ、わたしたち人間に関わっていてくださる。しかし、いったい、どこにおられるのか。どのように関わってくだるのか。何をしてくださるのか。どこへ導いておられるのか。人間は何を信じ、どのように生きることができるのか。そのことを証しする壮大な物語が、この『創世記』第4章に始まり、『ヨハネの黙示録』に至っている聖書なのです。

 そのことは、第4章の最初から語られていることでもあります。まず『創世記』3章の最後に記されていること、23〜24節を見てみましょう。

主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

 人間は、神様に対して罪を犯したために、神様と共にある楽園から追放されてしまいました。楽園の門は堅く閉ざされ、人間は家から追い出された子どものように拠るべなき者として神の楽園の外に生きることになったのです。

 しかし、4章1節にはこう記されています。

さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

 楽園の外での生活がどのようなものであったか、その詳細は不明です。しかし、《アダムは妻エバを知った》とあります。《知った》とは、知識を得ることではなく、人格的に交わることを意味しています。つまり、互いに愛し合ったということです。

 二人の結婚は、罪のゆえに、はなはだ不完全なものになってしまったことは、すでに学びました。それにもかかわらず、ふたりは、互いに寄り添うことによって楽園の外でしっかりと生きていたのです。そして、子どもが生まれます。カインの誕生です。エバは《わたしは主によって男子を得た》と、カインの誕生をこの上なく喜びました。《主によって》とありますように、エバは自分が生んだ新しい命を主の賜物として受け取っていることがわかります。

 このように第4章は、まったく楽園から追放され、その扉を固く閉ざされてしまった人間が、それでもなお《主によって》生きていたことを、しかもその恵みに感謝しつつ生きていたことをもって始まっています。

 私たちも、追放されたアダムとエバの子孫です。カインの末裔です。混沌とした人生を生きる者です。しかし、それはあなたの犯した罪の結果だから仕方がないのだと、聖書は言わないのです。神様がアダムとエバになお恵み深く関わってくださったように、そしてカインに対しても語りかけてくださったように、私たちに関わり、《主によって》生きる道を示してくださるのです。
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