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前回は、「カインの誕生」についてお話しをいたしました。アダムとエバは互いに愛しあい、カインが誕生しました。そのとき、エバは、《「わたしは主によって男子を得た」》と、たいへん喜んだというお話しです。何の変哲もない話しですが、ここには、とても大切なメッセージがこめられています。カインの誕生は、神様に追放された罪人アダムとエバが、楽園への門を堅く閉ざされたその場所で、与えられた神の恵みであったということです。神様から追放された罪人が、神様から遠いところにおいて、なお神様の恵みと共に生きている。神様は、罪を犯した人間を厳しく罰し給う御方でありながら、御自分が罰した罪人に対して、なお恵み深く共におられる。そのことを、カインの誕生は物語っているのです。
そして、これが私たちの置かれている現実です。私たちはみな、アダムとエバの子孫です。私たちは、楽園にではなく、神様に追放された場所で、神の裁きを身に負って、生きています。しかし、神様の愛は、そのような人間の罪、また運命を超越しているのです。イエス様は、御自分を十字架につけた者たち、ご自分を裏切り、嘲り、罵り、御自分の着物をクジで分け合う者たちに対して、耐え難い雪辱と死の苦しみに耐えながら、なおその者たちのために、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。》と祈られました。神様の愛は、人間の罪よりも大きく、深いのです。
ダビデは、詩篇23篇のなかでこのように讃美しました。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
神様は愛をもって、追放した罪人を追いかけ給う御方である。この愛が、いつかわたしを主の家に連れ戻して下さる。この希望は、イエス様の十字架と復活によって、私たちにいっそう確かなものとして表されているのです。
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今回は、カインとアベルの物語のなかで、最も悩まされる部分についてお話しをしたいと思います。それは神様が、《アベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。》ということです。だれもが、ここを読むときに、「なぜだろう?」と思わされるに違いありません。そして、その理由が明確にされていないことに消化不良を起こすのです。今回の説教を聴いても、その消化不良はすっきりとはしないだろうと思います。それは、このことがうまく説教できないからというよりも、頭では分かっても感覚的に飲み込めないようなことが、そこにあるからです。
まず、2節前半をもう一度読んでみたいと思います。
彼女はまたその弟アベルを産んだ。
カインに続くアベルの誕生が記されています。ここには、カイン誕生のときにあった《「わたしは主によって男子を得た」》というエバの喜びの言葉が語られておりません。だからといって、喜びがなかったと考える必要はありません。しかし、カイン誕生の喜びは、特別な喜びだったのです。二人目も、三人目も、新しい命の誕生には、当然、大きな喜びが伴います。その命の価値に何の分け隔てもありません。とはいえ、やはり最初に子どもが生まれた時の感動、喜びには、格別なものがあるのです。
兄弟は、共に両親に愛されて成長したでありましょう。しかし、そこにも何かに付け、長子のカインが重んじられる場面があったのではないでしょうか。つまり、こう言ってもよいかと思います。カインこそは、アダムとエバに選ばれし子であった、と。こう言ったからといって、アベルに両親の愛情が注がれなかったわけではありません。アベルが、カインに劣る何かをもっていたということでもありません。それでもなお、アダムとエバにとって、最初に生まれたという理由だけで、カインは特別な存在だったのです。すると、この物語は、イエス様がおっしゃった《後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》(『マタイによる福音書』20章16節)という後先逆転の話であるということが分かります。
《後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》とは、どういうことなのでしょうか。イエス様の譬え話には、こういう話があります。ぶどう園の主人が、朝いちばんに日雇い労働者の集まる場所にでかけて行き、何人かの労働者を1デナリオンの賃金で雇い、ぶどう園に送るのです。ところが、朝9時頃、再びそこに行ってみると、まだ雇い主をみつけられず、暇をもてあましてぶらぶらしている労働者たちがいました。そこで、「あなたたちもわたしのぶどう園で働きなさい」と、彼らを雇い、ぶどう園に送り込みます。十二時、三時にも、その場所に行って、仕事にあぶれた労働者を雇います。さらに日暮れ近く午後五時にもその場所に行って、仕事のない労働者を雇い、ぶどう園に送り込むのです。
間もなく、日が暮れます。主人は、労働者たちに賃金を払い始めました。午後五時にやとった人たちに、1デナリオンを支払いました。1デナリオンは、ローマの兵隊の日当に相当する額です。それを見て、早朝から丸一日働き続けた労働者たちは、ひそかに自分たちはもっと多く貰えるだろうと期待をします。これは、当然の期待でありましょう。ところが、彼らが主人から受け取ったのは、ほとんど仕事をしなかった者たちと同じ1デナリオンだったのです。彼らは主人に不平を言います。「どうして一日辛抱して働いた私たちが、1時間しか働かなかった者たちと同じ賃金なのですか」と。すると、主人は彼らにこのように答えました。『マタイによる福音書』20章13〜15節を読んでみます。
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
こう話されてから、イエス様は、《このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。》と教えられたのでした。つまり、これは、神の自由な恵みを物語るお言葉なのです。この神の自由な恵みが、決して神様の気ままさを意味しないことは、《友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。》という主人の言葉によって明かです。神様は、真実な方です。神様は、約束を守られます。しかし、人間の常識にとらわれないで、それ以上のことをすることがおできになるのです。
追放した罪人を、恵みをもって追い続ける神様の愛も、同じことでありましょう。神様は、罪を犯しても「いいよ、いいよ」とおっしゃるような甘ったるい御方ではありません。もし裁判官が、愛する者が罪を犯して被告に立っているのを見たとき、裁きを曲げて無罪にしたら、正義が曲がります。神様は、そんなことはなさらないのです。しかし、裁判官が正当な裁きをくだした後、私人として裁きを負った愛する者を愛し、助け、その重荷を共に負ってやることは、何ら問題がありません。神様は、アダムとエバに裁きを宣告し、苦しみを負わせ、楽園から追放し、その扉を堅く閉ざされました。しかし、その上で、神様は、彼らに皮の衣を作って着せてやり、追放された人間をなお追い掛けて、これを恵み給うのです。これが神の自由な恵みです。 |
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しかし、この神の自由な恵みが、私たちの躓きとなります。カインが経験したことは、神様の自由な恵みが、自分ではなく他人を選んでいるということでありました。もし、神様が、カインとその献げ物を斥けられただけではなく、アベルとその献げ物をも斥けられておられたならば、カインは、それほど不機嫌にならなかったに違いありません。しかし、自分と同じように追放された処に生きている者に過ぎないアベルが、神様に御目を向けられた。わたしは憐れもうとするものを憐れむのだ、と言われれば、それまでのことです。しかし、だからといって、カインの心がすっきりするわけではありません。自分もまたアベルと同じように献げ物をし、同じように神の恵みを求めた。それなのに、なぜ、神の自由な恵みは、アベルに注がれ、自分はなかったのかという気持ちが、粘着物のようにカインの心にこびりついて、ぬぐえないのです。
ここで少し別のことを考えてみたいと思います。そもそも、どのようにしてカインは、アベルの献げ物が顧みられたことを知り、自分の献げ物が顧みられなかったことを知ったのでありましょうか。カインにしろ、アベルにしろ、神様の御顔や姿が見えたわけではないのです。それにも関わらず、カインは、アベルが顧みられ、自分が顧みられていないことを知った。どうしてでしょうか。
おそらく、献げ物に火がつきやすかったか、そうでないか。煙がまっすぐに昇ったか、そうでないか。そんなことではなかったかと思います。同じことをしていても、アベルの行う儀式は何かとうまく行くのに、自分はうまく行かない。そんなところが、真相ではないでしょうか。こういうことは、私たちもまたよく経験するわけです。なぜ自分はうまくいかないのか? なぜ自分だけがうまくいかないのか? パウロは、《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》(ローマの信徒への手紙12章15節)と教えておりますが、より難しいのは喜ぶ人と共に喜ぶということです。自分は失敗しているときに、他人の成功を「よかったね」と一緒に喜べる人はまずいない。たいていは、あまり良いことではないと思いつつも、嫉妬心がムラムラと湧き上がってくるのではないでしょうか。
カインは激しく怒って顔を伏せた
私たちもカインと同じなのです。だとしたら、ちょっと飛躍するようですが、私たちもまたイエス様を十字架にかけた者たちと同類であるということになります。イエス様を十字架にかけた者たちは、みな神様の恵みに躓いた人たちだったからです。なぜ、早朝から働いた者たちと、最後の一時間しか働かなかった者たちが、同じに扱われるのか? なぜ、ずっと父親のそばで働き続けた兄には何も与えられず、放蕩に身を持ち崩し、身代をつぶした弟には肥えた子牛が屠られるのか? なぜ、羊飼いは、迷うことなく従った99匹を置き捨てて、迷子になった1匹の羊を命がけで捜すのか? なぜ、イエス様は律法に熱心な人たちにつれなくあたり、無学な者や徴税人や売春婦と親しく交際されるのか? イエス様がそのようにされることによって、人間の努力や、熱心や、志などが、すべて無意味に帰せられてしまうのです。
それに堪えられなかったのがカインであり、ファリサイ派や律法学者たちなのです。それならば、私たちも同じなのではないでしょうか。神の恵みは、人間にとって無条件に有り難いもの、誰もが喜ぶものであるとは限らないのです。時として、私たちの躓きになることがある。そのことを覚えて、少し中途半端な終わり方ですが、ここまでいたします。
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