天地創造 45
「カインに対する神の警告」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第4章1〜16節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 第9章1〜33節
神の選び
 神様は、なぜアベルを顧みられ、カインは顧みられなかったのか。その答えは、このカインとアベルの物語を何度繰り返して読んでも答えは出て来ません。しかし、聖書全体を見渡すと、ひとつの可能性が見えてきます。なぜ、神様がアブラハムを選び、呼び出されたのか? なぜ、エサウではなくヤコブを選ばれたのか? なぜ、イスラエルを御自分の民とされたのか? なぜ、多くの兄弟のうちまだ年端もいかないダビデが神様のお眼鏡にかかったのか? なぜマリアがイエス様の母として選ばれたのか? イエス様は、どのような基準で十二使徒を選ばれたのか? なぜ、放蕩息子が身代をつぶして帰ってきたことを大喜びし、ずっと家にいて父と共に働き続けた息子のために喜びをあらわしてくれなかったのか。なぜ、イエス様は《後の者が先になり、先の者が後になる》と言われたのか? なぜ、イエス様は他の人々ではなく、ザアカイの家に泊まられたのか? それらは皆、私たちがとやかく言えるような問題ではなく、神様の主権に基づく自由な選びだったということなのです。

 使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』第9章のなかで、次のように語っています。

 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
「わたしはヤコブを愛し、
  エサウを憎んだ」
と書いてあるとおりです。(11−13節)


 エサウではなくヤコブが選ばれたのは、ふたりの性格がどうであるとか、信仰がどうであるとか、行いがどうであるとか、そういうことじゃなく、神様の自由な選びによるのです。しかし、そのことが、私たちの躓きとなります。躓き方は、二種類あります。ひとつは、選ばれなかった側に身を置いた場合です。なぜ、神の選びは私ではなく、あの人なのか。こんなに働いているのに、こんなに祈っているのに、こんなに正しくあろうと努めているのに・・・わたしは神様に嫌われるどんな悪いことをしたのか。カインは、まさにこのように躓き、怒って神様に顔を伏せたのです。

 しかし、私たちが、「だから、カインのような不信仰に陥らないよう気をつけよう」と思ったら、その途端に、私たちもまた神様の自由な選びに躓いていることになります。もし、アベルの選びが、その心のあり方や行いによるものではないとするならば、カインが選ばれなかった理由も、その心のあり方や行いによるものではなかったということになるはずだからです。神様の主権による自由な選びを思うとき、選ばれた者も選ばれなかった者も、ただ神様の御心のままによるのであるということでしかないのです。使徒パウロの語ることを、もう少し読んでみましょう。

では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
  慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。


 《これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。》という点が、一番大切なことです。私たちの心のあり方や行いが、すこしでも問題にされるならば、いったい誰が救われるでしょうか。しかし、神様の選び、恵み、救いは、人のあり方や行いによってではなく、ただ神様の憐れみによって、言い換えれば神様の愛によって進められていくのだと言われているのです。

 愛とは何でしょうか。一口には答えられない問いです。しかし、愛のひとつの特徴として、価値の創造ということがあります。亀井勝一郎(1907〜1966)は、こんなことを書いています。

 第三者からみれば平凡に思われる顔も、恋している当人の間では決して平凡ではない。第三者の気づかぬ美を発見しているからである。(亀井勝一郎、「美貌について」、『人生論集3』)

 要するに「あばたもえくぼ」、「蓼食う虫も好き好き」ということです。そのように、愛というのは、人の美を発見する力なのです。それから、ヴィクトール・フランクルも同じようなことを言っています。

 愛はしかし恩恵であるばかりでなく、また奇蹟である。愛する者にとって世界は魔術にかけられ、一層価値性をつけ加えられるのである。・・・・なぜならば愛は盲目にするものではなくて、むしろ視力を強めるものであり、価値を見せしめるものであるからである。(フランクル著作集2、『死と愛』)

 「あばたもえくぼ」、「蓼食う虫も好き好き」とは、決して愛が盲目であることを意味しないと、フランクルは言います。むしろ、視力が強められることによって、誰も気付かないような価値や豊かさをその中に見出し、また創造することなのだというのです。だとすれば、神様の愛の力は、まさに価値のないもののうちに、価値を創造することにあると言えませんでしょうか。『申命記』第4章37節にこう記されています。

主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された。

 神様は、イスラエルを愛したがゆえに、イスラエルを選ばれたということが、ここに記されています。神様の自由な選びは、決して気ままによるのではなく、愛に基づくものなのです。しかし、なぜ神様が愛されたか、その理由については記されていません。それはそうだろうと思うのです。私たちも誰かを愛する理由など説明ができません。ただし、愛することによって、フランクルのいうところの視力が強められる経験が起こり、どんなに貧しく、みすぼらしい姿であっても、そのなかに価値や豊かさが見えてくるということがあるのです。神様の自由な選びは、この愛によるものであり、決して人間側の心のあり方や行いによるものではないのです。
選ばれなかった者
 しかし、そうだとしても、選ばれなかった者はどうなのでありましょうか。パウロは、神様は「かたくなにしたい者をかたくなにされる」と言っています。そして、ここでは、出エジプトの前に立ちはだかったファラオの例があげられています。しかし、それだけではなく、カインも、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダも、イエス様を十字架につけた人たちも、みな神様によってかたくなにされたのであって、自分の心のあり方や行いが問題なのではないということになるのです。

 イエス様はユダに対して、《人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった》(『マタイによる福音書』26章24節)と言われました。イエス様の数あるお言葉のなかで、一番ショッキングな言葉です。しかし、それが生まれた時から神様によって定められていることだとしたら、自分の努力や熱心ではいかんともしがたいこと、逃れようもないことなのですから、まさにイエス様の言われたとおりに、ユダも、ファラオも、カインも《生まれなかった方がよかった》ことになるのです。

 なぜ、神様は生まれなかった方がよかったとしか言えないような者を、創造し、この世に生をお与えになるのでしょうか。正直言って、私たちはここで行き詰まってしまうのです。使徒パウロの言葉にさらに耳を傾けてみたいと思います。『ローマの信徒への手紙』第9章19〜26節までお読みします。

 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。

 「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
  愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
  『あなたたちは、わたしの民ではない』
  と言われたその場所で、
  彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」


 私たちは、「ではなぜ、わたしが責められるのか」「何のためにわたしを造ったのか」と言う立場にないと言われています。その上で、神様の選びは、私たちの思いでは測り知ることができないものではありますが、それはけっして気ままなものではなく、善いものを入れる器として選ばれた者も、悪いものを入れる器として選ばれた者も、一つのご計画に基づいているのだと言うのです。別の言い方をすれば、すべては神の栄光のためなのです。ファラオは悪いものを入れるために選ばれた器でありますが、それは神様の御力と御名の栄光が全世界に告げ知らされるためであったと言われています。願わくは、善いものを入れる器として選ばれたいというのは、誰も同じことです。カインだってそうです。アベルと同じように神様の祝福を求めて礼拝をしていたのです。だからこそ、カインは神の主権に基づく自由な選び、自由な恵みに躓きました。
人間としての正しさ
 その時、神様は、激しく怒って顔を伏せたカインにこのように語られます。

 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 《正しい》という言葉が出て来ます。人間にとって正しさとは何でしょうか。それは何をしたか、何をしなかったかということではなく、神様への態度なのだろうと思います。やはり使徒パウロから学びたいと思うのですが、『ローマの信徒への手紙』第9章3節に、究極の信仰の言葉があります。

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

 イスラエルが救われるためならば、自分は反キリスト者となり、神に見捨てられてもいいというのです。このようなことを口にすることは、イエス様を愛し、神を愛する者として正しいことではないような気さえします。しかし、そうではなく、神様は御自分の栄光を表すために、ある者を善いものをいれる器とされ、ある者を悪いものをいれる器とされる。それならば、神様の栄光のために自分が悪いものを入れる器になってもいいんだという、これは究極の信仰の言葉なのです。わたしはカインになってもいい、エサウになってもいい、ファラオになってもいい、ユダになってもいいということです。『フィリピの信徒への手紙』1章20節では《生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように切に願い、希望しています》と語っていますが、それと同じことでありましょう。

 そこまでパウロが言い切れるのは、それでもなお神様の愛を信じているからです。『ローマの信徒への手紙』第9章25〜26節には、預言者ホセアの言葉として、神様は愛されなかった者と愛し、わたしの民ではないと言われた者を神の子とする方だと言われています。そのことを信じて、神に見捨てられているようであっても、なお顔を上げて、神様を仰ぎ続けること、それが人間としての一番の正しさなのではありませんでしょうか。それができないとしたら、それは私たちが自分の行いを誇ろうとするからなのです。

 『ローマの信徒への手紙』第9章30〜33節をお読みいたしましょう。

 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
 「見よ、わたしはシオンに、
  つまずきの石、妨げの岩を置く。
  これを信じる者は、失望することがない」
と書いてあるとおりです。

 どんなに熱心であっても、どんなに善い業を積んでも、信仰によってではなく、行いによって神に喜ばれる者になれると思ったら、間違いに陥るのだということです。それでも、私たちは「自分はこれだけのことをした」、「自分はこんなことはしなかった」と、神様に対しても、人に対しても、誇ろうとしてしまう者であるかもしれません。そんな時、神様がおっしゃるように罪が門口で待ち伏せし、私たちを捕らえようと求めてきます。そして、私たちもまた、カインのように、他人を傷つける者となってしまう可能性があるのです。

 しかし、神様は《お前はそれを支配せねばならない》と、カインに警告されました。さらに、その前に、《どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。》と、カインに問いかけておられます。それは神様が、アベルだけではなくカインもまた御自分の傍らに立たせようとしておられるということでありましょう。善いものをいれる器だけではなく、悪いものを入れる器として選ばれたものもまた、神様は愛し、求め、御自分の傍らに立つ者とされようとしておられるのです。そのために、神さまはアベルに対する嫉妬と神様に対する怒りに燃えるカインに、「お前のそばで罪がお前を捕らえようと待ち伏せしている。それを支配しなさい」と警告されたのです。

 自分が善いものを入れる器となるか、悪いものを入れる器となるか、それは人間の支配するところではありません。しかし、どんな場合でも神の愛を信じ、顔をあげて神様の御前に立とうとすること、それこそあなたのなすことだということなのです。
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