天地創造 47
「カインの裁き」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第4章1〜16節
新約聖書 ヨハネの手紙1 第4章16〜21節
兄弟とは何か
 カインとアベルは、それぞれの労働の実りを携えて、神様を礼拝しておりました。ところが、神様はアベルを顧みているけれども、自分は顧みられていないと、カインは感じます。不条理を感じたカインは、神様に顔を伏せてしまいます。神様は、「あなたも、わたしに向かって顔を上げなさい。そうしないとあなたは恐ろしい罪に捉えられてしまいますよ」と、カインに呼びかけられます。しかし、カインは、神様に顔を背けたまま、弟アベルを野原に連れ出し、撲殺してしまったのでした。

 先週は、「なぜ、カインは弟アベルを殺したのか」を、ご一緒に考えました。カインの怒りは、神様に対するものでした。それが、どうして弟アベルを殺すことになるのでしょうか。結論から申しますと、神様に顔を伏せるとき、兄弟は兄弟でなくなってしまうのです。兄弟とは、同じ親から生まれたということでありましょう。私たちが、すべての人に対して、「この人もまた神様がお造りになり、神様によって愛され、大切にされている存在なのだ」と、認めることができるならば、すべての人は、私たちの兄姉姉妹なのです。

 兄弟であるということは、それがたとえ理解できない存在でありましても、場合によっては自分を傷つける存在でありましても、「この人もまた神様がお造りになり、神様によって愛され、大切にされている存在なのだ」という一点において、暴力や蔑みをもって退けたり、否定したりすることができなくなることなのです。それは、自分というものを生かしていくうえでは、たいへんな重荷となります。兄弟であるとは、そのような重荷を、それぞれが互いに負い合う者であることなのです。

 しかし、神様に対して顔を伏せると、「この人もまた神様がお造りになり、神様によって愛され、大切にされている存在なのだ」と、認められなくなってしまう。そうなれば、他者は、もはや兄弟ではなく、自分が生きることを妨げる障害物であったり、立ちはだかる敵であったりしてしまうのです。実際、親が死んだ後に、兄弟間に諍いが起きるという話をよく聞きます。カインもまた神様に対して顔を伏せたとき、弟アベルを尊ぶ理由はなくなってしまいました。弟アベルに対して、「この人もまた神様がお造りになり、神様によって愛され、大切にされている存在なのだ」という思いがなくなってしまったのです。
 神様とカインの対話を見ると、そのことはさらに明らかになります。

 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 カインは、不敵にも「わたしは弟の番人でしょうか」と反問しています。わたしの弟が自分に何の関わりがあるのか。わたしは弟なんか必要としていないし、いなくなって清清しているのだ。これからは、他人によって思いがかき乱されることもないし、気を遣うこともないし、誰にも邪魔されずに平穏に生きていけるのだ。カインはそのように神様に答えたのです。しかし、それは弟のみならず神様を侮ることでありました。「この人もまた神様がお造りになり、神様によって愛され、大切にされている存在なのだ」と、認めないということだからです。

 イエス様は律法のなかでもっとも大切なことは、神様を尊ぶことと、隣人を自分のように愛することだと教えられました。カインとアベルの物語を読んでみますと、二つのことは、深く結ばれた一つのことなのだと、よく分かるのではないでしょうか。兄弟を憎む者は神を憎むのであり、神を愛する者は兄弟をも愛するのです。
カインの裁き
 さて、カインの裁きについてお話しをしたいと思います。神様は、カインに言われます。

主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」(『創世記』第4章10節)

 カインが殺した弟アベルの血が、土の中からカインを告発しているといいます。カインは、弟アベルの存在を消したつもりでした。しかし、神様の前に、アベルはなお存在し、その血の叫びを、訴えを、神様がお聞きになっているのです。このことは、私たちにいろいろなことを考えさせてくれることだと思いますが、明白に言えることは、神様の前に罪を隠すことはできないということです。他人を欺き、自分を欺くことができたとしても、神様の前には、すべてが明らかなのです。そして、神様は、犯した罪が罪を犯さなかったように生きることはできないのだということをお示しになるのです。

「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(『創世記』第4章11〜12節)

 土を耕しても、土は作物を生み出さないと言われています。罪を犯したアダムもまた、「土は茨とあざみを生えいでさせる」と言われました。しかし、そういう苦労はあるものの、作物を生み出さないとまでは言われていません。カインの場合は、土はもはやお前のために作物を生み出すことはないと言われてしまうのです。カインはもはや農夫を続けることができなくなります。カインばかりではなく、その子孫も家畜を飼う者であったり、音楽を奏でる者であったり、道具をつくる者となったと記されているのです(19〜22節)。また、アダムは楽園を追放されましたが、カインはその追放されたところから、さらに追放されることになりまして、「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言われています。神様に対する罪が、人間を寄る辺なき者にするのです。

カインの嘆願
 さて、カインは、最初、「わたしは弟の番人でしょうか」などと反問し、人間は誰でも自分の責任で生きているのだ、他人のことなど構っていられないと言わんばかりでありました。しかし、いざ自分が寄る辺なき者とされますと、そんな大口は聞けなくなってしまいます。

カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」

 ずいぶん勝手な言い草です。何を今さら・・・と思うのです。しかし、私たちも同じではないでしょうか。どんな罪であれ、それを犯す前というのは、「たいしたことはないのだ」と思ってしまうのです。何とかごまかせるのではないか、その責任を負うことになったとしても自分でなんとかできるのではないか、そのように罪に対する甘さをもってしまうということです。アダムとエバが善悪を知る知識の木から取って食べたときもそうだったと思います。理由なく「このぐらいは大丈夫だろう」と、勝手に思い込んでしまうのです。そういう意味では、「わたしの罪は重すぎて負いきれません」という嘆きは、カインがある正しい認識に至ったということを意味しています。

 しかし、これを悔い改めと呼ぶことはできません。カインはただ自分の身に招いてしまった結果に恐れおののいているだけなのです。その恐れとは、作物が実らないとか、家なく彷徨うことになるとか、そのような衣食住の不安ではありませんでした。その程度のことなら、カインは自分でなんとかしてやると思ったかもしれません。カインを恐怖で打ちのめしたのは、神様の御顔が隠されてしまうことと、出会う人々がことごとく自分の敵となってしまうこと、つまり神様からも、人からも捨てられた完全なる孤独に陥ることでありました。「わたしは弟の番人でしょうか」と、他人など関係ないと豪語していたカインでありますが、いざ自分が誰からも関係のない存在とされるとき、これほどの恐れと不安を抱いたのです。

 ここに、人間の傲慢さが見えてきます。罪というのは、アダムとエバの場合にしても、カインの場合にしても、神様によって生かされているのだということを忘れることにあるのではありませんでしょうか。そのような傲慢さを戒めるために、わたしはときどき『ローマの信徒への手紙』11章18節のみ言葉を思い起こします。

折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

 前後の文脈から切り離しても、「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」というみ言葉は、真実を教えてくれます。自分がひとりで頑張って生きているようであっても、実はそれを深いところで支えてくれるものがあるのです。それを知らないから、私たちは根を傷めつけるようなことばかりをして、結局自分自身を根無し草、寄る辺なき者にしてしまうのです。

 しかし、神様はどこまで憐れみ深い御方です。人を殺したカインはなお生きることがゆるされます。追放されても、なお神様の守りのしるしを帯びています。カインとアベルの物語で、私たちが一番心に留めなければならないことが、ここにあるのです。すなわち、これはカインのようになってはならないと戒めるための物語ではなく、カインと少しも変わることがない人間が、カインのように重すぎて負うことができない重荷を背負った人間が、なお生かされているということに、いったいどんな神様の御心が隠されているのかということです。次回は、このことについてお話しをすることにしたいと思います。
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