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カインとアベルの物語は、カインのようになってはならないというお話しではありません。カインと少しも変わることがないわたしたち人間が、重すぎて負うことができない重荷を背負いつつも、なお生かされている。そこには、いったいどんな神様の御心が隠されているのかを、知るための物語なのです。
そのことは、これをカインとアベルの物語としてではなく、つまり人間にではなく、神様に焦点をあてて読んでみますと、はっきりと浮かびあがってきます。カインは、楽園を追放された罪人たち、つまりアダムとエバが、愛し合って生んだ最初の子どもでありました。カインが生まれたとき、エバは「わたしは主によって男子を得た」と喜びを表します。「主によって」とエバは申しましたように、神様は、アダムとエバを楽園から追放した後も、なおこの二人と共にいてくださり、カインの出産という神の恵みをお与えくださったのです。
さらに神様は、アダムとエバにアベルをお与えになります。兄弟は健やかに成長し、カインは農業を営み、アベルは牧畜を営むようになりました。それは両親の愛情もさることながら、神様のお守りと御恵みによるものであったに違いありません。カインとアベルの兄弟も、そういう感謝のこころで労働の実りを携え、神様を礼拝するのです。
しかし、この時にカインとアベルの仲を引き裂くような出来事が起こります。神様はアベルとアベルの献げ物を顧みられましたが、カインとカインの献げ物は顧みられなかったのです。これは神様の裁量に基づくことでありました。神様には神様の良しとされるお考えがあります。そして、誰に相談することなく、誰の許可を得ることもなくても、思うままになさる自由をお持ちです。たとえ、神様のやり方が私たちの理解を超えていましても、神様のなさることでありますから、そのお心と知恵と力とを信頼していいのです。
しかしカインは、神様のやり方に理不尽を感じて、神様に顔を伏せてしまいました。そんなカインに対しても、神様は優しく語りかけられます。「カインよ、わたしは別にお前を悪い人間だといっているのではないのだ。ただわたしのアベルに対するやり方と、あなたに対するやり方が違うだけではないか。あなたも顔をあげなさい。あなたもわたしのそばにとどまっていなさい。あなたの怒りは間違っている。あなたが、わたしのやり方を信頼し、そうしてくれることがわたしの願いなのだ。そうしなければ、そのときこそ、あなたは罪に捕らえられ、わたしから遠ざかってしまうのだよ」聖書には、こんな風に丁寧に書いてあるわけではありませんが、要するにこのようなことを神様はカインをおっしゃりたかったのだろうと、私は思うのです。しかし、カインはそのような神様の招きと警告にまったく耳を貸さずに、弟アベルを殺してしまったのでした。
神様は再びカインに語りかけます。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか」
カインはふてぶてしく答えます。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」
神様は言われます。
「なんということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」
神様はカインの罪を追及し、お責めになりました。そして、カインに対する裁きを、つまりカインが人を殺した報いとして負うべき運命を宣告されます。
「今、お前は呪われる者となった・・・土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」
極めて重い宣告が、ここに記されています。さっきまで「わたしは弟の番人でしょうか」などとうそぶいていたカインも、これを聞いて、ようやく自分のしでかしてしまった罪の重さを認識します。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません」
しかし、ここに描かれているのは、罪に対して容赦ない神様の冷徹な姿でもなければ、神様の怒りでもありません。「いったいぜんたいお前は、なんていうことをしてくれたのだ」という神様の戸惑いや、「今、お前は呪われる者となってしまった」という神様のやり場のない悲しみなのです。カインがアベルを殺したとき、神様はアベルを失っただけではありません。カインをも失ったのです。その神様のお気持ちを見過ごしてはいけません。人を殺せば、その罰を受けることは当然でありましょう。しかし、それ以上に私たちが気づかなければならないことは、その裁きは、何の痛みも悲しみもなく行われるのではないということです。私たちが犯す罪によって、神様が傷つき、悲しんでおられるのです。
『エレミヤ書』31章20節に、このようなみ言葉があります。
エフライムはわたしのかけがえのない息子
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしは更に、彼を深く心に留める。
彼のゆえに、胸は高鳴り
わたしは彼を憐れまずにはいられないと
主は言われる。
エフライムは、北王国のことです。実は、エレミヤの時代、北王国はありませんでした。百年以上前に、アッシリア帝国によって滅ぼされていたのです。北王国の民は、捕虜として外国に連れ去られ、北王国の土地には外国人が入り込み、そこはまったく異教化されてしまいました。北王国に、このようなことが起こったのは、再三の警告に耳を貸さず、偶像礼拝をやめなかったことへの神の裁きである、と聖書は伝えています。しかし、そのように反逆し、その罪によって裁きを招き、斥けられ、跡形もなくなった北王国のことを、神様は《かけがいのない息子》、《喜びをあたえてくれる子》と呼び、《彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない》とおっしゃるのです。
《彼のゆえに、胸は高鳴り》という翻訳は、実はあまりよろしくありません。ルターはドイツ語訳で「心臓が破れる」という表現をしました。うれしくて胸がドキドキするのが、「胸の高鳴り」でしょう。そうではなくて、心臓が張り裂けんばかりに高鳴っているのです。カルヴァンも同様に、『エレミヤ書講解』のなかで、これは神の呻吟、つまり悲しみうめく様子を意味しているのだと言っています。日本語聖書では、文語訳が、「我が腸かれの為に痛む」と訳しています。これは、罪に対する憎しみをご自身のなかに収めようとなさる痛みです。激しい怒りと激しい憐れみが戦う痛みです。神様はこのような罪人に対する痛みを引き受けることによって、怒りを克服し、愛へと転換なさるのです。
カインに対する場合も同じです。繰り返しになりますが、カインは裁きを宣告され、ようやく自分が犯した罪の大きさを認識し、「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と神様に泣きつきます。実に勝手な話です。ところが、神様はそんふうに泣きついてくるカインを、さも愛しむかのように抱きしめて、「いや、大丈夫だ。お前を傷つける者には私が復讐をする」と語ったというのでした。
主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
神に逆らうカイン、カインを裁く神、泣きつくカイン、それを抱きしめ慰める神、ああ、神様はなんて優しいんだろうというのでは、まったく茶番劇です。なぜ、カインを遠ざけた神さまが、カインを抱きしめるのか? なぜ、人を殺したカインが、なお神様のお守りのなかに生かされるのか? そこに痛みを引き受けられる神様というものがおられるのです。そして、その延長線上に、イエス様の十字架があります。
罪をゆるすことは、非常に難しいことです。「水に流す」などという言い方もありますが、実際はそんなたやすいものではないのでしょう。よく愛する人を殺人によって奪われた人が、殺人者の死刑を望むということがあります。死刑の是非はともかくとしまして、気持ちはとてもよくわかります。殺人者が刑期を終えて、世のなかで自由に生きることができるなど、愛する者を殺されて失った者にとっては耐え難いことなのです。それを認めることは、自分がやりどころのない憎しみや憤怒に痛めつけられ続けるということです。そんなことは、人間に過ぎない私たちにはできないことなのです。
しかし、神様は違います。『エレミヤ書』と同じように、預言者ホセアが、神様の怒りが愛に転換する場面を描いているところがあります。ホセアは、まさに北王国の末期に神の言葉を告げた人です。『ホセア書』11章8〜9節
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
この直前のところには、エフライムの罪、反逆に対する激しい糾弾と裁きの言葉が書かれています。たとえば7節
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。
お前たちが泣き叫んでも、わたしは助けないと言っています。ところが、その後、急に言葉が変わります。《ああ、エフライムよ、どうしてお前を見捨てることができようか》、《引き渡すことができようか》と、神様のこころが揺れ動きます。そして、《わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる》とあります。文語訳では、「わが心わがうちに変わりて我のあわれみはことごく燃えおこれり」とあります。つまり、神様の心のなかで、焼き尽くすばかりの怒りが、愛の激しい炎に転換するのです。どうしてそんなことがあるかというと、《わたしは神であり、人間ではない》からだというのです。
罪をゆるすためには、罪の大きさを超えるような愛が、必要なのです。その愛は、自分を傷つける者のための激しい痛み、苦悩を、無実なる自分に引き受けることさえ良しとする愛でなければなりません。自らを十字架につけてまで、罪人をゆるす愛です。そんなことができるのは、神様しかないのです。
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
カインのしるしがなんであるか、それは分かりません。刺青のようなものではないか、と書いてある本もありました。それがなんであれ、しるしというのですから、それを見た者が「ああ、カインは神様のものなのだ。神様の守護のうちにあるのだ。神様の愛し給う子なのだ」ということが分からなければいけません。カインは、自らの罪の呪いを負い、さまよう人生を生きる者となりながら、なお神の子であるということ世に示す者とされたということなのです。ここにキリスト者の原形があるのではありませんでしょうか。私たちもカインと何の変わりのない罪人であり、何の功もないものです。しかし、神様は私達も神の子としてのしるしを与えてくださいました。イエス様の十字架です。この十字架の愛のもとで、わたしたちは世をさすらう者でありながらも、そして、罪のゆえの苦しみを負いながらも、なお神の子として希望をもって生きることがゆるされるのです。 |
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