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アベルを殺害したカインは、最初、罪を犯したという自覚すらありませんでした。しかし、神様は、カインを厳しく裁かれます。神様は、愛する我が子なるアベルを殺されたのであります。愛する子を奪われた言葉に尽くせない悲しみ、悔しさ、憤りが、神様にありました。しかし、この事件の悲劇はもっと深いところにあります。神様からそのように愛する子を奪い取ったのは、神様が同じように愛していたもう一人の息子であったカインであったというのです。神様は愛するアベルを失った悲しみ、悔しさ、憤りを、愛するもう一人の息子カインにぶつけなければならないのでありました。しかし、カインもまた神様の愛する子であるがゆえに、神様は苦しみ悶えるのです。
他方で、神様は土の中から叫ぶアベルの血の訴えを聞きながら、カインに厳しい裁きをお与えになり、御顔の前からカインを斥けます。他方で、厳しい裁きに恐れおののき、不安に崩れ落ちて、「神様、わたしの罪は重すぎて負いきれません」と泣きつくカインの訴えを聞きながら、カインに対する守りを約束し、神の子としてのしるしをお与えになったのでした。カインに対する裁きのうちにあるこの神様の呻吟と相克を読み取らなければ、私たちの罪がいかに神様を苦しめるものであるか、その罪をゆるすために神様がイエス様をこの世に送り、十字架にかけ給う愛がいかに大きくて深いものであるかを知ることができないのです。
さて、今日は16節からです。
カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
神様の御前から追放されたカインは、ノドの地に住んだと言われています。それがどこにあったのかは知りませんが、意味は「さすらい」であると記されています。ノドの地に住んだとは、さすらう者として生きたということなのです。カインは、結婚し、子どもをもうけました。また町を造り、その町に子どもの名前をつけました。子どもは順調に成長し、孫が生まれました。カインの子孫は繁栄し、その中には家畜を飼うものの祖先となったり、竪琴や笛を奏でる音楽家の祖先となったり、青銅や鉄を鍛え道具を作る職人の祖先となったりしました。このようにカインの生活、その子孫の繁栄や成功ぶりをみますと、とても地をさすらう者のようには見えません。それにも関わらず、カインはノドの地に住んだと言われます。さすらう者として生きたと言われます。なぜでしょうか。
それは、私たちの生活を考えれば分かります。日本という高度な法治国家に住み、文明社会のさまざまな恩恵に浴し、家があり、食べ物があり、着る物もあり、やりがいのある仕事があり、休日には家族や気のおけない友人たちと旅行や趣味を楽しむ時間がある。もちろん、個人差はあります。しかし、多くのものに守られ、多くのものに満たされている。それなのに、感謝なく、讃美なく、平安なく、いつも一抹の不安や恐れに苛まされながら生きているのはなぜでしょうか。答えは簡単です。明日もそれがあるという保障がないのです。だから、どうなるかわからないという不安、恐れから逃れることができません。心から安んじて生きるということができないのです。これがノド(さすらい)の地に住んでいるということではないでしょうか。
カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
このみ言葉に即していえば、ノドの地とは、主の御前を離れたところにある地です。神様の御顔を仰ぐことができなくなったところに生きるということは、たとえ町を建てようが、それに息子の名前をつけようが、多くの羊をもっていようが、素晴らしい文明の利器を手にいれようが、音楽を楽しんでいようが、根底において不安や恐れを免れ得ないということなのです。
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ところで、ちょっと違った角度から、今日のみ言葉を読んでみましょう。カインは町を建てたと申しましたが、正確には《カインは町を建てていた》と聖書に記されています。とっても興味深い言い回しだと思います。「建てていた」とは、町の建設は完了していなかったということなのです。ある程度、町が形をなしてきたところで、カインはその町にエノクという息子の名前をつけましたが、それでも町の建設は終わっていなかったのです。それもそのはずで、町というのは住む人の便宜や安心を求めて常に建設され続けるものなのです。
町の建設とは、文明の建設と言い換えることができます。文明とは何でしょうか。難しい議論は分かりませんが、はっきりしているのは、人間が人間のために作ったものです。今年は猛暑で野菜の値段が高くなっているそうです。レタスなどは平年の三倍もする値段で売られているといいます。農作物の収穫が天候に左右されるということは、決して珍しいことではありません。場合によってはそれが飢饉となって、人間の生活に深刻な打撃を与えます。そういう問題を解決するために、今は工場のなかで、人工の光を使って、野菜を作るということが試みられているそうです。これならば天候に左右されず、一年中、収穫は安定し、いつも同じ値段で消費者に売ることができる。文明とは、こうやって進歩していくのではないでしょうか。つまり、人間の生活の不安や不満を人間の知恵と力で解決して、より安全で安心な世のなかを作ろうということだと思うのです。
しかし、それは終わることがない仕事なのです。《カインは町を建てていた》と聖書には書いてあったのですが、今も人間はそれを築き続けているわけです。逆に言えば、人間の不安や恐れはいつまでたってもなくならない、これで良しという終わりがないということです。
カインの系図がレメクの歌をもって終わっているのは、非常に象徴的です。
さて、レメクは妻に言った。
「アダとツィラよ、わが声を聞け。
レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。
わたしは傷の報いに男を殺し
打ち傷の報いに若者を殺す。
カインのための復讐が七倍なら
レメクのためには七十七倍。」
レメクの歌の背景に、どんな物語があったのかは分かりません。したがって、この歌の意味も実際のところよく分からないのですが、猛々しく血なまぐさい歌であることは誰にでも理解できます。レメクは自分の妻たちに、自分の力を誇っています。そして、自分に敵しようとする者たちに、そんなことをしたら何倍にもして返してやると威嚇しています。権威主義の男たち、あるいは軍事力を誇る大国みたいではありませんか。
人間の文明は、さっきの工場で作る野菜のように平和的なものもたくさんありますが、その最先端はやはり軍事技術にあるのです。そして、軍事力というのは実際に発動することもありますが、それを誇示して、周囲を威嚇するという目的もあるわけです。聖書は、人間が、人間の知恵と力で築く文明というのは、結局、そのような安心や平和と真逆にある暴力という力から離れることができないのだということを予見しているわけです。
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さて、もう一度、16節を読んでみたいと思います。
カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
今、わたしはノドの地とはいかなるところなのか、そこでの生活はどのようなものなのかということをお話ししてきました。それはどんなに知恵を尽くし、力を尽くして、文明社会を築き上げても、根源的な安心に対する何の保障も持てない生活であるということなのです。
私たちもそのノドの地に住む者です。しかし、カインの時と違うのは、わたしたちのノドの地には、イエス様の飼い葉桶と十字架と空の墓があることです。イエス様は救い主として私たちのノド(さすらい)の地に降りたってくださいました。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、わたしには枕するところがないとわれるような、ノドの生活をわたしたちと共にいきてくださいました。そして、十字架にかかり、復讐を叫ぶアベルよりも雄弁に語る血を流して、私たちの罪のゆるしを神様に訴えてくださいました。そして、死に打ち勝つ者と復活され、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と約束され、今は天の右に座しておられます。このイエス様によって、私たちはもう一度、神の子供らとして、親しく天の父を仰ぐことがゆるされるようになったのです。それは神なき不安から解放され、まことの平安に生きることが、わたしたちに可能になったということなのです。
だから、イエス様は言われます。
『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩うのは、食べ物や飲み物や着る物がないからではありません。そういう実際上の危機が迫っているかどうかは問題ではないのです。問題は心です。今ある幸せに満たされ満足することができない心、つねに万が一の危機について考え、不安に掻き立てられる心、どうして私たちがそのような心を抑えることができないかといえば、保障がないからなのです。保障なき生活、それがノドの地の生活を支配しているのです。
しかし、ノドに地に降りたってくださったイエス様は、もう明日のことは思い煩わなくてもいいのだと、ここで約束してくださっているのです。なぜなら、あなたがたには天の父との関係を回復し、その愛の中に生きることができるようになるからだと言われるのです。だから不安にかられて人間の知恵、力を求めるのではなく、天の父を求めなさい。天の父の愛と支配のなかに生きることを求めなさい。そうすれば、明日のことを思い煩わなくてよくなるのだというのです。それは明日のことが分かるようになるということではありません。クリスチャンだって、明日のことは分からないのです。しかし、明日何が起ころうとも、私たちは神様の御手のなかにあるという安心、その根源的な安心が私たちを支えてくれるでありましょう。それが福音なのです。
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聖書 新共同訳:
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