天地創造 50
「セトの誕生」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第4章25〜5章32節
新約聖書 ヨハネの手紙1 4章9-10節
系図とは何か
 今日は、アダムからノアにいたるまでの系図を、お読みしました。聖書のなかの系図と申しますと、「イエス・キリストの系図」(『マタイによる福音書』第1章)を思い起こされる方が多いと思います。聖書を読もうとして、新約聖書を開きますと、冒頭から聞いたこともないような人の名前が、舌を噛みそうなカタカナで、長々と書かれております。これを見て、聖書を読む意気込みが萎えてしまったという話を、よく聞きます。それは、なにも初心者に限った話ではないでありましょう。そういう人には、どうぞ飛ばして読んでくださいと申し上げることにしています。これを読まなければ先に進めないという話ではないのです。

 けれども、イエス様の系図がなくてもいいということではありません。その内容に深い意味が隠されていることはもちろんのことでありますが、これが新約聖書の冒頭に位置しているということも、ここにあるべくしてあるのです。一言でいえば、イエス様の御降誕は、突如、神様が思いついて起こった出来事ではなく、旧約聖書から綿々と綴られてきた神様の救いの物語の到達点として起こった出来事である、ということが系図によって語られているのです。

 イエス様の系図は、アブラハムから始まっています。つまり、神様が、アブラハムを神の民の礎として選ばれた時から、神様の救いの物語、さらに言えばイエス様の物語は始まっていたということなのです。そこから始めなければ、イエス様の物語は語れないということです。アブラハムの選びは、『創世記』第12章に記されています。ということは、『創世記』第12章からイエス様のご降誕に至るまでのお話しが、ぜんぶ繋がっているということなのです。

 それならば、その前はどうだったのでしょうか。わたしたちは今、『創世記』を1章から読んできまして、聖書に記されている最初の系図を読むに至りました。4章の終わりに、カインの子孫が記されています。これも系図といえば系図ですが、カインの後日譚といった意味合いが強いだろうと思います。それに対して、5章1節には《これはアダムの系図の書である》と記されております。したがって、これを最初の系図としてもいいと思います。

 この系図には、アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラエル、イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノアと、アダムからノアに至る10代にわたる系図が記されています。次に系図が出てくるのは、ノアの物語が終わった後の10章です。ノアには、ハム、セム、ヤフェトという三人の子がおりました。そして、それぞれの系図が、ノアの系図として、そこに記されています。そして、11章には、セムの系図があらためて記されております。その最後に、アブラハムが生まれたと記されているのです。こうしてアダムの系図が、アブラハムに繋がります。

 それならば、イエス様の物語は、アブラハムからではなくアダムから始まっていたと言えます。実は、もうお気づきだと思いますが、イエス様の系図は『ルカによる福音書』第3章にもあります。そこでは、イエス様の系図が、まさしくアダムにまで遡ってしるされているのです。アダムの系図が、聖書の最初の系図だと申しました。そして、最後の系図が、イエス様の系図です。その間にもいろいろな系図がありますが、すべてはアダムからイエス様に至る系図につながっていると言えるのです。

 系図とは何でしょうか。聖書にはいろいろな救いの物語や教えがあります。ノアの方舟、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語、出エジプトと土地取得の物語、士師記、ルツ記の物語、ダビデ王朝の物語、バビロン捕囚と帰還の物語、エステルの物語など、それらがすべて、神様の救いの業であることは間違いありません。そして、それはすべてアダムからイエス・キリストに至るひとつの系図をつむぐ物語なのです。

 たとえば、アダムの系図は、ノアでいったん途切れます。ノアの物語は、これから学んでいくことになりますが、神様が人間の堕落にあきれ果てて、大洪水をもってこれを滅ぼそうとするところから始まるのです。つまり、これでアダムの系図は、まったく途切れてしまうはずでした。しかし、そこに神様の救いが起こります。神様が、ノアを憐れんで、彼と彼の家族、そして動物たちを箱舟に乗せ、お救いくださったのです。こうして神様の救いによって、ノアで終わるところだったアダムの系図が、命拾いし、その後に繋がっていくわけです。

 次に、ノアの子セトからアブラハムに至る系図があります。これも、アブラハムの正妻サラに子が産まれないということによって、系図の危機が訪れます。しかし、アブラハムは、神様の約束を信じて、子どもの誕生を待ち続けます。そして、与えられたのがイサクでした。イサクには、エサウとヤコブという双子の兄弟が生まれます。この二人は性格が合わないために、あやうくカインとアベルの二の舞になりかけます。しかし、神様は、エサウの手からヤコブをお守りになるのです。ヤコブは十二人の子に恵まれますが、この一族も大飢饉によって飢え死にするところでした。ところが、これまた神様の奇しき救いの御業によってヤコブの子ヨセフがエジプトの総理大臣になり、一族をエジプトに招き寄せて飢饉から救います。こうして、アダムの系図は、またもや生き延びることになります。

 ここまでが『創世記』のお話しなのですが、こういうことをいちいち取り上げて説明していったら、聖書全部を語らなければならなくなってしまいます。要するに、その後も、人間の罪深さ、愚かさ、怠惰によって、アダムの系図は何度も途切れそうになるのですが、その度に神様がさまざまな手を使ってそれをお救いになるのです。

 それは何のためになのか? もちろん、神様が人間のひとりひとりを愛してくださり、その人生を救おうとしてくださっているということもありましょう。でも、それだけではなくて、そういうひとつひとつの救いがアダムの子孫の命をつなぎ止め、イエス・キリストの誕生へと至らせる壮大な救いの物語となるのです。これを救済史といいます。アダムの堕落の後、父なる神様がご計画され、イエス様によって成就し、再臨によって完成されると約束された全人類の救いの歴史です。聖書の中の出来事のひとつひとつをばらばらに見ていたら、そのことはなかなか分かりませんが、系図を見ると、それらの出来事がアダムからイエス・キリストに至る系図を繋ごうとされる神様のご経綸によるものであるということがわかってくるのです。

 もし、神様が恵みをもって介入してくださらなかったら、とっくに途絶えていた人間の罪深い歴史であります。しかし、神様はどんな愚かな人間の歩みをも忍耐し、救いのご計画に基づいてすべてのことをなしてくださいました。系図をみますと、こうしてイエス様の誕生の時が準備されてきたのだということがわかるのです。

セトの誕生
 それは、カインとアベルの事件の直後にも起こります。4章25節をもう一度読んでみましょう。

 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 カインが、アベルを殺し、その罪によって御前から追放されることによって、アダムとエバは二人の子を一度に失ってしまいました。しかし、そのアダムとエバに、神様はカインとアベルに代わる子どもを与えてくださったのです。二人は、子を失った悲しみを胸に抱きながらも、セトの誕生を心から喜び、慰めを得たに違いありません。

 ここで気になるのは、《神が彼に代わる子を授けられた》という表現です。カインもアベルも掛け買いのない子でありますから、セトの誕生は喜ばしいことであったとしても、決してそれに《代わる子》にはならないではないでしょうか。《代わる子》という言葉がなければ、これは素直に神様の救い、慰めの物語として読めます。しかし、《代わる子》という表現はあまりにもデリカシーがなさすぎるのです。

 実は、この《代わる子》というのは、カインとアベルを失ったアダムとエバの心の空白を埋めるものという意味ではありません。そうではなく、アダムからイエス様に続く系図、つまり全人類の救いという神様のご経綸の穴を埋めると言ったらいいでしょうか、新たな神様のご計画の担い手としてセトが与えられたという意味なのです。セトはアダムとエバを慰めつつ、それだけではなく神様の救いの物語が途絶えることがないように生まれたのがセトなのです。「セト」という名前には、「置く」とか「堅く据える」という意味があるそうです。セトの誕生によって、アダムの系図が再建され、神様の救いの計画を担うものとして堅く据えられたのでした。
アダムの似姿
 またセトについて、系図の本編のなかでアダムの似姿をもって生まれたということが語られています。まず5章1-2節に、アダムが神の似姿につくられた、ということが記されています。

これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。

 祝福されたとは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」ということであります。神様は御自分のかたちなる人間が地上に溢れることを願われたのでした。それから、3節をみますと、アダムの似姿なるセトが生まれたということが書かれています。

アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。

 親子が似ているというのは何の不思議もありませんが、そういうことではありません。アダムが神様にかたどって、神様のかたちに作られたということは、神様の人間創造の目的そのものを表しています。しかし、善悪の知識の実を食べてしまったことによって、そのかたちは歪められ、本来の姿を失ってしまいました。セトが、神の似姿ではなく、アダムの似姿に生まれたとは、そのような歪められた神のかたちを受け継ぐ者として生まれたことを意味します。難しい言葉でいえば原罪をもって生まれてくるのです。

 生まれたばかりの子は、まだ罪に染まっていないから清いままであるというのではありません。アダム以降の人間は皆、「神のかたち」ではなく「アダムのかたち」、つまり罪によって歪められた神のかたちをもって生まれてくるのでありまして、そのままでは神様の人間創造の本来の目的を果たす者になりえないのです。そのまま「生めよ、増えよ」と神様の祝福のままに増えていったらどうなるか? ノアの物語の最初にそのことが記されています。地上に人間の悪がはびこりってしまったというのです。

 神様はそうなることが分かっていなかったはずがありません。しかし、それにもかかわらず、神様はアダムの系図をつなげられた。そこに込められた神様の御心を知ることが大事です。それはもう最初の「生めよ、増えよ」という無条件な祝福であろうはずがありません。神様は、これで終わりにしたくなかったということではないでしょうか。アダムとエバが罪を犯し、本来の神のかたちを失い、その結果といってもいい、起こるべくしてカインとアベルの事件が起きる。こうして、罪を犯したアダムの系図は途絶えてしまうはずでした。けれども、神様はセトによってアダムの系図をつながれました。セトは救い主ではありません。つまり、罪に呪われたアダムの系図を修正したのではありません。ただ罪人の歴史を繋いだだけです。しかし、神様はたとえそのような形であっても、罪深い人間が生き続けることを望まれたのです。

 ノアの時も、アブラハムのときも、モーセのときも、バビロン捕囚のときも、神様は罪人が生き続けることを望み、そのために系図をつないでくださった。その系図の中に、神様が救い主であるイエス様をお送りくださる時が満ちるまで、忍耐強く人間の歴史を導いて下さったのです。それは、神様の人間に対する深い愛のなせることなのです。

 『ヨハネの手紙1』第4章9-10節のみ言葉をもう一度聞きましょう。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。


 神様の救いの物語をつむぐ愛に満ちたご経綸の目的がここに示されています。それは、私たちがイエス様によって生きるようになるためであるというのです。イエス様は、私たちを再び神の子として生かしてくださる新しい命なのです。
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