天地創造 51
「エノクの昇天」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第5章1〜32節
新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章5-6節
イエス様の系図とアダムの系図
 前回は、このアダムの系図はイエス・キリストの系図の一部をなしているとお話しをいたしました。イエス様の系図は、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』が記しています。マタイの方は、アブラハムから始まり、その末にイエス様がお生まれになったという系図になっています。ルカの方は、イエス様から遡っていく形なのですが、アダムからイエス様までが繋がっています。これは何を物語っているかといえば、イエス様の誕生を語るためには、アブラハムから、あるいはもっと前のアダムから語る必要があるということです。つまり、神様が、イエス様によって人間の罪を贖い、もう一度、神の子らとしての新しい命をあたえようとされるご計画は、アダムが楽園を追放されたときから始まっているののです。

 そのことを、前回は、セトの誕生という出来事を通して説明させて頂きました。本来であるならば、アダムの系図は殺されたアベルと神の御前から追放されたカインによって途絶えてしまった筈です。そこを神様がみ恵みをもってセトをお与えくださり、アダムの系図を、つまりイエス様の誕生に至る物語をつないでくださったのです。

 聖書にある系図は、アダムの系図に始まりイエス・キリストの系図に終わっているのですが、その間にある歴史を検証するならば、いつ途絶えてもおかしくない人間の罪深い歴史の中に、神様が恵み深く、力強く介入してくださることによって、それがイエス様誕生まで繋がっているのだということを伝えているのです。この後に出てくるノアの箱舟の話もそのことを物語っていますし、さらにそれに続くアブラハムのイサク誕生物語もそうなのです。このような神様の恵みの積み重ねとして、アダムの系図はつなぎ止められていき、ついにイエス様がお生まれになりました。イエス様の誕生は突然起こったのではなく、アダムの時から始まる神様の救いの歴史、の頂点にあることなのです。
超長寿時代
 さて、今日は、その他のことを、いくつかお話しさせて頂きたいと思います。この系図を読んで気づきますことは、寿命の長さです。もっとも長生きをしたのはメトシェラで、969歳まで生きたと書いてあります。もっと短命なのはエノクですが、それでも365歳まで生きたと言われています。私たちの常識をはるかに超え、何百年も生きた人間の歴史が、この系図のなかには記されているのです。

 とても本当とは思われないこの記述について、いろいろな解釈がなされています。一つは、年齢の数え方が私たちと違うのではないかということです。一番もっともらしいのは、一ヶ月毎に年を数えていたのではないかという説です。そうするとメトシェラは80歳と9ヶ月でなくなったことになります。エノクは30歳5ヶ月でなくなったということになります。けれども、そうすると子どもを産む年齢が問題になります。65歳で子どもを産んだという箇所がありますが、これを換算すると5歳で子どもを産んだことになってしまうのです。そこで四季ごとに年を取ったのだという節もあります。つまり一年に4歳年を取るわけです。これで換算すると65歳は16歳となり、子どもを産んでもおかしくない年齢となりましょう。死んだ年は、一番ながいメトシェラで242歳となり、これも常識を超えた年ではありますが、969歳よりは受け入れやすい年齢となりましょう。また、こういう説とは別に、これはひとりの人間の寿命ではなく、部族の存続した時代の年数を意味しているのだという説もあります。

 しかし、聖書にこのような解釈をほどこすのはいかがなものでしょうか。確かに、聖書には、わたしの知恵や常識では計り知れないことがあります。けれども、無理に私たちの知恵や常識の範囲の中に近づけてしまうと、神様の知恵や働きというのは人間の理解できる普通のことか、自然現象ということになってしまいます。これでは聖書を読む意味がなくなってしまいます。人間には理解できないこと、分からないことがある。神様を信じるとは、そういうことではないでしょうか。

 本当に人間が900年も生きるのだろうか? わたしには分かりません。少なくとも、今の私たちには考えられないことです。しかし、下手に解釈をしないで、分からないことは分からないまま胸に抱いて、聖書を読むのが良いと思うのです。

 聖書は、超長寿な人間がこの世に生きていた時代があったと、私たちに告げているのですが、『創世記』6章3節には、こう記されています。

 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

 ここに記されているのは、人間の寿命に制限を決めているのは神様であるということです。超長寿時代においても、人間の寿命は無制限ではなく、千年を越えたものは独りもありませんでした。「○○は何年に生き、そして死んだ」「○○は何年に生き、そして死んだ」と繰り返し、死を語ります。人が何百年生きたとしても、必ず死を迎えたということがたんたんと記されているのです。

 千年とは、神様が当時の人間にお与えになった寿命の壁であったのでありましょう。しかし、ノアの洪水の後、人間の寿命はだんだん短くなります。『創世記』9章29節には、ノアは950歳で死んだとありますが、ノアの子であるセムの系図をみますと、セムは600歳、その子であるアルパクシャドは438歳、その子シラは433歳、その子エベルは464歳と、500年を越えることがなくなっていきます。その後はさらに短くなり、その子ペレグ239歳、レウは207歳、セルグ230歳、ナホルは148歳、アブラハムの父であるテラは205歳です。しかし、アブラハム以降は200歳を越えることはなくなります。175歳でした。イサクは180歳、ヤコブは147歳、ヨセフは110歳でした。それ以降は、今と変わりありません。

 モーセは120歳まで生きましたが、詩篇90篇9〜10節のなかでこのように言っています。

 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
 人生はため息のように消えうせます。
 人生の年月は七十年程のものです。
 健やかな人が八十年を数えても
 得るところは労苦と災いにすぎません。
 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。


 ここでは人間の一生は70年〜80年と、極めて常識的な年数になっています。それをモーセは儚いぐらいに短い、瞬く間だと言っています。さらに大事なのは、それが神様の怒りのせいであると言っていることです。長寿時代からモーセの詩篇までを眺めてみますと、聖書は人間の寿命というのは本来900年も生きるはずであったのに、人間の愚かさ、罪深さのゆえに、神様は人間の寿命を短くされたのだと言っているのです。確かに、人間は900年生きても、それだけ罪を多く重ねるだけでありましょう。神様に与えられた命を何年生きても無駄に過ごしてしまうような者なのです。それゆえ、人間の一生はこんなに短く、儚く、ため息のようなものされたのだというのです。

 わたしたちは、もっともっと人生の短さを思いながら生きなくてはいけないのではないでしょうか。迷ったり、悩んだり、おろおろしているうちに、時は瞬く間に過ぎていきます。その短い一生のなかであれもこれもできるわけではないのですから、もっと大胆に信じて、今自分に与えられていることに心を込めて一生懸命に生きるということが、神様に与えられた命の時間を大事にすることになるのではありませんでしょうか。
エノク
 たんたんと「○○は○○をもうけ、○○年生き、そして死んだ」と繰り返されているこの系図のなかに、注目すべき人物がふたりいます。エノクとノアです。ノアについては次回に譲るとしまして、今日はエノクについて少しお話しをしたいと思います。21〜24節にこう記されています。

 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。

 エノクは神と共に生きたと記されています。そして、ほかの人たちは皆、「死んだ」と述べられているのに、エノクに関しては、《神が取られたのでいなくなった》と述べられます。『ヘブライ人への手紙』11章5節では、エノクについてこのように述べています。

信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。

 エノクは生きながらにして永遠のいのちを受け、つまりパウロが言ったように朽ちるものの上に朽ちないものを着せられて、天に移されたという意味です。

 これは、神様と共に歩めば、誰でも死を経験しないで天に挙げられるという意味ではありません。この系図は、たとえ1000年近く生きながらえようとも、人間には必ず死が訪れるのだということを私たちに教えているのですが、そのような人間にとって絶対的な死でさえも、神様の御前には無力なものとしてひざまずくのだということを、エノクの昇天は物語っているのです。これは、イエス様によって与えられる永遠の命への希望として、人間に与えられた出来事だったのではないでしょうか。

 エノクは、アダムから七代目に産まれました。しかし、系図に記された年数をいろいろ計算してみると、世を去ったのは、アダムが死んでから57年後であり、アダムに続く二番目でした。この時、アダムとノアを除く七人が生きていました。930年も生き、おそらくは死ぬことなんて考えもしなかったアダムがついに死んだ時、人々ははじめて死というものを経験し、恐れたに違いありません。

 そして、そのあと、人々は、神と共に歩んだエノクが死をみることなく天に挙げられるのを目撃しました。このことは、何年生きようとも、神と共に歩むことの中にこそ死を克服する永遠のいのちの道、つまり神様のもとに帰る道があるのだという信仰の希望となったのではありませんでしょうか。エノクは旧約聖書の奥深くからキリストによる永遠の命を指し示しているのです。それを与えんがために、神様はエノクを生きながらにして御許に召されたのではないかと思うのです。

 先週は、人間の救済の歴史をつむいでくださる神様のご経綸ということをお話ししたのですが、そのご経綸というのは人間には隠されていて、なかなか知ることができないのです。しかし、神様はそれでも人間が信じて生きることができるように、必ず希望を与えてくださる。希望というのは私たちの罪の贖いとなられ、死に打ち勝たれたイエス・キリストです。私たちの希望であるイエス・キリストを仰ぎつつ、私たちは与えられたこの世の人生を生きていくのです。
 
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