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ノアの物語は、子どもたちにとても人気のある聖書物語です。いちばんの理由は、動物が出てくることにあるのではないでしょうか。最近、ペットロスを経験した人からその苦しみを聞くことが多くなりました。ペットも天国に行けるのだろうかと尋ねられることもあります。そんなことから、人間と動物との関わり、また神様と動物との関わりということについて、聖書は何と語っているのだろうかと、あらためて考えさせられています。人間と動物との関わりについては、すでに天地創造のお話のなかでもさせていただきましたが、ノアの物語も、人間と動物、神様と動物という関わりを示す物語として、大切なメッセージを語りかけてくれるものだといえましょう。
けれども、この物語でいちばん大切なことは、そのことではありません。私たちがしっかりと胸に受けとめなければならないことは、神様が、この世界を、一度、滅ぼそうとされたということです。神様は、地上に悪がはびこるのをご覧になり、それに耐えられなくなってしまったのです。そして、人間やこの世界をお造りになったことを後悔され、すべてを洪水で滅ぼしてしまうとされるのです。
しかし、神様はこの世界を滅ぼしきることができませんでした。ノアを憐れまれ、家族や動物たちと一緒にお救いになるのです。そして、もっとも大事なことは、神様は大洪水で世界を滅ぼしかけてしまったことを後悔されたということです。神様は、最初、この世界をお造りになったことを後悔しましたが、今度はこの世界を滅ぼしかけてしまったことを後悔されるのです。後悔したことを後悔された、この神様の二重の後悔を知ることが、ノアの物語でもっとも重要なことなのです。
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まずは、神様が人間とこの世界をお造りになったことを後悔するに至るまでの人間の歴史を振り返ってみましょう。
最初、神様はこの世界を良いものとして、お造りになりました。
神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(『創世記』第1章21節)
こうして天地創造の御業を完璧に成し遂げられた神様は、創造の仕事を離れ、安息されたとも言われています。
天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(『創世記』第2章1〜3節)
きっと神様は、お造りになった天地の出来映えに満足し、すっかり安心して、お休みになられたのでありましょう。
ところが、この安息が打ち破られる事件が起こります。アダムとエバが、神様に食べてはならないと言われた禁断の木の実、すなわち善悪の知識の実を食べてしまったのです。これによって、《極めて良かった》と絶賛され、完全な肯定をもって語られた世界に綻びが出てしまいます。アダムとエバは楽園を追放され、多くの苦労を生きる重荷として負うことになりました。長男カインが弟アベルを殺してしまったという凄惨な事件も、ふたりに大きな悲しみを与えました。このような罪と重荷と悲しみを負う人間として、アダムとエバの子孫は地上に増えていきます。
第5章には、10代にわたるアダムの系図が記されています。その10代目に生まれたのがノアです。10代といっても、当時の人間は800年、900年も生きたとありますから、相当の年月がそこに流れています。計算をしてみますと、ノアはアダムが誕生(つまり天地創造の完成)から1056年目に生まれます。そして、第5章の終わりには、《ノアは五百歳になっとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた》とあります。この時はアダム誕生から1556年です。その頃、地上の様子はどうなっていたのか。目もあてられないほど悪い世の中になっていた、と聖書は伝えます。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(第6章5〜6節)
アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまってから、人間の歴史は、ひたすら罪を重ね、堕落の一途を辿るばかりだったのです。
この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。(第6章11〜12節)
天地創造が完成した時には、《見よ、それは極めて良かった。》と記されてたのに、1500年経ったとき、《見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地上で堕落の道を歩んでいた》と語られるのです。
これが、聖書の語る人間の歴史です。これこそ、私たちが生きている今に至るまで変わることがない人間の歴史であるというのが、聖書のメッセージなのです。
《堕落》とは落ちることです。どこから落ちるのでしょうか。神様が人間をお造りになられたときの、本来あるべき人間の姿から落ちるのです。私たちは、罪とか悪の問題を、人間関係において考えることが多いのですが、聖書は、神様との関係においてそれを語ります。人がどう思うかということももちろん大事ですが、それだけで善悪を考えるのは間違いです。迷惑する人が誰もいないのなら、何をやっても善いということになってしまうからです。聖書は、たとえ誰が迷惑するわけではなくても、本来、神様がお造りになったあるべき姿から堕落し、違ったものになって生きることは悪であり、罪であるというのです。そして、人間はひたすら神様から遠ざかる方へ、遠ざかる方へと生き続けている。それが人間の堕落であり、人間の歴史なのです。 |
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そのような人間の罪の歴史の中で、ちょっと解釈に苦しむ不思議なことが記されています。それが、6章1〜4節にありますネフィリムの話です。
さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
《神の子ら》が人間の娘と結婚した、と記されています。そして、《神の子ら》と人間の娘の間に生まれた子どもたちが《ネフィリム》と呼ばれ、《名高い英雄》とされていたというのです。4節、
当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
ネフィリムは、こことは別にもう一回だけ聖書に登場します。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、約束の地であるカナンの土地の前でキャンプを張り、各部族から1名ずつ都合12名の偵察隊を送り込んだときです。帰ってきた偵察隊は、モーセとイスラエルの民に、このように報告しました。「約束の地は乳と蜜の流れる素晴らしい土地でした。しかし、そこに住んでいる人たちはとても強く、町という町は皆立派な城壁に囲まれています」それはそれで事実なのですが、それでも神様を信じて上っていこうというヨシュアやカレブに抗して、怖じ気づいた偵察隊の一部の人々は「われわれが見たのはネフィリムだった」という情報を流し、人々を動揺させます。民数記13章33節を読んでみます。
そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。
実際、ネフィリムがカナンの地に住んでいたわけではありません。怖じ気づいた人々が、民の意気を削ぐために「我々がカナンの地で見たのは、ネフィリムだった」という噂を流布したのです。ネフィリムは、たとえば日本の「鬼」のように、人並み外れた巨人の恐ろしい種族として伝説化され、イスラエルの人々に恐れられる存在だったのでしょう。
問題は、このネフィリムが、神の子らと人の娘の結婚によって生まれた種族であると、聖書に言われていることです。ギリシャ、インド、日本のように多神教の国々には、神と人間の結婚とか、混血という神話はめずらしいものではありません。しかし、聖書が、神と人間の結婚とか、そこに生まれた子がいたと語るのは、聖書本来の信仰からしてもまったく解せない話です。神は神であり、人間は人間に過ぎません。神と人間の間には、けっして超えられない隔たりがあります。それが聖書信仰です。そういう意味で、ネフィリムの話は、昔から聖書学者を悩ませてきました。
ネフィリムとは、どういう者たちなのでしょうか。それは、《神の子ら》とは何者かという問題から解かなければなりません。天使であるという人もいますが、聖書的にはちょっと考えにくいことです。《神の子ら》とはセトの子孫で、人の娘らというのはカインの子孫だと説明する人もいます。あるいは、神の子とは信仰者のことで、人の娘というのは不信仰者だという説もあります。しかし、いずれもこじつけのような感じがします。
わたしが一番しっくりとくると思ったのは、神の子らとは、地上の王たちであるという解釈です。なるほど、王は、神と同一視されたり、神の子とされたりすることがあるのです。日本でも天皇は現人神とされました。アダムからノアまで1500年の歴史があると申しましたが、それだけあればそのような現人神を名乗る王様があちこちに現れても不思議ではありません。そして、そういう王の子らが、超人的な活躍をし、英雄伝説として伝聞されてきたと考えるのがいちばんしっくりくるのです。
聖書信仰からすれば、王様だって人間です。どんんな名高い英雄だろうと、人の子に過ぎません。それなら、聖書はネフィリム伝説など頭から否定してもいいのです。しかし、真っ向から否定する代わりに、聖書はこのような言い方をします。3節、
主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
これは、単なる寿命の制限とは違った意味合いがあります。神の霊と人間の肉との結びつきを、「はかなくあれ」と言っているのです。
人間は土の塵で作られましたが、神様の似姿に創造され、神様から命の息(霊)を吹き込まれて生きる者となった、と天地創造には語られています。人間は肉に過ぎない者にもかかわらず、神の霊を宿す者として生きているのです。しかし、それはあくまでも神様に吹き込まれたものであって、人間が本来もっているものではありません。人間が神の霊を持ち、神の霊によって生かされているということは、人間が霊的存在であるというよりも、神様と人間との関係の親密さを表しているのです。
けれども、人間は、神様に背き続ける歩みをしてきました。言い換えれば、神様との関係を断ち切るような生き方をしてきたのです。それは、人間が霊的な存在であることをやめ、本能の赴くままに肉に過ぎない者として、生きてきたということではありません。むしろ、その逆です。神なしに、神によらずに、自らが神のごとき霊的存在であると思い込むのです。
アダムとエバを誘惑した蛇の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。『創世記』第3章4〜5節
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
神様を信じなくても、神様を頼らなくても、その実を食べるだけで神のようになれる。アダムとエバは、この誘惑に陥って木の実を食べてしまったのでした。神様を信じなくても、神様に依り頼まなくても、自分が神のようになればそれでいいじゃないか。神様なんか必要ないじゃないか。そういう生き方を選んだのです。
ネフィリム伝説が伝えるのは、そういうことではないでしょうか。神の子、すなわち神の霊を持つ者と肉に過ぎない人間が結婚をする。そして、神の霊、神の血を遺伝子情報として人間の肉なる身体のうちに受け継ぐならば、それは鼻から命の息を吹き込まれたどころではない霊的な存在になれる。神そのものではないにしろ、もはや人間でもない。人間を超えた超人になれる。こういう願望は、古代に限らず、現代にもあることです。現実がどこまで進んでいるかは別にしましても、SF映画などみますと、どんな問題も解決できる力を備えてスーパーマン、超人が、英雄として描かれ、もてはやされているのです。神と人とが結婚して生まれたネフィリム、科学の技術が生もうとするスーパーマン、どちらも自らが神になることによって、神なしに生きようとする人間の姿なのです。
神と人間が結婚するなどは有り得ません。ネフィリムという種族の存在など伝説に過ぎないものであったに違いありません。しかし、聖書はあたかもそれが存在したかのように書いています。それは、そのような人間のあり方を願い、それを希求する人間が後を絶たないことを知っていたからです。そして、そのような人間に対して、あなたは肉に過ぎない者、儚い者であることを再度、ここで確認させているのです。
そういう意味で、ネフィリムの物語というのは、人間の悪とは何であったのかということを物語る話であったと言ってもいいでしょう。地上に悪が増し、常に割ることばかりを心に思い測っている人間というのは、殺人とか強盗とか詐欺とかそういうことばかりを考えているということではなくて、神なしに生きていける、生きていこうとする、自らが神になろうとするそういう生き方、神様が本来お造りになった人間の姿とはまったくかけはなれた生き方をしているということなのです。
それをご覧になって、神様は人間を作ったことを後悔したと記されています。5〜7節
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
神様は人間を造ったことを後悔し、せっかく創った人間をすべて滅ぼしてしまおうとされます。人間くさい言い方をすれば、神様の絶望がここに記されているのです。しかし、神様は人間を滅ぼし尽くさなかった。ノアを救い、新しい人間の歩みをゆるされた。大洪水、ノアの箱船という話は、このように神様がご自身の絶望を乗り越えて、人間を守ろうとしてくださったという話なのです。 |
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