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前回のネフィリムのお話しをしました。神の子らと人の娘らが結婚して、その間に生まれた子どもがネフィリムと呼ばれ、古代の英雄となった、というお話しです。神と人との結婚は「聖婚譚」と呼ばれ、日本の古事記のなかにも、ギリシャ神話のなかにも、また国々のさまざまな神話のなかにもよくあるお話しです。たいていは、神と人との性交渉によって聖なる子どもが生まれ、その子どもが一族の始祖となったり、一族を救う英雄となったりする物語のようです。このような物語の背景には、自分たちの国や、一族の起源を、聖なるものとする(神話化する)目的があると思われます。いかにも人間が作り出しそうな神話だといってもいいでしょう。だからこそ、どこの国にも似たり寄ったりの話があるのでしょう。だからこそ聖婚譚そのものといえるネフィリムの話が聖書のなかにあることに、非常な違和感を覚えるのです。
解釈の鍵となるのは、《神の子ら》という言葉です。これが何を指すのかによって、ネフィリムの解釈が決まってくると言ってもいいでしょう。実にさまざまな解釈があるのですが、大別すれば、王様とか呪術師のような人々から神格化された人間とするか、それ以外のもの、たとえば実際に神様が生んだ子どもとか、天使とか悪魔とか、そういった神的存在にするかということに別れます。
前回お話ししましたように、わたしは前者の立場をとります。実は、そういうお話しを他の牧師さんたちの前でいたしました。すると、ある先生から、「国府田くん、それは違う。これは堕落した天使と人間の結婚なのだ。ネフィリムというのは、その合いの子で、人間のなかにはそういう悪魔の子たちが交じって、潜んでいるのだ。」と、延々と自説を説かれたこともあります。それぐらい、ここは専門家の間でも解釈が分かれるところだ、と言っていいでしょう。
しかし、聖書がネフィリムを否定的な存在として扱っているという点では、100パーセント一致しています。いわゆる聖婚譚は、神と人の間に生まれた子どもを神格化したり、英雄化したりするもののです。聖書にも、人々がそういうことをしていたと書くのです。しかし、そういう英雄を、英雄として認めないというのが、聖書の立場なのです。『創世記』第6章3節にはこう記されています。
主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」
人間はどこまでいっても肉に過ぎないのだということを、神様の御心として語られているわけです。それにも関わらず、ネフィリムのようなものを希求したり、英雄化したりすることこそが、人間の悪の表れであるというのが、聖書の立場です。この結論については、ネフィリムの解釈がいかに別れようとも変わることはありません。そこをきちんとおさえておきたいと思います。
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今日は5〜8節を中心に学びたいと思います。5節を読みますと、《主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、》とあります。《人の悪》とは何でしょうか? 昔の人々は、ユダヤ人もキリスト教徒も、ノアの時代の人の悪について、あらん限りの想像力を駆使して描き出して見せました。それは、ちょっとここで口にするのも憚られるほどの暴力、淫行、盗み、汚職・・・。そういうおぞましいほどの不道徳が、人間のやりたい放題に横行していた。そういう悪徳の世界をご覧になって、神様は、もうこの世界は駄目だと思われたのである、というのです。
ほんとうにそうでしょうか。人間の世界には、いつでもそういった悪があちこちに見られます。しかし、ノアの時代は今とは比べものにならないほどそれが酷かったのだと、聖書は語っているのでしょうか。私は少なくとも二つの理由で、それは違うと思うのです。
一つは、ほんとうに今の時代は、ノアの時代よりましなのかという疑問があります。地球を何度壊滅させても有り余るほどの核兵器を懐にしのばせ、恫喝まがいの外交を行っている国々、札束で貧乏人の頬を叩くような政治家たち、看板に偽りありの大企業、飢え渇く人たちにまったく無関心でいられる人々・・・ノアの時代にあったことは、すべての今の時代にもあると言っても過言ではないと思いますし、一面においてはノアの時代以上に恐ろしい世界だとも言えるのではないでしょうか。
もう一つは、より本質的なことです。つまり、イエス様の教え給うことによれば、悪とは、どちらが大きいかという程度の問題ではないのです。『マタイによる福音書』第5章のなかで、イエス様はこう教えられました。
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(『マタイによる福音書』第5章21〜22節)
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(『マタイによる福音書』第5章27から28節)
わたしは殺していないからましであるとか、わたしは姦淫をしていないからましであるなどということは、神様の前ではまったく通用しないのだと、イエス様は教えられます。実際に不道徳な行為に及ぶかどうかはきっかけの問題であって、同じ心をもっているならばみんな同罪であるというのです。そうだとすれば、やはりノアの時代より今の時代のほうがましであるというのは、ちょっと的外れな考え方であるように思うのです。
いったい、神様にさえ「もう駄目だ」と言わせた人間たちの非常なる悪とは、何であったのでしょうか。それを暗示させるのが、ネフィリムの話なのです。人々は、造り主なる神様を世界から排除して、自分たちが神となれるような世界を築こうとするということです。
イエス様のお話くださった譬え話に、ぶどう園と農夫の話があります。『マタイによる福音書』第21章33〜40節からを読んでみます。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
ぶどう園の主人から遣わされた僕たちを、次々に殺してしまう農夫たちの姿が、描かれています。これは農夫たちの残虐さを描いた話ではありません。ぶどう園を主人の手から奪い取ろうとする農夫たちを描いているのです。その手段として、残虐な殺人が繰り返されます。最後に、農夫たちは、主人の息子を殺す相談をします。これで跡取りもいなくなり、ぶどう園は我々のものなると話し合うのです。人間が、神様に対してしていることは、まさにこういうことなのだ、とイエス様はおっしゃるのです。
イエス様がお生まれになった時、ヘロデ王は生まれたばかりイエス様を殺すために、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を、皆殺しにしました。まさしく神を恐れない所業です。こんなことができるのは、神様をこの世界から締め出し、神になりかわってこの世界を自分のものにできると思っているからでありましょう。この人間の傲慢さが、人間のあらゆる悪しき業の根底に横たわっているのです。
イエス様は、この譬え話をなさった後、人々に問いかけます。「あなたがぶどう園の主人なら、このような農夫たちをどうするか?」 彼らは答えます。「悪い農夫たちを酷い目に遭わせて殺し、ぶどう園を他の農夫たちに貸し与えます。」当然でありましょう。しかし、このように言う彼らには、その悪い農夫がまさしく自分のことであり、この世界を神様から取り上げられても少しも文句の言えない者であるという自覚が、まったくありません。私たちも、そういう感覚であると、ノアの時代は今よりももっと酷かったに違いないなどと平気で思うことになります。けれども、神を恐れない、神を神としない、自分が神になろうとしている、それこそが罪であるとするならば、ノアの時代も、今の時代も、少しも違わないのではないでしょうか。いや、もっと悪い事態に陥っていると考える人があってもいいとさえ思うのです。
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そのように思い至る時、私たちの頭をよぎるのは、神の裁きであります。ノアの物語も、最初に受ける印象は、神様の裁きです。また、私たちが自分の罪深さを自覚するときに恐れることも、神の裁きであります。ところが、聖書は、この人間の悪を見た神様は、それに対して烈火の如く怒ったり、厳正な裁きを下し、神罰を下したりする代わりに、人を造ったことを後悔し、心を痛めるばかりであったと聖書は語っています。神様は、何ひとつ裁こうとしていません。ただひたすら傷つき、後悔し、胸を痛めるのです。もう一度、5〜7節を読んでみます。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
神様は、《わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう》と言われます。ここから感じとれるのは、人間の罪を厳しく裁く義なる神ではありません。人間に対する期待を木っ端微塵に打ち砕かれて絶望する神です。誤解を恐れずに、敢えて大胆な言い方をすれば、手塩に掛けた人間や、動物たちを滅ぼすということは、神の自傷行為なのです。万物の主として讃美されるべきご自身の栄光を投げ捨てられることだからです。
ノア
すると、ノアの存在の持つ意味も、これを神罰の物語として読む場合とはまったく違ったものになってきます。神様が絶望のどん底で、藁をも掴む思いで見出したのが、ノアであったのです。
しかし、ノアは主の好意を得た。
神様がノアを救ったというよりは、神様がノアに救われているのです。よかった! 助かった! ノアがいた! 《しかし、ノアは主の好意を得た》という言葉に籠められているのはそういうことなのです。こういう言い方は、奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、私達の罪は、神様をそれほど傷つけ、苦しめているということなのです。私たちは、自分の罪深さを思うと、「ああ、こんな私は決して神様にゆるされないに違いない」と思ってしまいます。そして、神様が「あなたを赦す」と語っても、いや、わたしは赦されざる罪人ですと答えてしまう人間です。いかにも敬虔に聞こえるこの言葉のなかに、実は極めて強情な傲慢さが潜んでいます。なぜなら、そこにあるのは神様の思いではなく、自分を赦せない、自分を裁かなければ気が済まないという自分の思いなのです。神様の気持ちなど少しも考えていないのです。
しかし、ノアは主の好意を得た。
ノアとは、どんな人物であったのでしょうか。もし、これが神罰の物語であるならば、ノアは神の裁きに耐えうるほどの義人でなければならなかったでありましょう。しかし、罪とは、程度の問題ではないと申し上げました。そうすると、ノアは非の打ち所のない義人でなければなりません。けれども、他方で、そのような人間など一人もいないとも、聖書は語っています。だとするならば、ノアは、罪人でありながらも、神様が「よかった、ノアがいた」と思わせる何かをもっていたということになります。それは何か。9節にはこう記されています。
これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
ノアは神に従い、神と共に歩む人でした。それはどういう意味か? 次週、ノアについてお話しをしたいと思いますが、ひとつだけお話ししますと、ノアの物語の中で、ノアは一言も言葉を発していないということです。洪水の後、ノアがカインを呪う場面がありますが、ここで初めてノアの言葉が出て来ます。しかし、それ以外にノアの言葉は一切ありません。ここにあるのは、神様の言葉です。ノアは語る人ではなく、聞く人でありました。訴える人ではなく、従う人でありました。そのようなノアであるからこそ、ノアは罪人でありながら、御心を行う人になれたのであります。 |
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すると、ノアの存在も、これを神罰の物語として読む場合とはまったく違った意味合いをもってきます。神様が絶望のどん底で、藁をも掴む思いで見出したのが、ノアであったのです。
しかし、ノアは主の好意を得た。
神様がノアを救ったというよりは、神様がノアに救われているのです。よかった! 助かった! ノアがいた! 《しかし、ノアは主の好意を得た》という言葉に籠められているのはそういうニュアンスです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、私達の罪は、それほど神様を傷つけ、苦しめているということなのです。
私たちは、自分の罪深さを思うと、「ああ、こんな私は決して神様にゆるされないに違いない」と思ってしまいます。そして、神様が「あなたを赦す」と語っても、いや、わたしは赦されざる罪人ですと答えてしまう人間です。いかにも敬虔に聞こえるこの言葉のなかに、実は極めて強情な傲慢さが潜んでいます。なぜなら、そこにあるのは神様の思いではなく、自分を赦せない、自分を裁かなければ気が済まないという自分の思いなのです。神様の気持ちなど少しも考えていないのです。
しかし、ノアは主の好意を得た。
ノアとは、どんな人物であったのでしょうか。もし、これが神罰の物語であるならば、ノアは神の裁きに耐えうるほどの義人でなければならなかったでありましょう。しかし、罪は程度の問題ではないと申し上げました。そうすると、ノアは非の打ち所のない義人でなければなりません。けれども、他方で、そのような人間など一人もいないとも、聖書は語っているのです。だとするならば、ノアは、罪人でありながらも、神様が「よかった、ノアがいた」と思わせる何かをもっていたということになります。それは何か。9節にはこう記されています。
これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
ノアは神に従い、神と共に歩む人でした。それはどういう意味か? 次週、ノアについてお話しをしたいと思いますが、ひとつだけお話ししますと、ノアの物語の中で、ノアはひと言も言葉を発していないということです。洪水の後、ノアがカインを呪う場面がありますが、ここで初めてノアの言葉が出て来ます。しかし、それ以外にノアの言葉は一切ありません。ここにあるのは、神様の言葉です。ノアは語る人ではなく、聞く人でありました。訴える人ではなく、従う人でありました。そのようなノアであるからこそ、ノアは罪人でありながら、御心を行う人になれたのであります。 |
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