|
|
|
神様は、堕落の一途をたどる人間世界をご覧になって、「もう駄目だ。これを地上からぬぐい去ろう」と決心をなさいました。そして、あろうことか、せっかくお造りになった命豊かな世界から、人間ばかりではなく、空の鳥も、爬虫類も、地上の動物たちも、命あるもの一切を滅ぼすような大洪水を起こされるのです。
昔から多くの説教者が、これは人間に対する神の裁きである、と語ってきました。そして、正しい人であったノアだけが、神様の配慮を受け、破滅のただ中から救われたのである、と語られてきたのです。
そうだとすると、わたしには疑問があります。なぜ神様は、こんな中途半端な裁きを行ったのでしょうか。ノアの子孫たちは、結局、大洪水の前と少しも変わらない道を歩み始め、今日に至っています。それは、洪水以前の姿と少しも変わらないであろう罪の世界です。イエス様は、《悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。》(『ルカによる福音書』6章43〜44節)と言われました。このお言葉によって判断すれば、ノアは、ぶどうの木でも、いちじくの木でもなく、茨でありました。もし、大洪水の物語が、畑から茨を抜くように、この地上から悪をぬぐい去ろうとされた物語であるならば、ノアを生き残らせたのは、神様の大失策であったということになります。茨を抜こうとするならば、一本残らず、根こそぎ抜かなければなりません。少しでも根が残っていれば、またはびこってくるのは当然なのです。
ですから、もしこれが神の裁きの物語だとするならば、神様の悪を一掃するという裁きは失敗であったと言わざるを得ません。しかし、これは裁きの物語ではないのです。人間に対する神様の絶望と、その絶望の克服の物語です。6章5〜7節にこう記されています。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
ここには、神様の裁きとか、怒りとか、そういうことはいっさい語られていません。《地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた》という言葉から読み取れるのは、ご自分が手塩にかけてお造りになった人間が、まったく意に反する歩みを続けているのをご覧になって、おろおろしておられる神様、そんな姿です。同じように、《わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう》という言葉も、悪を裁くというよりも、ご自分がお作りになったものを自分の手で破壊しなければならない、そこまで追い詰められた神様の嘆きの果ての言葉なのです。
果たして、大洪水が起こります。ノアとその家族、また一部の動物たちが箱船によって、その洪水を生き延びます。そして、水が引いたあと、神様はこう言われるのです。『創世記』8章21節、
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」
これは、神様が、絶望を克服された場面です。もし、神様の裁きの物語であったなら、神様はノアを救ったことをこそ後悔すべきでありましょう。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。だから、どうせノアの子孫は同じ道を歩み、もとの木阿弥となろう。わたしはノアを救ったことを後悔する」と。しかし、神様は、ノアを救ったことを後悔するのではなく、神様が大洪水によってすべてを滅ぼうとされたことを後悔するのです。
そして、「二度とすまい」と自らの心に誓われたと、聖書は語ります。言い換えれば、否定の否定が行われるのです。神様はご自分がお作りになった世界を無条件で肯定されました(『創世記』第1章21節)。それを一度否定されます。こうして起こったのが大洪水です。しかし、それをもう一度否定される。大洪水を起こしたことを後悔するのです。否定の否定です。
否定の否定は、単純な肯定よりずっと強い肯定となり得ます。一度、人間を造ったことを後悔した神様は、後悔したことを後悔することによって絶望を克服されました。それは、神様は必ず創造主でありつづけ、決して、二度と、その破壊者にはならないということでもあります。だからこそ今、私たちは自分がどのような罪深い者であろうとも、神様を天の父として信じることができるのであり、放蕩息子が経験したような救いを神様に期待することができるのです。
しかも、聖書は洪水で滅ぼされた者たちについてまで、こう語るのです。『ペトロの手紙1』3章19節、
霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。
神様は、箱船によって救われたノアの子孫ばかりではなく、洪水によって滅ぼされた人々にもキリストを送ってくださるのだと言われています。わたしたちの場合、いくら否定を否定したとしても、過去は取り戻せないのですが、神様は過去を含めて、すべてを御自分のうちに回復し、すべてのものの造り主、父なる神様となってくださるということなのです。
|
|
|
|
そうしますと、ノアもまた、「神様の裁きを免れた正しい人」という単純な位置づけではなくなります。前回、わたしは《しかし、ノアは主の好意を得た。》というみ言葉について、こう申しました。御自分がお造りになったすべての命を滅ぼさなくてはならないと悲痛な決心をしていた神様は、絶望のどん底でノアを見出し、「よかった! 助かった! ノアがいた!」と思われたのだ、神様がノアを救ったというよりは、神様がノアによって救われたというのが真相である、と。もちろん、ノアが神様を救ったというのは、力なき神様を助けたという意味ではありません。神様の悲しみをほんの少しでも慰めたということです。
人が神様を慰めた話として思い出すのは、ピネハスの話です。民数記25章にある話ですが、イスラエルの民がモアブの神々を慕い、神様がその偶像礼拝の罪に対して激しくお怒りになったとき、ピネハスは偶像礼拝者のひとりを見つけると、立ち上がり、鎗で突き殺しました。その時、神様はモーセにこう言われるのです。
「祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスは、わたしがイスラエルの人々に抱く熱情と同じ熱情によって彼らに対するわたしの怒りを去らせた。それでわたしは、わたしの熱情をもってイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、こう告げるがよい。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を授ける。彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる。彼がその神に対する熱情を表し、イスラエルの人々のために、罪の贖いをしたからである。』」(『民数記』25章11〜13節)
ピネハスは、神様の怒りを自分の怒りとして行動した。そのピネハスの行動をみて、神様はイスラエルに対する怒りを収められたというのです。
ノアはどうでしょうか。9節にはこう記されています。
その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
ノアがどのような行いをもって神様の好意を得たのか、具体的なことは何も書かれていません。逆に、ノアが道徳的な模範者であったということも書かれていません。ことさら、そうでなかったという必要もないと思いますが、それが神様の好意を得た秘密ではないのです。
まず、ノアについて言われているのは《無垢な人であった》ということです。無垢であるというのは、「垢にまみれていない」と書くわけですが、それ自体は良いとも悪いとも言えないことです。よく言えば純真、悪く言えばうぶで世間知らずということになります。
しかし、ノアはそれだけではなく、神に従い、《神と共に歩んだ》と言われています。ノアは世間知らずで、この世を生きていく上ではまったく知恵も経験もない人であり、言い方によっては愚かであり、生きる術をもたないような人であったかもしれませんが、神様と共に歩むという信仰については一所懸命の人であったということなのです。
これについてはひとつの思い出があります。神学校で学ぶようになって間もなくの頃、わたしはあることを悩みはじめました。こうして神学校で勉強をするだけで、本当に牧師は務まるのだろうか? 一度、世のなかに出て、この世の仕事をして、この世の苦労を人並みに経験して、その上で牧師になるべきではなかろうか? そういう思いが湧いてきたのです。その時に、ある方がアドバイスをしてくださいました。5年や10年、世の苦労を味わったぐらいで、世の人々の苦労が分かったつもりになっては困る。そんな牧師になるぐらいなら、「わたしは何も知りません」と、謙遜にしていた方がいい。そもそも教会に来る人は、この世の知恵や力を学びにくるんじゃない。牧師に期待されているのは、神の知恵、神の力、神の御心を語ることだ、と。なるほど、その通りだと納得しました。
ですから、わたしは自分がたいへんな世間知らずであることを自負しているのですが、それだけに、ただ神の知恵、神の力だけを頼りに祈りながら生きるほかないのです。決して立派なことだと思っていません。ほかにどうしようもないから、そうするのです。ただ、ノアが主の好意を得たというのは、もしかしたら、それでいいんだと言う話ではないでしょうか。
わたしは、自分のことを神に従う無垢な人であると言う自信はありません。しかし、少なくとも世間知らずではあります。この世を力強く生きている人からみれば、何もしらない愚かな者であり、お金もなければ、コネもなく、自慢できる業績もありません。だからこそ、神様を頼るしか生きる術をもたない者です。ところが、それでなんとかやってこられるから、不思議です。だんだんこの世のことを信じるより、神様を信じるほうがずっと確かな生き方ではないかと思えてきて、それが確信にまでなってくるのです。
ノアは、それに一重も二重も輪を掛けたような世間知らずで、だからこそ、ただ神の知恵と力を愚直なまで信じ切り、これにすがっていたのではありませんでしょうか。
|
|
|
|
何よりも、ノアが神様の命じられるままに箱船を造ったということが、それを物語っています。常識的な人ならば、箱船を造ることはできなかったと思うのです。14〜16節に、神様がノアに指示された箱船について記されています。
あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
ノアは箱船を造りました。太陽が輝き、大雨の予感など少しもないような時に、ノアは長さ133.5メートル、幅22.2メートル、高さ13.3メートルもある三階建ての大きな船を造りました(1アンマ=44.5センチ)。中には小部屋を幾つもつくり、水が漏れないように内側からも外側からもしっかりとタールを塗りました。しかも、海でもなく、川でもなく、湖でもなく、地面の上に造ったのです。
船を造る技術はどうしたのでしょうか。人手はどうしたのでしょうか。木材をはじめとする材料は容易に手に入ったのでしょうか。必要な経費、また箱船を造っている間の生活費はどうしたのでしょうか。すべてがノアに備わっていたとは思えません。協力者を得るどころか、大勢の笑いものにされた可能性も十分にあります。しかし、ノアは箱船を造り始め、それを完成させました。その方法が、22節に記されています。
ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
これがノアの方法でした。それ以外の方法で、箱船を造ることはできません。たとえ船大工であっても、海も川もないところに船を造れと言われてそれに従うでしょうか。たとえ世の富を持つ人も、世の知恵を持つ人も、世の力を持つ人も、神様の言葉を信じなければ、箱船を造ることはできないのです。しかし、神様の言葉を信じ、その通りに果たすならできます。ノアとは、そのようなことを信じる人であったのでした。そこに、神様は慰めを得たに違いありません。
|
|
|
目次 |
|
|
|
聖書 新共同訳:
|
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|