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今日は7章です。神様は、深い痛みをもって決心されたことを、ついに実行されました。すなわち全世界を覆い尽くす大洪水を起し、自らお造りになった人間を、地上の生きもの諸共に一掃されたというのです。ただし、ノアとその家族、そして地上の生き物が種類に従って一つがい、ないし七つがいが、ノアの作った箱船に乗り込み、この大洪水から救われます。
今日は、この大洪水について学びたいと思います。お話ししたいことが二つあります。一つは、歴史の問題ですが、本当に大洪水があったのかどうかということです。もう一つは、聖書解釈の問題ですが、なぜ大洪水が起きたのかということです。「なぜ」というのは、神様がお造りになったものを滅ぼそうと決意された経緯については6章で学びました。ここではそういうことではなく、滅ぼすにしても、なぜ大洪水だったのかということです。ソドムとゴモラは天の火で滅ぼされたとありますし、モーセに逆らってイスラエルの民を惑わしたコラ、ダタン、アビラムとその仲間は、大地が口を開いて呑みこまれてしまいました。戦争で互いに殺し合ったり、疫病で多くの者が滅ぼされたということもあります。神様はどのような方法を用いても、人間を滅ぼすことができたに違いありません。しかし、神様は洪水を起こされました。そこにはどういう意味があるのでしょうか。
より聖書的に重要だと思われるのは二番目の問いですが、これは次回にいたしまして、今日は基本的なこととして、このような世界中を覆うような地球規模の大洪水は、歴史的にほんとうにあった話のでしょうか?
17世紀にヨーロッパ人がアメリカに渡って暮らすようになります。すると、ヨーロッパ人が見たこともないような動物がたくさんいる。今の私たちであれば、知らない土地に知らない動物が住んでいることが何の不思議もないことですが、当時のヨーロッパ人にはノアの箱船に乗っていない動物が存在することは不思議でならなかったのです。
『創世記』によれば、大洪水の後、ノアの子孫が地球の各地に移り住んだことになっています。その時、当然、多くの動物たちも人間と一緒に移動したと考えられます。しかし、17世紀のロバート・バートンという人は、著書の中でこう言っています。
「どうしてアメリカにのみいる何千という珍しい鳥や動物があるのだろうか・・・彼らは六日間でつくりだされたのだろうか、あるいはノアの箱舟の中にいたのだろうか。もしそこにいたとすれば、どうして彼らは分散してほかの国々にも見られるようにならなかったのか」(ノーマン・コーン、『ノアの大洪水』)。
またトマス・ブラウンという医師もこう書いているそうです。
「アメリカには肉食動物や有害な動物がこんなにたくさんいて、しかも馬という必要な動物がいないのはまったく不思議である。鳥だけでなく、危険な、歓迎されない動物は、どこをとおってやってきたのだろう。この三大陸にはみられない動物がどうしてそこにいるのだろうか。箱舟はひとつしかなく、動物はアララト山から発展はじめたと考えているわれわれにとっては、不思議なことばかりだ」(ノーマン・コーン、『ノアの大洪水』)
この頃から、聖書に記されている大洪水はほんとうに地球規模だったのかという疑問が起こり始めたようです。
実は、世界を覆うような大洪水を経験したという物語は、聖書だけではなく、古代オリエント、ヨーロッパ、アメリカ、東アジア、ポリネシアなど世界各地に300ぐらい残っているといいます。神様が大洪水を起こし、正しい人が救われるというのは、世界に共通する一つの神話のテーマになっているのです。
なかでも有名なものは、19世紀に発見された『ギルガメシュ叙事詩』という古代メソポタミアの神話です。ギルガメシュは、紀元前2600年頃、シュメールの都市国家ウルクに実在した可能性もあるといわれる伝説的な王様ですが、その物語のなかにだれもが驚くほど聖書の大洪水とそっくりな話があることが発見されたのでした。そこには、洪水発生の告知、箱船、家族と動物の乗船、山頂への着陸、鳩を飛ばしたこと、洪水後の犠牲、虹などが記されておりました。
しかし、そこには前回お話ししたような神の絶望と再生の決意というような聖書の主題はありません。『ギルガメシュ叙事詩』などは、神々のきまぐれで大洪水が起こっており、洪水の後、神々は大洪水を後悔するというところは聖書と似ているのですが、箱船によって救われたウトナピシュティムに永遠のいのちを授け神にした終わり方になっています。
いずれにせよ、世界各地に大洪水の神話があるということは、世界各地で人類が大洪水を経験した証しでもあります。これをもって地球規模の大洪水があった証拠とする人々もいます。一つ面白い話を紹介しましょう。漢字の「船」(せん)という字は、「舟」の右に「八」と「口」があります。これは箱船に乗ったノアの家族八人(ノア、セム、ハム、ヤフェトとそれぞれの妻)だというのです。
他方で、人間はそもそも川や海など水辺に住み、町を作るのでありまして、たとえ地球規模の洪水がなくても洪水神話が世界中にあることは少しも不思議ではないという考え方もあります。地域的な洪水であっても、大きな洪水が起これば、それが「世界を飲み尽くす洪水」として語り継がれることは十分に考えられることです。
いずれにせよ民俗学的な見地から、地球規模の大洪水を決定的に証拠づけるのは難しいだろうと思います。 |
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では、科学的にはどうなのでしょうか。ほんとうに地球規模の大洪水があったとすれば、現代の科学の力で何らかの痕跡、証拠が見つかりそうなものです。
聖書に記されていることはすべて事実であるとするファンダメリストたちは、地球規模の大洪水があったとすれば、地球環境の激変、恐竜の滅亡、化石と神の創造の事実関係、短くなった人間の寿命、大陸の分離、北極南極の寒冷化など、すべてが合理的に説明できると言い、独特な科学的説明をもって、大洪水の事実を主張しています。
こういう科学は17世紀頃、聖書に書かれていることを科学的に証明しようとする信仰熱心なクリスチャン科学者の試みから盛んになりました。17世紀のヨーロッパといえば、ニュートンとかガリレオとかケプラーとかが活躍した時代で、科学的な見方、考え方というのが確立した時期です。単純に「聖書に書いてあるから事実である」というだけでは人間の知的な満足が得られなくなり、その事実をさらに確かなものにしようとして、科学は発展しました。ニュートン、ガリレオ、ケプラーといった人たちもそうなのです。地質学、古代生物学という学問も、実は化石や地層の研究をもってノアの大洪水を証明しようとしたニコラス・ステノ(1638〜1687)によって確立されました。
しかし、ミイラ取りがミイラになったといいますか、科学的な探求は、段々と聖書に書いてある事実を否定するような方向へと発展していき、聖書が単なる神話に過ぎないものだという考えを広めていきました。そういうことに対する反動として、ファンダメンタリストたちの創造科学というものがあるのだと思います。しかし、やはり、はじめに結論ありきの創造科学はどうしても無理があるように思えます。疑似科学と言われても仕方がないのではないかというのが、わたしの感想です。
もうひとつ興味深いお話しがあります。ノアの箱船の残骸が、今もアララト山頂にあるかもしれないというのです。聖書によれば、この山頂にノアの箱舟は漂着しました。従って、そこに箱舟の残骸があるというのは古くからずっと信じられていたことです。しかし、アララト山は標高5,137メートルもあり、山頂は常に雪と氷に覆われています。登るには険しく、崩れやすい岩が多く、岩の間には毒蛇までいるという、現代でも登りにくい山でありまして、近代以前には事実上、登山は不可能でした。
19世紀になって、ロシアの三つのチームがそれぞれ山頂に辿り着き、箱船を探しましたが見つからず、十字架を立てて下山したそうです。ところが20世紀になりますと、1916年、ロシアの飛行機でアララト山頂を飛んだ飛行士が箱船の残骸を見たと報告をしています。これを聞いたロシア皇帝は探検隊を任命し、調査にあたらせたところ、実際に箱船を発見したというのです。しかし、この報告はロシア革命の混乱の中で失われてしまいました。
その後も、アララト山頂を探検した人たちが氷のなかに箱船の残骸らしきものを発見を報告し、明らかに人の手が加えられた木片を持ち帰ったりしました。もっとも最近では、2008〜2009年、中国とトルコの考古学者ら15人による探検家が標高4,000メートルのところで、箱船の残骸らしき構造物を発見しました。構造物はいくつかの部屋に分かれており、箱船の船室ではないかと言われています。持ち帰った木片の炭素年代測定をしたところ、4800年前のもとと分かりました。聖書では人間が創られてから6000年、洪水はその1500年後ですから、ぴったり一致していることになります。もっとも、人類の歴史が6000年とした場合の話です。事実だとすると、世界四大文明の歴史と矛盾してしまうのですが・・・
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いろいろお話しをしてきましたが、要するにこれは聖書の読み方の問題なのです。聖書に書いてあることは、人間が納得するような知恵で証明を必要とすることなのでしょうか。それができなければ、作り話に過ぎないと貶められてしまう書物なのでしょうか。聖書が神様の言葉であるというのはそんなことではありません。神様は人間に侮られるような方ではなく、最後には、人間の知恵は愚かにされ、神の知恵こそ天地が滅びようとも滅びることなく永久に立つ真理であることを明らかにされることでしょう。
信仰とは疑うことである、というお話しをしたことがあります。聖書を疑っても良いのです。しかし、それと共に人間の知恵や理性も、世の中の常識も、自分の体験や感情や生き方も、疑ってみる必要があるでしょう。
すべてのものを疑うこと、何も信じられないことは、私たちにとってたいへん苦しいことです。言われたままに何も考えずに信じている方が楽なのです。しかし、それは信仰とは違います。信仰とは、疑いの果てに疑い得ぬものを見出すのです。それが信仰の確信なのです。このような確信がなければ、たとえ正しい道を歩いていても恐れも不安はなくならいでありましょう。
では、信仰はどのように与えられるものなのでしょうか。それは、人間の知恵による探求ではなく、神様が聖霊によって与えてくださるのです。神様の愛とキリストの復活と終末の希望は、私たちがどんなに人間の知恵を駆使しても知り得ることではありません。ただ神様が聖霊によって私たちの心のうちにお示し下さることによってのみ知り得るのです。ですから、信仰を持つとは、神様の御業であり、奇蹟なのです。
自分の知恵と信仰の区別がつかないうちは、まだ信仰の確信を与えられていないと言ってもいいでしょう。たとえ自分の知恵がどんなにそれに逆らうような状況におかれても、つまりとても神様が愛であるとは思われない現実を目にし、キリストが生きているなんてことがまったく感じられない経験をし、信仰者のどんなに悲惨な最期を目の当たりにしても、それでも神は愛であり、キリストは復活され、終末における救いが約束されているという希望が、それ以上に強く私たちに働きかけてくる。それが聖霊による信仰の働きなのです。それはもはや自分のものでありながら、自分のものではない、神様のなし給う奇蹟としかいいようがないものなのです。
わたしは、このような確信をもって、天地創造も、大洪水も、事実として信じています。歴史的にどうなのか、科学的にどうなのかということは説明できません。しかし、事実でなくても、その物語の持つ価値は変わらないという意見には賛同ができません。事実だからこそ、これは私たちひとりひとりの存在に直接かかわる物語なのです。自分というものを見つめるときに、自分と神様との関わりを見つめるときに、けっして目をつむることができない事柄なのです。聖書に書いてあることは、およそそのように読まなければ意味がなくなってしまいます。
矛盾を示すことも多くありましょう。下手な調和を試みなくてもよいと思うのです。ノアの物語をはじめ、すべて聖書に記されていることは、私たちがそのまま信じるために、神様がお与えくださったみ言葉なのです。
パスカルは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神にあらず」と言いました。神様は、実際にアブラハム、イサク、ヤコブを生かし、支え、導き給うた神様であって、頭の中で想像された神様ではないということです。信仰を持つということは、考え方を変えれば幸せになるとか、そんなことではありません。事実、神様は天地を創造されました。事実、神様は天地を滅ぼされました。しかして、事実、神様は滅ぼしたことを後悔し、いかに人間が罪深くても創造主なる神、父なる神であることを決意されました。この神様の恵みの事実を重く受けとめる者でありたいと願います。 |
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