天地創造 56
「大洪水A」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第7章1〜24節
新約聖書 コリントの信徒へ手紙1 7章17〜24節
ハイパー個人主義
 管首相の改造内閣が発足しました。統一地方選挙に向けて、なんとか民主党の支持率を取り戻したいという狙いがあってのことでしょう。しかし、顔ぶれが変わったら政治が変わる、世の中が変わるという期待感をもつ人は、もはや少ないだろうと思います。1年4ヶ月前、1955年から続いた自民党の政権を民主党が奪い取り、歴史的な政権交代を果たしました。その時は、それなりの期待感をもって民主党政権の発足を見守ったと思うのですが、結局、世の中が動き出すということはありませんでした。政権交代が起ころうとも、首相をすげ変えても、内閣の顔ぶれが変わろうとも、結局、何も変わらないのではないかという失望感の方が大きいのです。それは何故なのでしょうか。

 先日の「朝日新聞」(2011/1/8)で、フランスの人類学者であるエマニュエル・トッドさんのインタビュー記事が掲載されていました。日頃、わたしが漠然と感じていたことが、説得力のある言葉で語られているのを読みまして、やはりそうだったのかと溜飲が下がる思いをしたのです。エマニュエル・トッドさんは、政治に対する民衆の失望は、日本だけではなく、世界の主な民主主義国で起きている、と指摘します。フランスのサルコジ大統領にしても、アメリカのオバマ大統領にしても、人々の期待はとっても大きかったのに、結局、たいしたことができないでいると、民衆に失望されている。このように政治が空回りしてしまう原因は、実は、世界に広がっている経済についての思想にあるのだと、エマニュエル・トッドさんは語っています。

 それは自由貿易こそが問題の解決策だと考えるイデオロギーです。グローバル化が進んだ今の時代に権力を握っているのは、実際のところ政治家たちではなくて、自由貿易という経済思想なのです。

 自由貿易、あるいはグローバリゼーションとは、国と国との垣根が低くなることです。それによって、経済活動だけではなく文化や技術や思想など、さまざまな交流が行われるようになります。あるいは、一国の問題を、さまざまな国が共有し、協力して、解決をはかるということもできるようになります。つまり、人々の暮らしの土俵が広がり、活動の自由が広がるのです。それは、けっして悪いこととは言えません。けれども、見落としてはならないのは、垣根が低くなるということは、囲いが役目を果たさなくなることであり、そこに共同体の締まりというものが崩れていく現象が起こり得るのだ、ということなのです。

 エマニュエル・トッドさんの指摘の面白いところは、ここにあります。グローバリゼーションが進むにつれて、ハイパー個人主義が台頭してきたというのです。それは、社会が、個人というアトムに分解されていく現象です。その結果、国をはじめとする社会や共同体で、人々が何かについていっしょになって行動するということが考えられなくなっている。社会や共同体を否定するような考え方です。

 個人主義が悪いというのではありません。一人一人の命や人生が重んじられることこそ、民主主義の原点です。独裁政治や社会主義国家には、それがありません。けれども、逆に個人主義が進みすぎると(それがハイパー個人主義です)、民主主義の崩壊が起こるのです。エマニュエル・トッドさんは、まだまだ面白い考察をなさっているのですが、本筋から離れてしまうので、この辺でやめておきたいと思います。

 なぜ、このような話をしたかといいますと、今日は境界線のお話しをしたいからです。今のお話しは、境界線を緩やかにすると、生きる土俵が広くなって活動や交流が盛んになり、豊かになると信じられているわけですが、実は、それをさらに推し進めていくと、ひとりひとりが、自分という非常に小さな境界線の中に閉じこもって、社会や他者との関わりに無関心になっていく。そして、世界に対して無関心になり、閉ざされた自分一人の考えや願いに拘泥した、狭くて不自由な生き方になっていく、という逆説的な現象が起こるのです。

 これに対する反動が、今の日本に見受けられるナショナリズムにあるのではないでしょうか。ナショナリズムは、垣根を高くすることです。ナショナリズムの危険も、私たちはよく承知しているのです。垣根は、高すぎてもだめだし、低すぎてもだめなのです。ちょうどいい塩梅でなければいけません。

 ちょっと違う例を挙げましょう。みなさんにも是非、知っておいて頂きたいことですが、実は、日本基督教団は今、由々しき問題で揺れ動いています。それは聖餐式の守り方に関することです。聖餐式は、洗礼式と共に、教会が大事に守ってきた聖礼典です。洗礼を受け、神様と人々の前で信仰を告白したものだけが、この聖餐式に与ることができるのです。ここに洗礼を受けた者と、受けていない者の境界線ができます。今、わたしたちは、同じように礼拝堂に座って礼拝を守っていますが、聖餐式の時には、これに与ることが出来る人と、出来ない人が、はっきりと区別されるのです。つまり、洗礼を受けている人と、受けていない人との間に、線が引かれるのです。

 日本基督教団に起こっている問題とは、この境界線を取り払い、洗礼を受けていない人たちにも聖餐式に与ることをゆるそうとする教会、あるいは実際に取り払って聖餐式を行っている教会があるということです。このような聖餐式を、フリー聖餐といいます。このフリーとは、人間の自由でありまして、神様の自由ではありません。神様の自由ということについては、カインとアベルのお話の時に丁寧にいたしましたから、ここでは繰り返しませんが、神様の自由が無視され、人間の自由だけが主張されるとき、他者を否定する兄弟殺しが行われたということを、わたしたちは忘れてはならないでありましょう。神様がお定めになった境界線というのは、わたしたち人間のために必要があって、神様がお決めになったものなのです。
境界線の喪失
 今日は、なぜ神様は、火でもなく、地震でもなく、飢饉でもなく、疫病でもなく、その他のどんな手段でもなく、大洪水という手段を用いられたのかを、聖書から考えたいと思います。それは、神様がお定めになった境界線と大いに関係があることなのです。『創世記』1章1〜2節にこう記されています。

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 この時の地の状態がどうであったのか、具体的なイメージを描くのは難しいことですが、《混沌》と言う言葉が、すべてを表しているのだろうと思います。つまり、何もかも、見分けがつかないほど、入り乱れた状態であったということです。神様の創造の御業は、無から有をつくり出すこともありますが、それ以上に、この混沌に形を与えることにありました。言い換えれば、混沌のなかに、神様が、境界線を引くということでありました。それによって、神様は無といっていいような混沌を、この美しい秩序をもった世界とされたのです(『箴言』第8章22〜31節)。

 まず、神様は、光と闇を分けること、昼と夜を分けられました。次に、大空の上と下に水を分け、さらに地上の水をひとところに集めて、海と陸を分けられました。『創世記』1章6〜10節を読んでみます。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

 こうして、空、海、陸という境界線が神様によって引かれ、生き物が生きる領域が確保されたのです。

 しかし、『創世記』7章11節にはこう記されています。

 ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。

 つまり、大洪水は、神様が定められた境界線が取り消されることによって、引きおこされるのです。

 これについてお話しする前に、もう少し聖書から境界線の意味を考え続けたいと思います。『創世記』2章になりますと、神様はエデンの園を設けられ、そこに人間を住まわせられたとあります。これもひとつの境界線です。この境界線の中で、人間が暮らすように定められたわけです(参考『民数記』第34章12節)。エデンの園の中にも、踏み越えてはならない重要な境界線がありました。それは園の中央にある善悪の知識の実から食べてはならない、という戒めであります。『創世記』2章15〜17節を読んでみます。

 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 すでにお話ししたところですから、細かいことは省きますが、これは神様と人間との境界線なのです(参考『出エジプト記』第19章12節)。このように、神様は、この世界の中に、人間の住む領域としてエデンの園をつくり、自然と人間の境界線をつくり、また禁断の木の実を置かれることによって、人間が踏み越えてはいけない神様と人間との境界線を引かれ、人間の生きる領域というものを、きちんとお定めになったのです。

 そういう観点からしますと、人間の罪とは何か、罪に対する神の裁きとは何かということも見えてきます。罪とは、神様の定められた境界線を踏み越えるにあるのです。そして、裁きとは、神様の定められた境界線から、追放されることにあるのです。

 境界線を踏み越えること、またそれを失うことは、自由ではありません。むしろ、人間は、そこで孤立や孤独を経験するのです。たとえば男と女は、もともと一体となることができたのに、互いに自分を隠すようになってしまいました。自然は、人間に対してもともと恵み深いものであったのに、労働の苦しみを与えるものになってしまいました。兄弟は同じ親から生まれた者であるのに、互いに押しのけようとする者になってしまいました。民主主義の空回り、フリー聖餐式の問題も、その延長線上にあるのではないかと、わたしは思うのです。

 さて、大洪水について記されたみ言葉を改めて読んでみましょう。10-11節

 七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。

 神様は、天の窓を開き、大いなる深淵に閉じ込めておかれた水を放出させて、大洪水を引きおこされました。12節には、《雨が四十日四十夜地上に降り続いた》とあります。19-20節には、《水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた。水は勢いを増して更にその上十五アンマに達し、山々を覆った。》ともあります。洪水とは、境界線の破壊なのです。天の水が、際限なく地上に降り注ぎ、海や河などの水の領域と、乾いた陸地の境界線もなくなってしまう。そして、それは、生き物が生きる場所を失うこと、死を意味していました。21〜22節を読んでみましょう。

 地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。

 洪水によって、肉なるもののすべて、命の息と霊のあるもののすべてが死んだということは、逆に言えば、神様が定めてくださった境界線に守られた場所においてしか、命は生きていくことができないことを、意味しています。エデンの園を追い出されたということだけでも、人間は生きづらくなってしまったのですが、それでもまだ生き延びてきた。それは、神様の設けられた境界線によって、なお守られていたということです。しかし、ひとたび神様が、もっと根源的な境界線を取り除かれてしまえば、ひとたまりもなく息絶えてしまうのが人間なのです。

箱船
 私たちはさまざまな境界線に囲まれて生きています。人間と神様の間に、境界線があります。人間と動物と間にも、境界線があります。男と女の間に、境界線があります。あるいは私たちひとりひとりの人生をみても、さまざまな境界線、限界、あるいは定めというものがあります。すべては神様がお与えくださった境界線です。それは、私たちの生の領域を形作るものなのです。言い換えれば、私たちの生を守る愛の囲いなのです。私たちは、それを勝手に動かしたり、踏み越えたりして生きていくことはできません(『申命記』第19章4節、第27章17節)。境界線を取り去れば、自由になるのではなく、ひとりひとりがアトム化し、混沌にもどってしまうのです。

 もちろん、神様ご自身が、それを広げてくださることはありますし、境界線のなかに閉じこもっていればいいということでもありません。イエス様が説かれた愛は、しばしば境界線を越えていくことを求めるものでした。しかし、境界線を定められた神への畏れをもたずして、人間には無限の可能性があると信じることは間違いなのです。

 詩編74編16b〜17節にこのようなみ言葉があります。

 昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごく定められました。夏も冬を作られたのもあなたです。

 昼と夜、夏と冬、そして地の境。神様は境界線を引かれ、さまざまなものをお造りになりました。私たちは、昼がいいと思っても、夜の囲いの中にいるかもしれません。夏がいいと思っても、冬の囲いの中にいるかもしれません。それならば、それが、私たちの生きる領域として、神様が与えられた場所なのではありませんでしょうか。昼も夜も、夏も冬も、すべては神様がお造りになりました。神様のものです。どちらがいい場所、良い季節ということではありません。どちらにも、神様がおられるのです。

 それなのに、わたしたちがあっちがいい、こっちがいいと、神様の境界線を越えて生きようとする。それが問題なのです。大切なことは、神様が定められた境界線によって私たちは守られているということを知ることではないでしょうか。そして、そのなかで神様の恵みに生きることなのです。

 箱船はそのことを物語っています。つまり、箱船という囲いの中にいたものだけが、大洪水から守られ生き延びるのです。次回は、この箱船についてお話しをしたいと思います。
目次

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