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大洪水が、次第に治まっていく様子が、『創世記』第8章1〜14節に、とても丁寧に記されています。先週は、そのなかで、ノアが、一週間ごとに鳩を飛ばし、洪水が引いていく様子を探った話をしました。これは、救いの日を待ち望むノアの祈りの姿でした。
今日は、それと前後するような形になりますが、1節について少しお話しをしたいと思います。
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。
神様が、《地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。》と語られていることに、注目したいと思います。《風》という言葉は、聖書のなかで、しばしば重要な意味をもって語れています。たとえば、『創世記』第1章2節に、こう記されています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
《霊》と訳されている言葉は、「ルーアハ」というヘブライ語です。「霊」、「風」、「息」という意味をもちます。ルーアハを「風」と訳せば、上記の御言葉は「暴風が水の面を吹き荒れていた」と訳すこともできます。
ルーアハは、肉なる人間が内に持つ風、つまり「息」でもあり、「霊」でもあります(『創世記』第6章3節)。また、ルーアハは、神様がエデンの園を歩んでいる時に吹いていた「そよ風」でもあります。エジプト軍に追い詰められ、紅海の前で立ち往生するイスラエルの民を救うため、海を二つに分けて道を作った「東風」でもあります。さらにまた、イスラエルの民が肉を食べたいと荒れ野で騒ぎ出したとき、風にのってうずらの群れがイスラエルのキャンプに飛んできたとありますが、このうずらを運んだ「風」でもありました(『民数記』第11章31節)。サムソンを強くし、ライオンをずたずたに引き裂かせた「主の霊」も、ルーアハでありました。神様が地上を歩まれるとき、ルーアハが吹きます。
このように神様が人間に命を与え、恵みを与え、救いの手を差し伸べられるとき、ルーアハが吹きます。このルーアハが、大洪水の上に吹きはじめることによって、水が減り始めたというのです。
大洪水は、神様が、この世界を見放すことによって、引きおこされました。神様に見放された世界は、自らを維持する秩序を失い、大洪を引き起こし、創造以前の無秩序状態、つまりカオスに陥ってしまいました。それは、神なき望みなき世界と言ってもいいと思います。しかし、この見捨てられた、神なき望みなき世界、無秩序な世界に対して、神様は、なお神であり続けられる。カオスの外側に立ち、これに対する決定権を持たれる方として、神様は、神として居続けておられるのです。それゆえ、神様がルーアハを送り込まれると、ただちに、大洪水は終息に向い、水が引き始めたわけです。
これは素晴らしい福音です。この世界が、あるいは私たちの人生が、いかに神様に背き、愚かな道を歩み、混迷を極め、何の望みも持ち得なくなり、もうおしまいだ、と言わざるを得ないような時にも、それがおしまいであるかどうかはまだ分からない。それを決めるのは、私たちではない。神様に決定権があるのです。
ですから、エレミヤは、神の手に打たれ、廃墟となったエルサレム、打ち壊された神殿を見たときにも、こう言いました。
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。(『哀歌』第3章29節)
《塵に口をつける》とは、神様を仰ぐことすらもできないで打ち伏す姿であります。神様に助けを求める資格すら持ち得ないで、自分を見つめつつ、しかし、「もうおしまいだ」とか、「死んだ方がましだ」とか、そのように自ら結論することも留保して、神様の御手にすべてをお委ねする姿です。そうすれば、《望みが見いだせるかもしれない。》とは、たいへん控え目な言い方ではありますが、はっきり言えば望みがあるということです。まったく望みがない状態において、万が一にも望みがあるかもしれないと思えることは、すでに大きな希望を持つことなのです。
私たちは、このような希望を持つ前に、すぐに絶望してしまうということが問題です。「神も仏もあるものか」と言いたくなる理不尽な現実の前で、絶望してしまう。取り返しのつかない自らの罪の現実の前で、絶望してしまう。絶望することが、私たちの現実から神様を閉め出しているのです。
もし神様を神とするならば、どのような絶望のなかでも絶望しないこと、そして神様のなさることに運命を委ねるべきです。それが、私たちの希望となります。なぜならば、神様は大洪水の上にルーアハを吹かせられる御方、背水の陣に追い詰められたイスラエルの背後にルーアハを吹かせ、海の中にも道を備え給う御方だからです。神様は見捨てられた者、絶望する者にも、神でおられるのです。
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水は、一気に引いたわけではありません。洪水の勢いは、150日の間衰えなかったのですが、これが引いていくのには、それ以上の日数がかかっています。しかし、どんなに日数がかかろうとも、その変化が、人の目に見えないようなものであったとしても、神様の御業は必ず前進していきます。
このことについて、わたしがよく思い起こすのは、イエス様の「成長する種のたとえ」です。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(『マルコによる福音書』第4章26〜29節)
《まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる》とあります。このような順序を経て成長し、最後に熟した実を収穫できるようになります。神様の救いの御業も、このような順序を経て進められていくと、イエス様はおっしゃったのでした。
植物の成長は、芽を出すにしろ、花を咲かせるにしろ、果実を実らせるにしろ、じっと見つめてもその変化が認められないほど、ゆっくりしています。けれども、ある時間をおいてみると、確かに背丈が伸びていたり、花が開いていたり、実が熟していたりするのです。神様のなさることも、これによく似ています。じっと見ていても見えてこなかったことが、ある時間が経ってみると、確かに変化していると気づくことがあるのです。
たとえば、洗礼を受けたからといって、急に人間が変わるわけではありません。しかし、一年、二年と時を経て振り返ってみますと、確かに信仰によって成長している。《夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する》、これが神様の御業なのです。ノアが鳩を放ったのは、毎日ではなく、一週間ごとであったのも、そのような意味が隠されているかもしれません。
さて、こうしてノアが祈りつつ待つ間に、水は次第に減り始め、ついに地の上が乾いたと記されています。13〜14節です。
ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
《地上の水は乾いた》、《地の面は乾いていた》、《地はすっかり乾いた》と、繰り返されているのが、印象的です。ありとあるものを呑みこむ大洪水を経験したものにとって、地が再び乾くなどということは、望むべくもないように思えたのではないでしょうか。しかし、ノアの前に再び乾いた地が表れたのです。その驚き、感動が伝わってくるみ言葉です。
もう少し丁寧に読んでみますと、《最初の月の一日に、地上の水は乾いた》とあります。しかし、水は引いたものの、地面はぬかるみで、とても外に出られるような状態ではなかったのでありましょう。それから約二ヶ月が経ち、《第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた》のです。そこで、ようやく、地面の上に降り立ち、再び大地を踏みしめることができるようになったのでした。ノア、じっと耐えて待ち望んできた日が、いよいよ来たのです。
けれども実情はどうだったのでしょうか。一年におよぶ大洪水が引いたあとの大地は、確かに乾いていたかもしれませんが、大洪水の前とはまったく違う様相を見せていたに違いありません。ノアが見た大地は、土石流の後のように荒れ果て、傷つき、石や流木が散らかり、見るも無惨な姿を、呈していたのではありませんでしょうか。聖書には一言も触れていないことですが、それは、とても新天新地というようなものではなかったに違いないのです。
ノアが自ら箱船から出ようとしなかったのは、もしかしたら、そういう事情があったからかもしれません。箱船は狭く、決して居心地のよいものではなかったでありましょう。しかし、それは大洪水から身をまもってくれた避け所でもありました。一年もそこにいれば、それなりの生活の方法を学んでおり、小さな平和がそこにありました。それに対して、箱船の外に広がる大地は、どう手をつけていいか分からないほどの荒れ地です。神様は、躊躇する者を励ますかのように、ノアに語り、命じられます。
神はノアに仰せになった。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
箱船から出ることを躊躇する、ノアの気持ちを、分からないでもありません。家から、職場や学校に行くことに、気持ちの困難を覚える人がいるでしょう。逆に職場や学校から、家に帰ることに気持ちの困難を覚える人がいるでしょう。私たちはたとえ小さくても、いろいろな不便さがあったとしても、自分の居心地の良い場所の方が安心ですし、できればそこに留まっていたいという気持ちがあるのです。
箱舟は、み言葉による守りだとお話しをしたことがあります。私たちは、み言葉のうちに居れば、安心なのです。教会は、そういう意味でひとつの安心の場所です。もちろん、教会とて天国ではありません。人間の愚かさや、罪深さによって、あちこちに軋みが生じることでありましょう。しかし、最後には、み言葉が重んじられ、み言葉によって互いに許し合い、励まし合うことができるのが、教会です。教会に来ているとき、私たちの信仰が奮い立ちます。神様への感謝や讃美を思い起こすことができます。
しかし、そこから、外の世界に出るとどうでしょうか。家庭も、職場も、学校も、地域社会も、そこは、み言葉に逆らう多くの人間の言葉や思いが支配する場所です。そのなかにあって、なおみ言葉の守りの中に留まり続け、神様を讃美し、感謝し、祈りをもって過ごすことは、やはり難しいのです。しばしば誘惑に負け、信仰の道を離れ、自分の愚かさのままに歩み、失敗と敗北感に打ちのめされてしまう。そんなことを繰り返しではないでしょうか。
しかし、神様はノアに言われました。箱舟を出なさい。世に出て行きなさい。洪水で傷つき、荒れ果てた大地を歩みなさい。ノアは、み言葉のとおりにしました。
そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。
ノアは、決して天国ではない世界に出ていきました。その荒れ果てて傷ついた、まるで残骸のような大地は、洪水以前にもまして、大いなる神様の恵みと祝福が約束された大地となるものでありました。それが9章に記されています。しかし、この時、それはノアの知る由もないことでありました。ノアは、ただみ言葉であるがゆえに、それに従ったのです。 |
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聖書 新共同訳:
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