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前回は、大洪水の終息についてお話ししました。箱舟に乗って大洪水を生き延びたノアとその家族、また動物たちは、一年ぶりに、乾いた大地に降り立つことができました。しかし、それは、新天新地と呼びうるような希望に満ちた大地ではありませんでした。一年に及ぶ大洪水は、アダムから1500年にわたって営々と営まれてきた人間の歴史を泡と化し、緑豊かで活き活きとした命の躍動する大地をすっかり死の世界にしまったのです。そのように見渡す限り荒れ果て、生き物たちの屍もそこかしこに転がっているような死の大地に、ノアたちは降り立ったのです。
「降り立つ」ではなく「放り出された」という言葉の方が、ノアのこのときに置かれている状況を、正確に物語るのではないかとも考えられます。箱舟での生活は、決して楽しいものではなく、窮屈で、不便で、いつも不安の尽きないものであったに違いありません。それでも、箱舟は大洪水からノアたちを守る隠れ家であり、砦でありました。しかし、神様がそこから出なさいと命じられます。ノアの心情として、その神の命令は喜ばしいこと、望ましいことであるというよりは、家を失うこと、路頭に迷うこと、死の世界に放り出されることではなかったかと考えたからです。
それにも関わらず、やはり、ノアは「放り出された」のではなく、自らの意志をもって「降り立った」というのが正しいのです。ノアは、あらゆる恐れや不安を抱きながらも、それ以上に神様のみ言葉に従う意志をもって、箱舟を降り、箱舟を捨て、乾いた大地に踏み出したからです。
これを、長い奴隷生活から解放され、出エジプトを果たしたイスラエルの民と較べてみてもいいかもしれません。彼らは、長くて苦しいエジプトに隷属する生活から自分たちを解放し、救い出してくれた神様とモーセに向かって、こう訴えました。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」(『出エジプト記』第14章11〜12節)
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(『出エジプト記』第16章3節)
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(『出エジプト記』第17章3節)
ノアは、彼らのようなことを一切言いませんでした。ノアは、自分たちを救ってくださった神様の御心と、そこから語られるみ言葉を信じていたのです。
ノアを救ったのは箱舟ではなく、み言葉の守りであるというお話しをしたことがあると思います。箱舟は、船です。船ならば、他にもたくさんあったに違いありません。しかし、ノアの箱舟の他は、すべて神様の起こされた大洪水に耐え得ることはできませんでした。ただノアの箱舟だけが助かったのです。ノアは、み言葉を信じ、み言葉に従って箱舟を作り、それに乗り込みました。大切なのはそのことでした。船のあるなしではなく、み言葉に従うことが、救いとなったのです。
箱舟を出るときも、同じでした。ノアは、み言葉に従い、およそ雨など降りそうもない青空のもとで、陸の上に箱舟を作り、それに乗り込みました。そして、こんどは、み言葉に従い、箱舟を捨て、荒れ果てた大地に、降り立ったのです。ノアは、常にみ言葉のまもりの内に、身を置きます。箱舟に乗るときも、箱舟から降りるときも、ノアの心にあることはひとつです。それは、どんなときにも、「主が与え、主が取り給う。主の御名はほむべきかな」と、神様のなさることを信頼し、天地が滅びても滅びることのないみ言葉の確かさのうちに身を置いて歩むということなのです。
安全とは何でしょうか。この世は危険に満ちています。たとえ、安穏に平和な生活を過ごしている人であっても、それは「知らぬが仏」に過ぎず、実は多くの危険に囲まれているのです。エレミヤは、そのような人々に、「あなたがたたは、平和がないのに、『平和、平和』と言っているに過ぎないのだ」と言い当てました(『エレミヤ書』第6章14節)。そして、「目を見開いて、耳を澄ませて、あなたがを取り囲んでいる危険を直視しなさい」と警告しました。たとえ蔵に食糧を備蓄しても、大きくて堅固な家を建ててそこに住んでも、目を開いて自分を取り囲む危険を直視するならば、そんなもので決して自分たちの安全は保証されないのだ、と分かるのです。
他方、イエス様は、私たちの安全がどこにあるかを、明確な言葉をもって教えて下さいました。『マタイによる福音書』第7章24〜27節に、そのことが書かれています。
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。
み言葉を聞くことなしに、どんなに安全保障を積み重ねても、それでは、いざというときに何の役にも立たない代物に過ぎません。本当の安全保障は、み言葉を信じ、み言葉のうちに身を起き、み言葉に従って生きることにあるのです。み言葉には、いろいろな言葉があるように思いますが、どれをとっても、究極的には福音が語られています。つまり、わたしたちを救うみ言葉、しかもイエス様によって救うみ言葉なのです。
たとえ神様の御心が十分に分からなくても、そこに私たちの救いがあるのだと信じ、み言葉を受け入れて、自分の生き方とすること、それがみ言葉に身を寄せ、身を置いて生きることです。それは、時には大胆さや勇気を必要とすることがありますが、それでもイエス様の十字架の愛、復活の力のうちに望みを持ち、そこに身を寄せて生き続けることが、私たちの唯一の、そして確かな安全保証なのです。
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従って、船から降りたノアが、第一にしたことは、他のいかなることでもなく、神を礼拝するための祭壇を築くことでした。
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
祭壇は、神を神とする場所です。神様が、神として尊ばれ、何にも代えがたいものとされ、受け入れられる場所です。ノアは、洪水の後の荒れ果てた何もない大地に降り立ち、ここに神様が居ますということを信じ、神を神とする場所を築きました。
私たちならば、どうしていたでしょうか。まず食べ物を探し、飲み水を探し、夜露をしのいで寝る場所を探し、明日からどうしようかと思案するのではないでしょうか。私たちの日常生活を考えてみたら分かります。朝、目が覚める。朝の支度をしながら、今日の天気を確かめる。今日の予定を思い浮かべる。一日行動の計画を計算する。あるいは、昨日の出来事を思い出してくよくよしたり、イライラしたりする。いずれにせよ、そこで考え、行動しているのは、神様ではなく自分です。
もしかしたら、私たちは「人事を尽くして天命を待つ」とか、「天は自らを助くる者を助く」という諺に慣れ親しみ過ぎているのかもしれません。そこで教えられているのは、「まず神様に頼る前に、自分でやりなさい。」ということです。しかし、ノアは違いました。自らの問題を自ら考え、行動する前に、まず《主のために祭壇を築いた》のでした。
もう一度、先ほどのイエス様の教えに耳を傾けてみましょう。イエス様は、土台についてお話しをされました。み言葉に身を寄せて、み言葉のうちに自分を守ろうとする者は、岩を土台として家を建てる者であり、み言葉によらないで家を建てる者は、砂の上に家を建てる者である、と教えられています。建った家は、同じようであったとしても、あるいはみ言葉によらない家の方がずっと大きく立派に見えたとしても、いざという時にその違いが出るのです。
み言葉に基礎を置く人生は、《雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。》と言われます。それに対して、み言葉の土台を持たない人生は、《雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。》と言われるのです。自ら考え、行動を起こす前に、まず主のために祭壇を築くということは、私たちの一日に、私たちの人生に、もっとも大事な基礎を築くことなのです。
「苦しい時の神頼み」が、悪いことだとは申しません。しかし、信仰生活とは、苦しい時にだけ神様を呼び出して、神に助けてもらうという、せせこましい生活ではないのです。信仰生活は、苦しい時も、そうでない時も、私たちの人生の基礎を、望みを、神様への信仰に置くということです。ノアは、洪水の前も生活においても、箱舟の中でも、箱舟から降りて荒れ果てた大地に降り立ったときも、それをしてきたのです。
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ノアは主のために祭壇を築き、家畜と鳥のうちから取った動物を、焼き尽くす献げ物としました。このように、家畜とはいえ、動物のいのちを殺し、神様に献げるということが、ノアの礼拝であり、またイエス様の時代まで続くイスラエルの礼拝の基本形でした。
動物は、神様が人間の友としてお造りになった生き物です。その動物を殺して神様に献げることが、どうして礼拝なのかという疑問を持つ方は多いと思います。わたしも、同じです。しかし、逆に、動物が、人間の大切な友であるからこそ、それを神様に献げることに意味があるのではないでしょうか。
動物を殺して献げるとは、心に痛みを覚えことです。現代人は、スーパーで売っている肉が、もともと生きた動物であったとことを忘れているところがありますから、ピンとこないかもしれませんが、口蹄疫とか鳥インフルエンザでたくさんの家畜が殺処分されるニュースを見たりしますと、やはり胸が痛みます。まして、そのような動物と一緒に生活をしている家畜農家の人たちの心は、いかばかりでありましょうか。
ノアもそうです。一緒に箱舟にのって、未曾有の大洪水を乗り切った仲間でもある動物を殺すことは、決して簡単なことではありません。しかし、ノアは、他の仕方では、神様に、自分の思いを伝えることができない、と考えたのです。
神様は、大洪水をもって、御自分が作られた人間や動物たちを滅ぼされました。それと同時に、箱舟をもって、ノアとその家族、そして最小限の動物たちをお救いになりました。なぜ、神様は、大洪水をもってすべてを滅ぼすという激しい行動に出られたのか? なぜ、神様はその中から自分たちを救われたのだろうか? ノアはそのようなことを考え、慈愛と峻厳が激しく交錯する神様の苦しみを感じとっていたに違いありません。ノアは自分を生かしてくださった神様の御旨を受けとめつつも、自分を神様に献げる方法として、友である動物の命を神様に献げたのではないでしょうか。
ノアが献げたいけにえについては、わたしは今これ以上を語ることができません。ただ、使徒パウロは、礼拝とは何かということについて、こう語っています。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(『ローマの信徒への手紙』第12章1節)
動物を献げるにしろ、献金を献げるにしろ、信仰の告白や讃美を献げるにしろ、それは自分を献げるということを意味しなければなりません。自分を献げることによって、わたしたちの中に、神様が生き給う場所が備えられ、神を神として生きる生活が始まるのです。それこそが、わたしたちの礼拝です。 |
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