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大洪水は終息しました。しかし、一年にも及ぶ洪水は、ありとある生き物を死滅させ、緑豊かな大地をまったく傷ついた荒れ野にしてしまいました。箱舟から出たノアたちは、この残骸のような大地に降り立ちます。彼らは、神様の憐れみによって、箱船に乗り、大洪水による死滅から、九死に一生を得たのですから、それを救いと呼ぶこともできます。しかし、間違ってはなりません。箱舟は、彼らを楽園に連れて行ってくれたわけではなかったのです。
私たちの場合は、どうでしょうか? 神様の憐れみを受けて、信仰を与えられ、神様に立ち帰ることができた。しかし、そこに待ち受けていたものは、決して楽園の生活ではありません。この世の厳しい荒れ野です。病気になったり、仕事に失敗したり、家族関係がこじれたり、愛する者と死別したり、目の前が真っ暗になるような苦しみや悲しみが襲いかかってくる。清い生活、正しい生活を求めても、自分の弱さに敗北ばかりしてしまう。洗礼を受ければ、楽園の生活が始まると期待していたとしたら、わたしたちは、エジプトの苦役から解放されたイスラエルの民と同じことを、神様に繰り返す可能性があります。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。わたしも子供たちも、家畜までも飢えと渇きで殺すためですか。」(『出エジプト記』第14章11〜12節、16章3節、17章3節)
いったい救いとは何でしょうか? クリスチャンになっても、人生の荒れ野は延々と続きます。箱舟から降りたノアたちが見た荒れ野と同じです。しかし、ノアは、その見渡す限りの荒れ野に降り立ったとき、まず主のために祭壇を築いたと、聖書は記すのです。
ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
わたしが疑問に思うのは、「ノアは、箱舟によって救ってくださった神様に感謝の礼拝をしたのだ。」という話です。それが間違いだとはいいませんが、いま申し上げたようなことから考えますと、これは決して単純な感謝の礼拝ではありません。「何のために、神様は私たちを箱舟でお救いになったのか。こんな死の大地に放り出すためなのか。わたしたちをここで飢え死にさせるためなのか」そのような神様への疑念や絶望が、ノアの心に一分も入り込む余地がなかった、と言い切るのは難しいのです。
それにも関わらず、ノアは、まず主のために祭壇を築きました。これからどうするか、というような心配や絶望感を、脇においやって、神を神として崇めたのです。義人ヨブが死を願うほどの痛痒を経験しながら、神を神とする信仰に立ったのと同じです。神の義、恵み、愛が何一つ期待しえないような時と場所において、ノアは、神を神として崇めるために祭壇を築いたのです。
ノアは主のために祭壇を築いた。
ここで、イエス様の十字架を思い起こすことには、大いに意味があります。ゲツセマネの祈りで、イエス様は苦しみ悶えながら、《父よ、御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください》(『ルカによる福音書』第22章42節)と祈られました。《この杯》とは、十字架のことです。イエス様は十字架にかかりたくないと願われるのです。しかし、そのような切なる願いを脇におきやって、《しかし、わたしの願いではなく》と神を神とする信仰をもって自分を献げ、《御心のままに行ってください》と祈られたのでした。こうして、イエス様はご自身を神様に捧げられました。
十字架におかかりになったイエス様は、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》(『マタイによる福音書』第27章46節)と祈られました。神に見捨てられたという言葉が出てくるほど、神の義、恵み、愛が何一つ見えなくなってしまった状況のなかで、イエス様はなおも《わが神、わが神》と呼びかけておられる。ここに、神を神とするために自分を献げた祭壇があるのです。
十字架は祭壇なのです。そして、祭壇とは十字架なのです。生きていくために様々な祝福を願うのは当然のことです。しかし、それを犠牲にしなくてはならない時にも、なお神を神と崇めて、神様の栄光を信じる。そこに十字架があり、祭壇があります。
それならば、わたしたちは、自分を犠牲にするばかりで、自分を救うことは適わないのでしょうか? イエス様は、《わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。》(『ルカによる福音書』第9章23〜24節)と言われました。ここには、自分を捨てることが、自分を得ることになるという逆説があります。自分を大切にすること、自分らしく生きること、生きることの喜び、そういうことを求めるならば、かえってそれを捨てて、神があなたに与え給うものを受け取りなさい、ということなのです。自分を捨てる十字架において命を受け取るのです。自分を献げる祭壇において、神に祝福されるのです。わたしたちはそこで自分を守ろうとしてしまう。だから、神からの命に生きることができないのです。
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このようなノアの礼拝を受けて、神様は、「もう二度と大洪水を起こすまい」と決心されたということが、書かれています。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」
《宥めの香り》という言葉が出て来ます。ノアが献げたのは、焼き尽くす献げ物です。これは、動物を丸ごと祭壇の上で焼いたということです。その匂いをかいで、神様の心が和んだのです。
動物を丸ごと焼くと、そんなにいい香りがするものでしょうか? 好みにもよるのでしょうが、少なくともそんなに上品な香りがするわけではありません。ここでは、肉の焼ける匂いがどんなものであれ、そんなものでも神様が喜んで受けて下さった、と言われているのではないでしょうか。
十字架、つまり自分を献げることが、神を神とするまことの祭壇であると申し上げたのですが、正直な話、私たちは神様に献げられるような立派な自分を持っていません。パウロでさえ、自分自身についてこう告白しています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(『ローマの信徒への手紙』第7章15〜25節より)
パウロですら、自分をこのようなものとしてしか考えられなかったのです。まして、私たちは何をいわんやであります。私たちは、本当に神様を喜ばせる信仰者になりえるのか? 罪を犯さないで生きられるのか? そのようなものとして自分を生まれ変わらせることができるのか? 答えは、否です。
神様ご自身が、わたしたちのそのような至らなさを、よくご存知なのです。神様は、ノアの祭壇から届く香りをかぎながら、人間にもまだ期待ができるなどと楽観的なことはおっしゃいませんでした。《人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。》と言われたのです。ノアのような信仰者が、たとえ自分自身を献げたとしても、神様はそのようにおっしゃるのです。
それにもかからず、神様はノアの献げ物をよろこんで下さった。それは、ひとえに神様の憐れみによるものです。人間のうちに何かよいものがあってのことではありません。私たちの信仰、祈り、礼拝、奉仕が、どんなに不完全で貧しいものであっても、神様は喜びとしてくださり、私たちと、またこの世界と共にいようとしてくださるのです。それが、《人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。》という神様の内なる言葉の中にあることなのです。
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これは、決して当たり前のことではありませんでした。もっとはっきり言えば、神様が変わったのです。実は、この大洪水の物語が一番に伝えたいことは、そこにあります。
《人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。》と、神様はおっしゃっておられますが、それは大洪水が起こる前もそうでありました。神様は、人間が心に思い計ることは、いつも悪いことばかりだということをご覧になって、そのことのゆえに、大洪水を起こすことを決意されたのです(第6章5〜7節)。その時、神様は心を痛めつつ、この大決心をなさったとも記されています。
神様は、アダムとエバを楽園から追放しても、なお人間のための祝福を残しておられました。カインとアベルの事件が起こっても、神様はアダムとエバにセトをお与えになり、祝福をつないでくださいました。こうして、アダムから1500年にわたって、神様は天の父として、恵みをもって人間と、そしてこの世界と、共にあろうとし続けてくださったのです。それほどの愛の神様が、ノアの時代になりまして、「もうダメだ」と絶望なさったのです。神様の責任放棄ではなく、それほど人間というのは神様を悩ませるばかりのことをしてきたということです。
そして、神様は大洪水をもって、御自分がお造りになった人間を、地上の生き物もろとも、大洪水で滅ぼしてしまうことにされたのでした。神様の胸が痛まないわけがありません。それは自分の子供を自らの手で殺す父親のような絶望的な心境なのです。そのような時、父親は自らも死ぬでありましょう。神様が死ぬかどうかは別にして、神様の心がどんなに真っ暗であったか、痛みと悲しみに満ちていたかということを、私たちは想像しなければなりません。
しかし、大洪水の後、神様は《人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。》と、まったく同じ理由をもって、《人に対して大地を呪うことは二度とすまい。》と、心に誓われたのでした。人間は大洪水の前も、後も、ちっとも変わらないのです。悲しいほど変わりません。今の世のなかが、洪水前の世のなかよりましであるなどとは誰も言えないのです。ところが、神様が変わったのです。大洪水の前と後で、神様は180度変わります。
なぜ、変わったのでしょうか。ノアの献げ物を受けて、気が変わった。そんなことではないのは確かです。こういうこう考え方もあります。最初、神様は人間に対して期待しすぎていた。だから、絶望も大きかった。だけど、神様は人間に対して所詮こんなものだという悟りを開いた。だから、人間の罪に目くじらを立てることもなくなった。そうでしょうか? 聖書を読み進めれば分かりますが、神様は人間の罪に対して変わることのない悲しみを持ち続けておられます。それだけ人間に真剣に向き合ってくださっているからです。
結局、神様がなぜ変わったのか、神様に何があったのか、そのことについて詮索することは、わたしたちにはできません。神様のうちに、最初の絶望を克服するための大きな戦いがあったのだろう、神様がご自身のうちの何か大きなものを犠牲になさったのだろう、と推察するぐらいのものです。
確かなことは、神様が変わったという事実です。理由は分かりませんが、人間の罪のゆえにこれを滅ぼそうとされた神様は、人間の罪にもかかわらず共にあろうとする神様に変わられたのです。もう二度とこのような洪水は起こさない、人間の罪のゆえに父なる神であることをやめたりしない、どんなときもわたしは人間を造り、この世界を作った父なる神様でありつづけると言ってくださったのです。
私たちの救いの根拠は、この神様の変化にこそあります。私たちが心を入れ替えることによって、私たちが生まれ変わることによって、私たちが立派になることによって、救われるのではありません。そもそも人間は変われないのです。だけど、神様が限りのない忍耐と寛容をもって、わたしたちと共にいてくださる。わたしたちの父であり続けてくださる。それは《二度とすまい》と言われているように、撤回されることのない神様の御心なのです。
このことを信じ、私たちの罪深く、愚かしい生活でさえも、神様への献げ物として、祭壇を築いてまいりたいと思います。
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聖書 新共同訳:
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