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神様は、「人間の心にあることは、常に悪いことばかりだ」と、人間に絶望なさって、大洪水引きおこされました。大洪水とは何かと問えば、それは神様が造り、保持されてきた世界を、再び天地創造以前のカオスの状態に、すなわち混沌と深い暗闇と原始の水だけが覆う世界に(『創世記』第1章2節)、引き戻されることでありました。本来ならば、この大洪水によって天地創造の御業は終わっていたし、その後の世界はなかったはずなのです。もちろん、こうして神様の御心を思い、この礼拝を捧げている私たちの存在もなかったということです。
しかし、今、現にわたしたちがこうして存在しており、命を育む緑豊かな地球が保たれており、人間の歴史が断絶することなく繋がれてきています。それは、決して当たり前のことではなく、そこには、この世界を維持しようとする神様の並々ならぬ決断があったからである、それを伝えるのがこの大洪水の物語です。
神様の決断、それはノアの選びから始まっていました。ノアを救えば、そこから再び罪深き人類の歴史が始まるのは必至です。そして、現にそうなっています。そのことを、神様を知らなかったのではありません。ノアの子孫たちが、ふたたびこの世界を罪の世界にしてしまうことは十分にしっておられました。では、なぜ神様は(妙な言い方ではありますが)仏心を起こして、ノアに箱舟を作れとお命じになったのでしょうか。
これについては、わたしは少々大胆な解釈をしています。神様がノアを救ったのではなく、ノアが神様を救ったのです。もちろん、神様が、ノアを救ったというのは、間違いではありません。神様は、血も涙もないような冷血な決断をもって、大洪水を引き起こされたのではありません。神様が父の愛をもってお造りになった人間とこの世界です。それを大洪水をもって滅ぼそうと決断するのは、神様の天の父としての愛が引き裂かれるような悲壮な思いがあったに違いありません。なんとかこれを回避できないかと、忍耐に忍耐を重ね、人の道を導こうとされてきただろうと思うのです。しかし、人間の罪は、もはやどうにもならないところまで来てしまった。だからこそ、ノアを見つけて、「ああ、よかった! ノアがいた!」と、ノアの存在に心慰められたのではないでしょうか。ノアが、神様を救ったとはそういうことです。
このような解釈は、少々、神様が人間臭くなってしまっていると懸念を抱かれる方もあるかもしれません。まったくその通りなのですが、逆に、わたしは、このような神様の葛藤にこそ、神様らしい一面をみるのです。
人間は、どんなに多くの恵みを受けていても、一つの不満があるとすべてを不満に感じてしまう。まだ可能性が残されていたとしても、いったん絶望するとすべての扉が閉ざされていると思えてしまう。このように、人間は、負のエネルギーに引きづられてしまいます。しかし、神様は違います。神様は、諦めません。最後まで望み続け、待ち続け、信じ続けようとされます。それが、神様の愛なのです。
たとえばホセア書11章には、神様が手塩にかけて導かれてきたイスラエルの頑なさを告発し、「もうお前たちを見放し、敵の手に引き渡し、滅ぼす」と厳しい裁きを下されるところがあります。しかし、そう言ったすぐ後で、神様は「ああ、でも、やっぱり、わたしにお前たちを見捨てることができない」と、怒りと愛の間を揺れ動かれます。そして、神様の愛が、激しい怒りの炎を飲み込んで、「わたしは怒りをもって、お前たちに臨むことはできない」と言われるのです。誰よりも悪を憎みながら、悪に過ぎないものを、なお惜しみ、そのままの姿で受け入れようとなさる。神様というのは、こういう御方なのです。
これは、人間の心にはないことで、私たちの常識や理解を超えていると言ってもいいでしょう。それを「なぜか」と問われても、「神様だからだ」としか答えることができないことなのです。わたしたちに出来ることは、答えを探すことではなく、そのような御方として神様を知るということだけなのです。
そして、神様は、大洪水を終息させた後、ノアが献げる礼拝を受けて、心を宥められたと記されています。ノアとて人の子でありますから、決して完全なものではないことを、神様がご存知でいらっしゃいます。そして、ノアの子孫たちが、この地上に満ちるとき、やはり洪水前と同じような状況が訪れることを、神様は十分に予測しておられます。それにも関わらず、神様は「ノアを救って良かったなあ」と思われた。それが、第8章21節以下に記されている神様の言葉です。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」
神様は、ノアとその子孫に対して、少しも楽観をしておられません。これで人間は生まれ変わるのだ、これからは正しい人間の世界が来るのだなどと思っていません。洪水の恐怖によっても、その中をお救い下さった神の恵みによっても、ましてや人間が持ち得る知識や意志の力などによって、人間は変わらないということを、神様はご存知でいらっしゃいます。
けれども、神様は、ご自身の思いを一新されました。人間は常に悪いという現実を見て、これを洪水で滅ぼそうとされた神様は、人間は常に悪いという現実にも関わらず、これをけっして滅ぼし尽くすようなことはしないという神様に変わられたのでした。
それだけではありません。9章1節には、こう記されています。
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(『創世記』第9章1節)
なんということでありましょうか。人間はどんなにしても変わらない。そういうものだと思って諦めようという話なら、分からないでもありません。しかし、《産めよ、増えよ、地に満ちよ》と祝福されたというのであります。《人が心に思うことは幼いときから悪いのだ》とおっしゃっておきながら、《わたしは、この度したように生き物をことごく打つことは、二度とすまい》と心に誓われ、それだけではなく最初に天地が完成された時と同じように、《産めよ、増えよ、地に満ちよ》という言葉をもって、ノアとその子孫を祝福される。ほんとうに、神様の人間に対する思いというのは測り知れません。測り知れませんけれども、私たちはこのような神様のお心のなかに存在し、支えられ、生かされているのです。
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そして、その思いを決して翻ることがないものとされるために、神様は、それを契約という形で、人間への約束とされました。この契約は、私たちが考えるような普通の契約とは少し違います。本来、契約はお互いの利益を目的とする約束です。そのために、わたしはこれをするから、あなたはこれをしなさいという交換条件があるのです。そして、どちらかが、その約束を破り、相手に不利益を与えれば、その担保として罰則もあります。
しかし、神様が人間と結ばれた契約は、そうでありませんでした。それは、一方的な、神様からの贈り物であったのです。たとえ人間の側に何も期待するものがなくても、この約束を果たすとおっしゃってくださった。これが、神様の契約です。
そのことが一番よく表れているのが、虹が契約のしるしとして人間に与えられる場面です。間にある契約の内容をすっかり飛ばすことになりますが、12節以下を、もう一度読んでみたいと思います。
更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
虹は、太陽光線が空気中の水滴によって屈折せられてできる自然現象です。私たちは、その虹をみる度に、大洪水のあったことを思い起こし、それにも関わらず、その後に私たちに贈られた神様の約束を思い起こすことができるのです。しかし、正確には、神様はこうおっしゃったのでした。
雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。
《わたしはそれを見て》とあります。神様が虹をご覧になるのです。そして、その度に、わたしたちに対して約束してくださった《永遠の契約に心を留める。》と言われるのです。
わたしは、先ほどの《産めよ、増えよ、地に満ちよ》という神様の祝福にも本当に驚かされるのですが、神様が虹を見るたびに、御自分が語られたみ言葉を心に留めてくださるということにも、本当に驚かされます。
わたしたち人間は、たとえ虹をみても、神様のみ言葉を思い出すことを、忘れるかもしれません。思い出したところで、御言葉が絵空事のように思えて、絶望の淵に沈むかもしれません。たとえそうであったとしても、虹は、神様に、契約のことを思い起こさせ、神様は決してわたしたち人間に対して誓われたことをお忘れにならないのだというのです。「わたしは自分の言葉を忘れたりしないから、わたしを信じなさい」とだけ言えば良いはずの神様が、そこまでおっしゃってくださるのです。それほど純粋に、神様は世界者の破壊者には二度となるまい、必ず恵みの神であらむと、御心に定めておられるのです。
聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。古い契約、新しい契約という意味でありますが、どちらも神の贈り物である神様の約束について語られています。大洪水が起こるまで、神様は天地創造の父なる神でおられましたが、この洪水の以後、神様は単に父なる御方としてではなく、永遠の契約によって人間を、この世界をお守りくださる神様となられるのです。逆に言えば、わたしたちは神様を造り主として仰ぐことはもちろんですが、それ以上に契約の主として仰ぎ、その神様の約束のなかで、守られ、生かされ、導かれていくのです。
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聖書 新共同訳:
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