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今日は、大洪水のあとで、神様が人間に肉食を許可されたということについてお話しをしたいと思います。このことは、単に肉食の話に留まりません。人間と動物との共生関係、ひいては命とは誰のものかということについて考えさせられる問題なのです。そして、さらには、肉食を許可し給う神様の御心を推し量っていきますと、人間の罪とイエス様の十字架による贖いにまで考えが及ぶことでもあります。
まず、天地創造の時点における人間の食物についておさらいをしておきたいと思います。神様は、植物と動物をお造りになりました。そして、人間と動物に、植物を食糧として与えられたのでありました。創世記第1章29〜31節を読んでみましょう。
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
《すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう》と、神様はおっしゃっておられます。人間も、動物も、植物を食糧とするというのが、本来の神様の御心であったのです。
もうひとつ、2章9節と2章15〜17節を読んでみたいと思います。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(2章9節)
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2章15〜17節)
植物は、最初から命あるものの食糧となることを想定して、創造されました。もちろん、植物の役割がそれだけではないことは確かですが、食糧となることは重要な役割だったのです。
また、《耕し、守るようにされた》という言葉から、植物の世話をすること、つまり農業こそが人間の本来的な生業であったということも知ることができます。農業は、おそらく人間の食糧を得るためだけの働きではなかったと思われます。今日、行きすぎた農業が、ともすれば環境を破壊し、動物たちの食物を奪っているという現実があります。神様が、《耕し、守るようにされた》というのは、そういう人間中心の農業ではなく、自然保護、環境保護などに対する責任を、人間に与えられたということではありませんでしょうか。こうして、人間は、自分たちだけではなく、動物たちの食糧に対しても責任が与えられていると言えるのです。
そして、その責任を担うことこそ、人間の動物たちに対する優位性のとっても重要な部分であることが、やはり創世記第1章26〜28節に記されています。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
人間は、《海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべて》を支配するものとして創造されました。この《支配》ということも、《耕し、守る》ということと同じ意味をもったことでありましょう。つまり、それは人間が動物を自由自在に扱っていいということではなく、動物の命に対して注意深くある責任が与えられているということなのです。
それは、人間が神様の似姿に造られたこととも関係があるように記されています。つまり、人間は、動物に対しても、植物に対しても、いわば神の代理者としての注意深く被造物を守り、世話をし、支配する者としての使命が与えられているのです。
実際、人間にはそれを果たすだけの知恵と力と心が与えられました。しかし、人間はその遣い道を間違えてしまいました。代理者としての域を超えて、神のように振る舞ってしまったのです。
その象徴的な出来事が、善悪の知識の木から実を取って食べてしまったということによって、語られています。それは、神様がそれだけは食べてはならない、食べると必ず死ぬと警告なさったものでした。ところが、人間はそれを食べてしまった。その結果、人間は神のように善悪を知る者となったと記されています。
これは神様と同等の能力を持つようになったという意味ではありません。神様はご自身のうちに善悪の判断の基準をもっておられます。もっといえば、善悪の基準というのは、神様だけが持っておられるものであって、何であれ神が善とされれば善であるし、何であれ神が悪とされれば悪なのです。しかし、人間はそれとは別に、自分自身のうちに善悪の基準を持ち、まるで神であるかのように何であれ自分が善だと思うものを善とし、悪と思うものを悪とするようになってしまったということです。善悪の基準を、神様に依らず、自分自身のなかに持つようになってしまったのです。
これでは神様の代理者とはいえません。その悪しき例が、カインです。カインは、自らの思いを善とするばかりに、神様を敵対し、顔を背けました。また、弟アベルを、自己成就を妨げる者として殺害してしまいました。自らのうちに善悪の基準をもって他者を自ら裁いていく、そういう暴力的な人間の姿がここにあるのです。
それは、カインひとりに留まりません。カインは都市の建設者となり、その末裔は牧畜者の祖先、音楽家の祖先、鍛冶屋の祖先となりました。そして、都市は王国の始まりを予想させますし、鍛冶屋は剣の製造を思わせます。罪を重ねて、人間が暴力的な存在になっていく様子が、カインの系図から読み取れるのです。
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ところで、カインはもともと農耕者であったにもかかわらず、その子孫には農業に従事する者がひとりもいないということは注目に値します。それはカインが流した弟アベルの血を、大地が飲み込んだため、大地がもはやカインに対して作物を生み出さなくなったからだと、聖書は伝えています。
これはまったくわたしの想像の域を出ませんが、このように農耕から離れた者たちは、食糧不足を補うために動物を殺して食べていたのはないかと思うのです。人間同士ですら殺し合うとすれば、神様が肉食を許可しなくとも、狩りをして動物を殺したり、家畜を屠殺したりして食べるということがあったとしても不思議ではありません。また、そういうことがなければ、大洪水のあとで、唐突に、神様が肉食を許可するということは不自然な感じがいたします。
多くの聖書注解者たちは、洪水の後で極端に食糧が不足事態に対応するために、肉食が許可されたのだと語っていますが、それ以前から農耕を離れた人たちによって、狩猟や家畜の屠殺ということが行われていたと見る方が自然なのです。そして、その背景には、人間の罪があるのです。善悪の知識の木の実を食べ、自己中心的な生き方によって暴力的な存在へと変貌していった人間がおり、また罪の呪いとして大地から作物を得ることが非常に困難になっていった人間の困窮というものがあったのです。
このように、肉食は動物への暴力であり、神様が意図された人間の姿ではなかったというのが、聖書に語られていることです。ところが、神様は、大洪水の後で、肉食を許可されました。第9章2〜3節を読んでみましょう。
地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
鳥や魚を含む動物たちを食糧として与えると、神様はおっしゃっています。しかし、他方で、動物たちは《あなたたちの前に恐れおののき》と、人間たちの暴力を恐れる動物たちの姿というものが指摘されています。そのことから考えますと、これは、神様が積極的に肉食を許可したというよりも、人間の動物たちに対する暴力でもある肉食を、やむを得ず認めておられるという風に読むことができるのです。やむを得ずというのは、洪水後の食糧難ということもひとつあると思いますが、自己中心的な、つまり暴力的な存在と成り下がってしまった人間に対して、それを厳しく禁じるよりは、ある条件のもとで認めるという現実的な対応をなさったということです。
その条件というのが、4節に記されています。
ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
聖書は、血のなかに命を見ています。血と命の関係については、今日は割愛しますが、肉は食べてもいいが、血は食べてはならないということは、言い換えれば、肉は食べてもいいが、命を食べてはならないということです。
動物というのは殺して食べるわけですから、これは矛盾を孕んだ掟なのです。この矛盾のなかに込められている神様の御心を読み解けば、肉食を許すにしても、それは動物の命を思いのままにしてもいいということ許可ではない。命は、いかなるものであれ、神様に所属するものであるということを理解した上で、あなたは必要に応じて殺してもいいのだということが、ここで言われているのです。人間には動物を殺す権利はない。しかし、ある条件のもとで神様がそれを許しておられるということです。
そうすると、5-7節に記されていることも分かってきます。
あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
人の血を流す者は、
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
あなたたちは産めよ、増えよ
地に群がり、地に増えよ。
ここで語られているのは、人間の命についてです。動物の命を殺すことが、ある条件のもとでゆるされたとしても、人間の命が奪われることは許可しないと言われているのです。
動物は殺してもいいが、人間は殺してはいけないという単純な話ではありません。動物の命も、人間の命も、本来的には神のものであり、決して奪われてはならないのです。しかし、動物に限って、神様は食糧難とか人間の罪から来る弱さというものに対して、現実的な対応をなさるということなのです。
もっとはっきり言えば、人間に対する妥協なのです。その代わり、人間の命が奪われることは許さない、人間に対してであれ、獣に対してであれ、その責任を問うと、神様は厳しくおっしゃっておられるのです。
神様が妥協するという言い方について、違和感をもたれる方もあるかもしれません。まして、人間の罪深いあり方に対して神様が妥協するとなれば、「なぜ?」と眉をしかめる人もいるでしょう。しかし、事実、私たちは、そのような神様の憐れみによって生かされているということを忘れてはなりません。この妥協は、神様が痛みを引き受けてまでも、人間との和解をめざそうとする御心の現れなのです。
イザヤ書第11章6〜9節には、次のような未来が語られています。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
これを読みますと、神様は妥協をされましたが、最初の意図をあきらめたわけではないということが分かります。いっとき、妥協されるとしても、いつか暴力のまったくない天地創造の最初の時のような平和が回復するということを、神様は願っておられるし、その実現のためにイエス・キリストによる和解の御業を、今もなしておられるのです。
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さて、こういうことを知りますと、クリスチャンは、本当に肉を食べていいのだろうかという気持ちにさせられます。わたしは菜食主義者ではありませんので悩ましいところですが、肉食にはさまざまな問題があります。今、中心的にお話しをしてきました動物の命に対する残虐性ということもありますが、それだけではなく、穀物の方がずっと生産性がよく、より多くの人口を養うことができるのです。また動物性脂肪が誘発する肥満、心臓疾患、脳血管障害、癌などの健康上の問題もあります。さらに、近年、日本でも流行している鶏インフルエンザ、口蹄疫などの危険もあります。穀物の方がずっとこういったリスクは少ないのは明らかです。菜食主義者にも根底にはいろいろな思想があると思いますが、聖書的菜食主義というのは、十分な根拠を持ち得るだろうというのが、わたしの理解です。
しかし、それと同時に、無視できないとっても大切なことですが、イエス様ご自身は、菜食主義を貫かれたわけではないということです。イエス様が、動物の肉を食べたという記事は福音書に見あたりません。しかし、過越の祭りを祝われたときに小羊の肉を食べたことは十分に可能性があります。また、魚については、確実に口にされました。しかも、ご自身が食べられただけではなく、弟子たちや人々に魚を食べるように差し出しておられる場面もあります。当時、エッセネ派という一派では菜食主義を規律として採用していたことが知られていますが、それでもイエス様は菜食主義者ではなかったのです。
イエス様が菜食主義ではなかったということは、何を物語っているのでしょうか。イエス様が動物のいのちを軽視していたとは言えません。それはイエス様の教えを見ればわかりますし、ご自身を羊飼いに喩えているぐらいなのです。では、なぜイエス様は菜食主義であれと、わたしたちに教えられなかったのでしょうか。それどころか、自らも菜食主義者であろうとしなかったのでしょうか。それは、人を義とするのは菜食主義ではなく、イエス様の十字架であるということを、明確にするためではなかったでしょうか。
たとえ菜食主義をライフスタイルとして実践したとしても、それによって私たちが直接的、間接的に動物への暴力から自由になるわけではありません。わたしたちの生活は、私たちが知ろうと知るまいと多くの動物の命の犠牲の上に出来上がってしまっているのです。そういう事実がないかのように、菜食主義的ライフスタイルを守ることだけで、何か自分が動物への暴力から解放されたように思うことは大きな間違いないのです。
菜食主義が無意味だというわけではないにしても、人が義とされるのはイエス様の十字架によってのみです。この福音を少しでも薄められることは、決してあってはならないことです。
これは、他のことについても言えます。酒や煙草をやるべきではないとか、離婚してはならないとか、自殺は罪であるとか、贅沢はいけないとか、昔からよく言われているクリスチャン的に道徳観というものがあります。確かに、そうかもしれませんが、それを守っているからといって、ほんとうにクリスチャンらしいと言えるかどうかは、別の問題です。クリスチャンであるとは、イエス様の十字架によって、ただそれによってのみ自らが義とされるということを知り、その感謝に生きる者だからです。
決して、倫理や道徳がどうでもいいという乱暴なことを言っているのではないのです。ただ、人間というのは弱い者ですから、御心を知りつつもそれができないということは、往々にしてあるのではないでしょうか。神様は、そのような人間の弱さに対して寛容でいてくださる。そして、その弱さを認めつつ、ご自身の憐れみにたよってくることを求めておられるのです。
今日のお話は、大洪水の話と一見無関係だと思われるかもしれません。しかし、これまで何度も申し上げてきましたように、この大洪水の物語は、罪深い人間、罪深い世界と共にあろうとしてくださる決意をしてくださった神様の物語なのです。その決意のなかに、肉食の許可があるということを覚えたいと思います。 |
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