天地創造 65
「農夫ノアの失態」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 第9章18〜28節
新約聖書ヨハネによる福音書 8章1〜11節
農夫ノア
 今日お読みしましたみ言葉には、大洪水のあと、ノアがぶどうを栽培する農夫になったということが書かれていました。

 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。(20節)

 イエス様は、《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。》(ヨハネによる福音書 第15章5節)とおっしゃっておられますが、ぶどうは、聖書のなかでたいへん馴染み深い植物、また果実です。それが聖書に最初に登場するのが、このノアのぶどう栽培なのです。

 それだけではなく、人類のぶどう栽培の歴史ということを考えましても、これは極めて古い記録として注目されるところです。いろいろな研究によりまして、ぶどうの栽培の歴史は、極めて古い時代から、少なくとも8000年以上も前から、小アジアに始まり、メソポタミア、ギリシャなどに広まっていったということが分かっています。小アジアといえば、箱舟が漂着した辺りですから、今日の研究と聖書の記述はとてもよく合致していることになります。

 また、人類が、最初にぶどうを栽培したのは、食用にするためではなく、ぶどう酒を醸造するためでした。ぶどう酒は、ビールなどよりも歴史が古く、人類が最初に口にしたお酒であろうと言われています。ぶどうには、とても多くの糖分が含まれておりまして、しかも皮に酵母が付着しているため、野生のぶどうが実を落とし、その果汁が皮の酵母と触れあって、自然に発酵酒ができることがあるのだそうです。そういうものを偶然に発見して飲んだのが、人間が最初に飲んだお酒であろうと推測されるのです。

 ノアがぶどうを栽培したのも、ぶどう酒を醸造するためでありました。前回は肉食の話、今回はお酒の話、そういうことだけを見ましても、聖書は人間の「食」というものに、深い関心をもっていることが分かります。食べることは生きていく上で欠かせないことです。しかし、生きるためだけであるならば、肉食も、お酒も、なくてならないものとは言えません。食べたり、飲んだりすることは、人間の生活のなかで、それ以上の豊かな意味をもつということが、聖書で認められているということを、ここから読み取ってもいいのではないでしょうか。

 創世記第5章28〜29節に、こう記されていました。

 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。

 父レメクの言葉は、大洪水のあとにノアがぶどう栽培をはじめ、ぶどう酒の醸造を始めることの預言とも読むことができます。《主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労》とありますように、エデンの園で善悪の知識の木から実を取って食べて以来、大地は呪われたものとなり、大地から食物を得るということは、人間にとってたいへんな重労働であり、生きる苦しみや悩みのもととなっていたのです。食べるということは、労苦して生きる人間の象徴です。ところが、ノアは、ぶどうの栽培、そしてぶどう酒醸造の技術を会得し、農産物から、単なる食物とはちがうお酒という「楽しみ」を得たのです。食文化の始まりと言ってもいいかもしれません。

 野の草を食べようとするお前に、土はいばらとアザミを生え出でさせるという、神様のお言葉の通り、一所懸命に生きようとする私たちに対して、それを妨げるかのようなことがたくさんあります。お釈迦様は生老病死ということを言いました。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、これだけは人間の思い通りにならないという教えです。しかし、思い通りにならないのは、それだけではありません。今回の東北・関東を襲った大震災、津波もそうです。人間がどんなに真面目に、一所懸命に何かを築いてきたとしても、家も、家族も、友人も、恋も、仕事も、夢も、一瞬になぎ倒し、押し流してしまうようなものが襲ってくるのです。事故や犯罪に巻き込まれることも同じでしょう。意識していようがしていまいが、そういう自分ではどうすることもできないものを、いつ何時引き受けなければならないかもしれないという恐れや不安を抱えて、私たちは生きているのです。

 だからこそ、わたしたちは、「楽しみ」を必要としています。スポーツ、釣り、散歩、ショッピング、カラオケ、旅行、読書、音楽鑑賞、お芝居、おしゃべり・・・そういう楽しみが、わたしたちの恐れや不安を抱えた人生を活気づけ、慰めてくれることがあるのです。こういったささやかな楽しみも、神様が恵みとして与えてくださったものなのです。

 詩編の詩人も、神様の恵みを讃えるなかで、こう言っています。

 ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
 パンは人の心を支える。(詩編第104編15節)


 楽しむことに罪悪感を抱く人もいるのですが、神様が与えてくださったものとして自分を楽しませ、神様に感謝と讃美をささげることこそが、御心なのではありませんでしょうか。
酔っ払いノア
 しかし、こういった楽しみは、両刃の剣であるのも事実です。楽しみは、一時、わたしたちの人生を慰めますけれども、人生の悩み苦しみ、不安をなくすものではないのです。だからといって、それをくだらないものとする必要はないということを、いま申し上げたのです。しかし、勘違いすると、人生を力づけるはずの楽しみによって、かえって足を掬われるということが起こります。

 ノアにも、そういう失敗があったと、聖書は語るのです。

 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。(21節)

 お酒に限ったことではありません。誰でも、ノアのように楽しみに溺れて失敗するということが、往々にしてあるのです。けれども、聖書は、決してそのような教訓めいたことを語ろうとしているようではないようです。続きを読んでみましょう。

 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。(22〜23)


 ノアが、正体なく酒に溺れ、素っ裸で寝ていると、次男のハムがそれを見つけました。ハムは、そのような父親の姿を見て、がっかりしたのではないでしょうか。信仰深く、忍耐強く、力強く、箱舟を造り上げ、大洪水の中から家族を救い、一年におよぶ箱舟生活を取り仕切り、洪水が引いた後も地道に働いてぶどう栽培を成功させた、そんな父親が、今まで見たこともないような失態をさらしていたのです。

 ハムは、外に出て行き、他の二人の兄弟セムとヤフェトに、そのことを告げました。すると、長男セムと末子ヤフェトは、父親のために着物を取ってきて、その姿を見ないように後ろ向きに近づいき、父親の裸を覆い隠したというのです。

 酔いを覚ました父ノアは、ハムのしたことに怒り、呪いの言葉まで発し、セムとヤフェトを祝福したというのです。
罪を覆う者
 なんか割り切れないものを感じる物語ではないでしょうか。ハムは確かに父親の失態を兄弟たちに告げ知らせてしまったにせよ、一番悪いのは、酒に溺れて醜態をさらしてしまったノア自身であるはずです。神様の恵みとしてぶどう酒が楽しみとして与えられているにせよ、ノアは度を超えてしまったのです。そういう自分の失敗については何の反省もなく、息子ハムの罪を責め、「奴隷の奴隷となれ」とまで呪うというのは、なんか筋違いのような気がするのです。

 実は、聖書の罪に対する扱い方が、ここに現れているのです。罪は犯さないに越したことありません。しかし、果たして罪を犯さずに済む人間などいるのでしょうか。《ノアは、神に従う無垢な人であった。》(第6章9節)と記されていましたが、物語の最後になって、こんな醜態をさらしてしまう。アブラハムも、モーセも、ダビデも、ペトロも、パウロも、罪なしと言えるような人間は、聖書にひとりも出てこないのです。

 これはとっても重要なことです。みなさんは、正しくなければならないと自分に言い聞かせているかもしれません。しかし、正しくあるなどということは、誰にもできないのだというのが、他のだれでもない神様ご自身が、大洪水の後で出された結論なのです。《人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。》(第8章21節)と、神様はこうおっしゃったのでした。これまで、何度も繰り返し語ってきたつもりですが、そのように罪深い者と共にあろうと決意された神様の物語、それがこのノアの方舟のお話しなのです。

 そして、そのような恵み深い神様の御心の究極の姿が、イエス様のうちに、その十字架に、現れているのです。もしイエス様が罪人を裁くために来たならば、イエス様以外のものがみな十字架にかけられ、ただひとりイエス様がそれを見上げるという形になったはずです。しかし、実際はそうではありませんでした。罪のないイエス様が十字架にかかり、罪人たちがそれを見上げて、イエス様をののしっているのです。イエス様は、黙ってその罵りをお受けになりました。これが何を意味するかと言えば、イエス様は罪人を罪あるままに受け入れておられるということです。そのために、自分の義が台無しになり、あらぬ罪を着せられて死ぬということがあってまでも、罪人を罪あるままに受け入れてくださったのです。

 セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。

 ここを読んで、すぐに思い起こすのが、アダムとエバをエデンの園から追放されるとき、神様がふたりに皮の衣を着せてくださったということです。何の装いもない私たちの裸を、粗野で、品位のない、惨めな罪深い体を、恵みをもって覆ってくださるのが、父なる神様なのです。

 セムとヤフェトの行為は、そのような神様の御心をあらわすものであったのでした。神様の御心を行うとは、清く正しく何の恥ずべきこともしないで生きることではありません。そのように生きることができないお互いの恥を、覆い合って生きることなのです。
告発者
 他方、ハムは、ノアの醜態を兄弟に告げたとあります。どんな風に告げたのかは、何も語られていません。おもしろおかしく告げたのかもしれませんし、憤慨しながら告げたのもかもしれません。

 聖書に書いてないということは、どんな告げ方であるにしろ、それは問題ではないということでしょう。ただ、父の失態を他の兄弟に告げたという事実が、問題とされるのです。それは、罪を覆うことが神様の御心を行うことであるとするなら、罪を告発することはサタンの所業だからです。

 ヨハネの黙示録第12章10節で、サタンは神の御前で罪を告発する者と呼ばれています。ヨブ記でも、サタンはヨブの罪を神様に告発します。ハムがサタンであるとはいいませんが、他者の罪や恥を告発するということは、神様の御心の真逆にあることなのです。

 このように聖書には、罪を犯す者と罪を犯さない者ということよりも、罪を覆う者と罪を告発する者という対立を重視します。そもそも罪を犯さない者というのはイエス様の他にいないのですから、罪を犯す者と罪を犯さない者という対立は無意味なのです。

 罪を犯していながら、自分は罪を犯さない者であるかのように振る舞う人々はいます。そういう人こそ、罪を告発する者になります。ハムもそういう人であったのかもしれません。しかし、罪を自覚する者は、人の罪を責めることができなくなります。

 ヨハネに福音書第8 章に記されている姦淫の罪を犯した女の物語もそうです。彼女をイエス様の前に連れてきて、「この女を石で打ち殺すべきでしょうか」と罪を告発した者たちは、「あなたがたのうちで罪のない者がまず石を投げなさい」というイエス様の言葉によって、みな石を捨てて立ち去っていきます。そして、イエス様もまた、「わたしもあなたを罰しない」と、神様が罪を覆う者であることをお示しになるのです。

 私たちもまた、このような罪の赦しに招かれている者です。そのことに感謝し、私たちもまた互いの罪を覆い合う者となれるよう祈りたいと願います。
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