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大洪水を免れたノアとその息子たちを、神様は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福なさいました。その祝福のもと、ノアの息子たちは子どもたちをもうけ、その子どもたちもまたそれぞれに家庭を築き、子供をもうけ、子孫を増やしていきました。こうして家族は血縁によって氏族を形作り、氏族は部族となり、部族は国家となって、人間の社会がこの地上にひろがっていったということが、創世記10章に記されているノアの子孫の系図が物語っていることです。
さて、その人間の歴史のなかに、たいへん大きな権力をもった人物が現れたと記されています。10章8〜12節を読んでみます。
クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。
ニムロドという王さまの話です。ニムロドは、シンアル地方の王様で、バベル、ウルク、アッカドを支配していたと書かれています。いずれもチグリス川とユーフラテス川の間に栄えていたメソポタミア文明の都市国家として知られています。ウルクは、メソポタミア文明より前に栄えていたシュメール文明の都市国家。アッカドは、メソポタミアを最初に統一し、最古の帝国を築いた都市国家でした。そして、今日は「バベルの塔」のお話しをするのですが、そのバベルもまたニムロドが支配していた都市国家であったと記されています。
バベルは、アッカド帝国が衰退した後、古バビロン帝国を築いてメソポタミアを支配するようになる都市国家バビロンのことです。ニムロドは、これらの都市国家を支配しつつ、さらに北方へ領土を広げ、アッシリア地方の都市国家をも支配したというのです。古代史は得意ではないのですが、要するにメソポタミア地方に突出した権力をもっていた王さまがニムロドでありました。
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聖書を読んで気づかされるのは、このような権力の存在に対して、けっして否定的な見方がされていないことです。ニムロドは《主の御前に勇敢な狩人》として讃えられています。狩りをするというのは、今ではスポーツの一種のイメージがありますが、古代においては、食糧の調達であるとか、野獣を退治するとか、きわめて実用的なことでした。そのための勇気、知恵、力を兼ね備え、人々のリーダー的役割を果たした英雄が、ニムロドであったというのであります。
私たちは、地上の王国ではなく、神の国を信じ、それを宣べ伝えています。イエス様は、《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》(『マタイによる福音書』第6章33節)と教えられましたし、サタンがこの世の国々のすべてを与えようと誘惑したときも、人々が王さまに担ぎ上げようとしたときも、イエス様は断固として拒絶なさいました。
あるいは、ペトロは、信仰のゆえに法廷に立たされたとき、《人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません》(『使徒言行録』第5章29節)と宣言しました。こういうことがあるからでしょうか、この世の権力に対しては懐疑的であること、反骨的であることこそ信仰者の証しだと勘違いする人たちもいるようですが、聖書はそういうことを言ってはいません。ローマの信徒への手紙第13章1〜2節にはこう書かれています。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
この世の権力、あるいは地上の国家の存在も、神様が御心を行うために建てておられるのだから、神様を信じる者たちはそのような権力に対して敬意を持ち、積極的に仕えなさいという教えです。たしかに権力は、健全に機能すれば、社会の秩序を守り、市民生活を向上させることになります。そのために、義務を果たし、法を守り、税金を納めることは、神様を信じる者にとって大切なのです。
しかし、現実には、権力者がそのように神様の御心を行っているとは思えないことがたくさんあるのです。権力が私物化され、暴政が行われ、自由や人権が脅かされた市民が苦しむということが、あまりに多いのです。聖書は、そういうときにも、権力は神に由来するものであると信じ、権力に服従しなさいということを教えているのでしょうか。これについては、『テモテへの手紙』1第2章1〜2節が、ひとつの答えを出してくれています。
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
権力者のために祈りなさい、と言われています。祈るとは、何もしないことではありません。天の祝福をこの地上に呼びくだすことができる、もっとも大いなる働きなのです。
イエス様も、《御心が、天で行われるように、地の上にも行われますように》(『マタイによる福音書』第6章10節参照)、と祈ることを教えてくだいました。自分のためだけではなく、人々のために、世のために、神の御心が行われるように祈ること、これがクリスチャンのなすべき第一の務めです。
政治的な活動、抵抗運動をしてはいけないということではありません。しかし、革命が起こったところで、新しい権力もまた同じ轍を踏むことなんて、ザラにあります。たとえ信仰者が王さまになったところで同じです。旧約聖書の列王記をよめば、いくらでもそういう話を見つけることができるのです。
聖書は、この地上に絶対的な理想国家としての神の国を建てるなどということはまったく考えていません。そのような務めがクリスチャンに与えられているわけではありません。神の国は、イエス様と共に上から来るのです。クリスチャンが第一になすべきことは、そこに希望をもって、真の神の国を待ち望むということでありましょう。
そのうえで、この地上での生活も、様々な問題を抱きつつも、神様が御心によって私たちに与えたもう生活なのだということを信じることです。そこには、かならず私たちのなすべき務めがあります。なんであれ、それを信仰をもって忠実に果たすことが、神の国を待ち望む生活でもあるのです。
わたしが『テモテへの手紙』の言葉と共に思い起こすのは、『エレミヤ書』第29章にある御言葉です。それは、国を滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれた人々に向けて語られたものでした。なお、このバビロンは新バビロン王国と呼ばれ、創世記でバベルと呼ばれているバビロンとは違う国です。『エレミヤ書』第29章4〜7節をお読みしましょう
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。 家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
ここにも、かならずしも自分の故郷ではない国で、しかも自分たちの国を滅ぼした敵国のなかで、できるかぎり平和に過ごし、その町の平和のために祈りなさいということが言われています。その後で、神様はさらに二つのことを語って居られます。ひとつは、偽預言者や占いに頼らず、信仰をきちんと守りなさいということです。もう一つは、バビロンでの生活は決して永遠のものではなく、神様の時が満ちたとき、必ず故郷に帰る日がある。その神様の約束を信じて待ち望みなさいということです。
「国籍は天にある」と告白する私たちが、この世にあってどのように暮らすべきなのか、大いに考えさせられるところだと思います。
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さて、今日はバベルの塔のお話しなのですが、これは今もうしましたニムロドが支配するバベルという都市国家で建設された町と塔の話です。なぜ、私が権力だとか、国家だとか、そういう話をしたかと言いますと、11章2節、4節に、こう記されているからです。
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
ここには、バベルの塔の建設の目的が語られています。それは町の建設に関わることでした。町を建てるにあたって、そのシンボルとなる塔を建てようということなのです。
なぜ、町のシンボルを築こうとしたのでしょうか。ひとつは、《有名になろう》と言われています。その町の名前を、栄誉あるものにしようということです。これは悪いことではありません。今だって、日本中の自治体が特産物や観光の名所、あるいは独特の取り組みをアピールしています。そして、多くの人に名を知ってもらい、特産物を買って貰ったり、観光に訪れてもらったり、あるいは住んで貰いたいという活動をしています。それが、町に住む人たちの利益になるからです。だれもそれを批判することはできません。
もうひとつは、《全地に散らされることのないようにしよう》とあります。これも、悪いことではありません。この度の東日本大震災では、多くの町々が壊滅的な津波の被害を受け、避難生活を余儀なくされています。福島の原発事故でも、広範囲におよぶ町々村々が、役場ごと避難しなければならない状況が続いています。それでも、多くの人々は、自分の故郷に帰りたいという気持ちを持つのです。
もっとも個人差はあると思います。わたしなどは、子どもの頃から転居することが多かったものですから、どこにいてもよそ者でしたし、自分もあまり土地に固執するということはありませんが、バベルの人たちが、子々孫々までこの町に安心して暮らし続けることができるようにしようと願うのは、とてもよく理解できるのです。
神様は、このように町を建設し、町の繁栄を願い、そこで安心して暮らせるようにする人間の営みを、決して悪いことだとおっしゃるとは思えないのです。むしろ、そのような人間の営みを祝し、助けてくださるのが、神様の御心ではありませんでしょうか。そういうことを申し上げたいために、ちょっと枝葉に立ち入りすぎたかもしれませんが、国家とか、権力のお話しをさせいただきました。
さらに、バベルの塔の建設の背景には、人間の技術の進歩ということが絡んできます。3節を読んでみましょう。
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
ここに記されていますように、レンガを建築資材として使い出したのは、メソポタミア文明が最初でありました。紀元前4000年〜3000年ぐらいの間は、日干しレンガでしたが、3000年頃から火で焼かれたレンガを作られるようになったと言います。また、しっくいの代わりに天然アスファルトが用いられるようになったとも記されています。このような技術の進歩によって、より大きな建造物の建築が可能になりました。それで町のシンボルとなるような塔を建設しようということになったのです。
これは悪いことでしょうか。人間の技術の進歩は、人間に多くの利益をもたらしています。それだけではなく、神様の栄光のためにそういった新技術が用いられることもあるのです。たとえば、見も知らぬ人から電話による相談を受けることがあります。インターネットで荒川教会の説教を読んでくださったという方からメールを受けることもあります。電話やインターネットという新しい技術によって、人々に福音を伝える場が広がっているのです。
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では、なぜ神様は塔の建設を危ぶまれたのでしょうか。よく言われるのは、《天まで届く塔のある町を建て》という部分です。《天まで届く》なんてうそぶくのは、人間の思い上がりであって、神の座に人間が登り詰めようとする傲慢さの表れだということなのです。
たしかに、人間は、神のようになろうとする誘惑にいつも晒されています。とくに、新しい技術の獲得は、人間の可能性を、ある程度、広げることになりますから、それで神に近づけるのではないか、神様の救済などと言わなくても人間は自分たちの知恵と力によって自分たちを救えるのではないか、と舞い上がってしまうことがあるのです。
しかし、これに対しては別の解答が与えられています。5節を読んでみましょう。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
ここには、人間の建てている塔があまりにも小さいので、神様はわざわざ天から降ってきて、その建設のありさまを見て、そこではじめて彼らが何をしているのかが分かったということが書かれているわけです。
もちろん、神様は天におられても、一羽の雀から私たちの髪の毛の数まで、なにもかもご存知の御方ですから、そんなことはないだろうと思います。これは、皮肉なのです。天まで届こうなどという塔を建てたとしても、神様のいと高き天から見下ろせば、顕微鏡でみなければわからないほど小さな代物だったということです。
今も人間は、自分たちの知恵や力を誇り、神様が天地を造ったなんて嘘だとか、奇蹟なんてないと言ったり、まるで神様を馬鹿にしたような言い草をすることがありますけれども、人間が誇っている知恵や力など、神様からみれば顕微鏡サイズだということなのです。逆にいうと、神様が《これでは彼らが何を企てても、妨げることはできない》(6節)などと危ぶまれるようなことではないとうことです。
神様は、人間の営みに対して、ほんとうに寛容なのです。人間の知的な活動、芸術的な活動、政治的・社会的な活動などに対して、これはダメ、これはOKなどと、神経質に干渉されることはありません。そんなことよりも、多少の行きすぎや過ちがあっても、人間の活き活きとしたチャレンジや活動をよろこんで下さっているのが、神様です。神様は、私たちが考えるよりも、ずっと大きな心をもって、わたしたち人間を見守って下さっているのです。
では、いったい神様は何を危ぶまれて、塔の建設を妨げられたのでしょうか。6節を読んでみましょう。
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
神様が危ぶまれたのは、《皆一つの言葉を話している》ということだったのです。それがどのように危険なことであったのか、それは次回にお話しをさせていただきたいと思います。このバベルの塔のお話しは、実は町の建設でも、塔の建設でも、人間の知恵や技術に対する奢りでもなく、1節にありますように《世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた》ということが問題であったのです |
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