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今日お読みした7章は、エステル記のクライマックスと言ってもいいでしょう。エステルが王様に直訴をすることによって、ユダヤ人の敵ハマンは失脚し、ハマンの敵モルデカイが引き立てられるのです。ハマンがモルデカイをつるそうとして建てた20メートルあまりの柱に、自分が吊されてしまうというおまけまでついています。これによって、神様の勝利が決定的であり、完全であるということを深く印象づけられるのです。
しかし、実はエステル記のおもしろさは、このクライマックスを迎えるまでのストーリーの展開にこそあると言ってもいいでしょう。
@ 王妃ワシュティの退位
ペルシアの王クセルクセスは酒宴を開き、王妃の美しさを人々の前に披露しようと思います。ところが王妃ワシュティは、自分が人々の見せ物になることをいやがり、それを拒否するのです。恥をかいた王様はワシュティを王妃の位から退位させてしまいます。
今から思いますと、この事件にすでに神様の御手が働いていたと言えるのです。というのは、たとえこういう事件がなくても、ハマンとモルデカイの対立が起こっていたことは十分に考えられます。その時、ワシュティに代わって王妃となったユダヤ人のエステルがいなかったらどうでありましょうか。物語の展開はまったく違ったものになっていたに相違ありません。しかし、神様はそのような対立が起こる前から、その時のことをすでに見越しておられてワシュティを退位させ、ユダヤ人のエステルを王妃にしようとされた、これが聖書の歴史観なのです。
A エステルの身の上
しかし、もっとさかのぼって考えることもできます。2章7節に、「モルデカイは、ハダサに両親がいないのでその後見人になっていた」とあります。ハダサとはエステルです。エステルは孤児でした。それで従兄弟のモルデカイが後見人となって育てることになったのです。エステルとモルデカイの関係は、後の事件の展開に非常に重要な意味をもってきます。たとえエステルが王妃なっていたとしても、モルデカイがいなければエステルが活躍できなかったでしょう。逆に、エステルがいなければモルデカイは何もできなかったかもしれません。そうして考えますと、エステルの不幸の身の上すら、神様の後のご計画があってのことだと言えるのではないでしょうか。
もう一つ、2章7節の後半に、「娘は姿も顔立ちも美しかった」とあります。エステルの美しさも、神様の賜物であったということです。これは、女性にとっては、神様の不公平を感じる部分でもあると思います。けれども、顔立ちだけではなく、人間には生まれ持ったものというものがあります。健康、能力、家柄、生まれた国、時代・・・そして、それによって後の人生が方向付けられていくということがあるのです。けれども、そこに神様の御手の働きがあるということなのです。
人間というのは、神様が大量生産をして造っているわけではありません。その中で時々不良品が出る。それが自分だなんて考えてはいけないのです。神様は一人一人、心を込めて、掛け買いのない存在として、私たちをお造りになりました。そして、その存在を与えてくださった神様は、ちゃんとその意味や目的というものをお考えくださっているのです。それを知る者は、自分の人生に意義を見いだすことができるでしょうし、それを知らない者は自分が何のために生まれてきたのかということで、人生をさまよってしまうのです。
B 王の暗殺計画をモルデカイが阻止する
その後、もう一つ、後から重要な意味をもってくる事件があります。モルデカイは王宮の門番であったようなのですが、たまたま二人の男が王の暗殺計画について話しているのを小耳にはさんでしまうのです。モルデカイは頭の良い冷静な男でしたから、きっと独自に裏付けをとったことでしょう。そして、それを王に報告したのでした。こうして、王の暗殺計画は実行前に阻止されることになったのです。
モルデカイは、この事件に対する恩賞を受けることがありませんでした。誰かが意図的にそうしたら、あるいは単純な事務的なミスか、それは分かりません。モルデカイはおかしいと思ったかもしれませんが、何も言いませんでした。しかし、このことが後になって思い起こされ、それが王様の気持ちにとても効果的に働いたためことが、ユダヤ人の救いに大きな影響を及ぼすことになります。
実は、私たちも、とても骨を折って働き、それなりの成果を得たにもかかわらず、それが報われないという経験をします。でも、心配することはありません。神様は、決して私たちに対する報酬を忘れたりはしません。神様は一番良い時期に、一番効果的な方法で、私たちに報いてくださるのです。
C モルデカイとハマンの対立
そのようなことの後、モルデカイとハマンの対立ということが表面化してきます。王様のご機嫌をとって出世したハマンは、自分に敬意を払わないモルデカイを憎むようになり、彼がユダヤ人であることをしると、ユダヤ人すべてを虐殺しようと計画するのでした。そして、王様もまんまとハマンの口車にのせられ、王のお触れとしてユダヤ人虐殺令を発布させてしまうのでした。
絶体絶命のピンチです。しかし、このピンチは、実は神様に予め分かっておられることであり、すでに十分な備えをしておられたわけです。そのことは、神様以外、誰も知りません。モルデカイも、エステルも知りません。でも、準備は為されていたのです。
ただし、モルデカイは、そのピンチの時にも、きっと神様は救いのご計画をもっていてくださるはずだと信じました。そして、「エステルに、あなたが王妃にされたのはこの時のためではないか」と行って、エステルを説得し、直訴に行かせたのです。神様の御業は人間の知恵には見えないこともありますが、それを信じる信仰が大切です。
D エステルの直訴
そして、いよいよエステルが直訴をすることになるのですが、エステルは何をどうように言えば良いのか分からず、願いを先延ばしにします。エステルの気持ちとしては、どうしようか、いつ言おうかと迷いや不安でいっぱいだったかもしれません。でも、それが思わぬ功を奏しまします。王様もエステルの願いに気になって眠れなくなってしまうのです。それで、睡眠薬代わりに一番つまらない本をもってこさせて、それを読ませるのです。それは宮廷日誌でした。
この宮廷日誌を読んでいるときに、王様はモルデカイの功績を思い起こします。そして、彼に対する報償が何も行われていないということに気づくのです。
E ハマンの落ち目
そこにハマンがやってきました。ハマンはモルデカイをつるすための柱を立てていたところを、王様に呼ばれてやってくるのです。王様はハマンに問います。「王が栄誉を与えたいと思う人にはどうしたらよいか」。ハマンはてっきりそれは自分のことだ思って、「王様の衣服を着せ、王様の馬に乗せ、貴族にその馬を引かせて、『王様が栄誉を与えようとする者はこのようにされる』と町中の人に知らせたらいかがでしょう」と言います。すると、王様は、「ではお前がモルデカイにそのようにしてやりなさい」というのです。
ハマンは唇をかみ締めたことでありましょう。そして、モルデカイの馬を引き、『王様が栄誉を与えようとする者はこのようにされる』と叫びながら、心の中は大混乱に陥っていたに違いありません。その日は、ハマンは宮廷の仕事を休みます。そして、家に帰り、妻や友に話してうさをはらし、慰めてもらおうと思うのですが、彼らは口をそろえて、こう言ったのでした。「モルデカイはユダヤ人の血筋のもので、その前で落ち目になり出したら、あなたには勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです」
F 大逆転
こうして、大逆転が起こりました。エステルは、モルデカイが王の栄誉を受けたことを知り、神の御業を知ったことでありましょう。それで二日目の酒宴で、ついにうち明け、ハマンの企みがすべてばれてしまうわけです。
「『王よ、もしお心に適いますなら』と王妃エステルは答えた。『もし特別な御配慮をいただき、私の望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、私のために私の命と私の民族の命をお助けいただきとうございます。私と私の民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。私どもが、男も女も、奴隷として売られるだけなら、王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙ってもおりましょう。』クセルクセス王は王妃エステルに、『一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか』と尋ねた。エステルは答えた。『その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。』ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた。」(3-4節)
これを聞いた王は、ひどく驚きます。エステルはユダヤ人であったことを、ここで王もハマンもはじめて知ることになるのです。(モルデカイがエステルに授けた知恵の意味がここで明らかにされる。沈黙も神様に用いられるのである)。そして、ハマンがユダヤ人は王に逆らう反逆の民であるというので虐殺の命令を許可したのですが、モルデカイも、エステルも、ほんとうによく仕える者がユダヤ人であることに気づきます。一方、信頼していたハマンは、自分に偽りを言っていたわけです。
混乱する頭を整理するためでしょうか、王様はいったん部屋を出ていきました。その間に、ハマンは王妃エステルにすがりつき、命乞いをします。すると、そこに王様が戻ってきました。命乞いをしているハマンを、王妃エステルに乱暴をしているかのように見た王様は、心が決まりました。
「お前はわたしの王妃にまで乱暴を働こうとするのか」
王様がこういうや否や、ハマンには弁解する間もなく、頭に袋をかぶせられてしまいました。すると、宦官は、「ちょうど柱があります。ハマンがモルデカイを吊そうとして建てた柱です」。王様は躊躇なく、ハマンをそこに吊すように命じたのでした。 |
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今日は、歴史とは何かということを、こころから学びたいと思うのです。歴史というのは、時間のつながりではありません。その時間と時間とのつながりの意味を解釈し、この時間の流れがどういう方向に向かっていくのかということを研究するのが歴史なのです。聖書には明確な歴史観があります。神がこの歴史を興され、神の目的に向かって歴史は進んでいるという考えです。
エステル記は、そのことを本当によく物語っているのです。人間の落ち度や不幸、欠点、悪い者、事件・・・色々なことがすべて神様の御手の中にある。そして、神様の御手によってすすめられているということです。それを信じて、神様の協力者として生きていくのが信仰者の生き方でありましょう。
パウロはこのことをたいへん力強く名言しています。ローマ8:28
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The
Common Bible Translation (c)日本聖書協会 Japan Bible
Society , Tokyo 1987,1988 | |
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