ヘブライ人への手紙 02
「神、御子によりて語り給へり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙1章1-2a節
旧約聖書 イザヤ書63章7-10節
大丈夫な生き方
 最近、テレビのコマーシャルで、二足歩行の人間型ロボットがレストランで給仕をしている映像を見ました。ホンダが開発したアシモという人間型ロボットです。子どもぐらいの大きさで、動きも自然で、少しもギクシャクとしたところがありません。宇宙服を着た可愛らしい子どもを見ているような、ほほえましい映像です。

 何かの本で読んだのですが、人間のように自在に歩く二足歩行のロボットというのは高度な科学技術を要しまして、まだまだ研究中の難しい技術なんだそうです。歩く場所が実験室で作られた様な真っ平らのところならまだいいのでしょうが、そんな都合のいいところは実際の世のなかにはありません。どんなに平らに見えても微妙な起伏があったり、物が落ちていたり、路面が湿っていたり、プログラムに入っていないような色々なことが起こるのです。ロボットが人間のように歩くためには、そのような様々な条件でも倒れないように完璧に計算され尽くしたプログラムと身体構造が必要だと考えられ、研究が重ねられてきました。しかし、理論的にはうまくいくはずなのに、なかなかうまくいかないのだそうです。アシモというロボットは、そういう従来の研究とはまったく違った発想によって生まれたそうです。つまり絶対に倒れないような歩き方を追究するのをやめて、倒れそうになったときに次の一歩をどう出せばいいのか、次善策をロボットが予測、判断できるようにしたというのです。この発想の転換がアシモの成功につながりました。

 これは、私たちの人生の歩み方についても考えさせられる興味深い話ではないでしょうか。人間の歩き方をまねたロボットに人生の歩み方を学ぶというのも妙な話なのですが、私たちの人生も、頭で描くのとは違って、現実にはなかなか儘ならぬことが多いのです。一生懸命に考え尽くして生きているつもり、用意周到な生き方をしているつもりであっても、意外な落とし穴、思わぬ障害があるのです。「これならうまくいくはずだ」と考え抜いたことでも、実際には予想外の事態に直面して駄目になってしまう。わたしたちも発想の転換が必要なのではないでしょうか。倒れない生き方、確実な生き方、完全な生き方ではなく、倒れそうになっても、あるいは実際に倒れてしまって大丈夫な生き方をするということです。

 私は教会学校で中高科クラスを担当しているのですが、その際、子供たちに心掛けて伝えていることは「しっかりとした人間になりなさい」ということです。ときどき、子供たちに「どうしたら、しっかりとした人間になれると思うか」と聞きます。すると、「一生懸命に勉強する」とか、「真面目に生きる」とか、「間違いのない生き方をする」とか、なかなか立派な答えが返ってきます。しかし、それでは駄目なのです。そういう生き方をしていると必ず行き詰まってしまう時がきます。そして、そういう生き方しか考えられない人は、そこで「もう駄目だ」と簡単に絶望してしまうのです。しなやかさがないといけないんですね。

 ですから、若者らしい希望をもって理想に燃えている彼らにはちょっと酷なのですが、それでは駄目だとはっきりと伝えます。「君たちの人生は、前途洋々たるものとは言えない。病気をするかもしれないし、事故で手足がなくなるかもしれないし、犯罪に巻き込まれるかも知れないし、自分自身が大きな過ちを犯すかも知れない。そういう時にもなお、しっかりとした人間として生き続けるためには、倒れない生き方ではなく、倒れても大丈夫な生き方をしなくてはいけない。倒れないことを求める人間は、倒れたときに起きあがる術をしらない。だから、倒れたときのことを考え、どんなに酷い倒れ方をしても大丈夫な生き方、必ず起きあがれる生き方を求めなさい」と、そういう風に伝えるのです。 

 これが聖書の語っている人間の生き方でもあります。聖書にはいろいろな人が登場しますが、一人として倒れない人はいません。しかし、倒れても必ず起きあがる。神様に起きあがらせていただくことができる。信仰者の人生というのは、倒れない人生ではなく、倒れても大丈夫な人生なのです。日本にも「七転び八起き」という諺がありますけれど、実は聖書にも同じ言葉があるのを皆さんはご存じでしょうか。『箴言』24章16節、

 神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。

 「七転び八起き」と言っても、威勢のいい掛け声ばかりでは起きあがれないほど疲れ果て、弱り果ててしまうことがあるのが、私たちの人生です。しかし、聖書は「神に従え、そうすれば七度倒れても、また起きあがることができる」と言います。掛け声だけではないのです。「神に従え、そうすれば」と、私たちが倒れても大丈夫な力、知恵の源がどこにあるのかということを示してくれるのです。神に従うこと、それが力です。知恵です。しっかりとした人間になるためには、神様を味方につければいいのです。使徒パウロも言っています。

 もし神がわたしたちの味方であるならば、誰が私たちに敵しえようか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。これらすべてのことにおいて、わたしたちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(参考『ローマの信徒への手紙』8章31-39節)

 神に従って、神様が味方になって下さるような生き方をすれば、倒れても、倒れても、必ず起きあがることができるのです。
如何に神の御心を知るか
 そこで、です。私たちはそのように生きたいのですが、そのためには神様の御心を知らなければなりません。そうでなければ、どうやって神様に従ったらいいのか分からないのです。いったい、どうしたら神様の御心を知ることができるのでしょうか。よく勉強し、考えたら、それが分かるのでしょうか。私たちはしばしば人間の気持ちについて思いめぐらす時があります。怒っているのだろうか? 悲しんでいるのだろうか? 何をして欲しいのだろうか? しかし、いくら考えても分からないのです。分かったと思っても、それは独りよがりである場合が殆どです。では、どうすればいいかと言いますと、「どう思っているの?」、「どうして欲しいの?」と、聴いてみる他ないのではないでしょうか。

 しかし、聴いても答えてくれないことがあります。病気などで話せない場合、そして話せるんだけど返事をしてくれない場合です。そんな時、わたしたちはその人の気持ちを知ることができません。できませんが、愛をもって推し量ることができます。たとえば赤ん坊というのは、泣くことがしかできません。しかし、母親はその泣き声を聴いて、お腹が空いているんだなとか、おしめが気持ち悪いんだなとか、具合が悪いんだなとか、赤ちゃんの気持ちが分かるんですね。完全ではないかもしれませんが、他の人たちに比べたらずっとよく分かるのです。

 神様の御心を知るという場合に必要なことも、同じなのです。一つは神様の言葉を聞くことです。前回、私たちは「神、我らに語り給へり」ということを学びました。神様がわたしたちに語りかけてくださっている。人生に躓いてよろめいたり、転んだりしながら生きている私たちに、《わたしはここにいる、ここいる》(『イザヤ書』65章1節)と呼びかけ、語りかけてくださっているのです。その声を聴くということ、そしてその言葉を信じ、依り頼み、従うこと、そうすれば、七転び八起きの人生、つまり倒れても大丈夫な生き方をすることができると、聖書は語っているのです。

 しかし、神様の声というのは、誰でも簡単に聞けるわけではないというのも事実です。聖書を読んだり、教会でお話しを聞くということは、多くの人ができるでしょう。でも、それで神の声を聴いたことになるのかというと、違うのです。同じように聖書を読み、教会でお話しを聴いている人でも、そこで神様の声を聴いている人と、全然聴いていない人がいます。その違いは何かといいますと、神様への愛ではないでしょうか。神様を赤ちゃんに喩えるのははなはだ畏れ多いことだと思いますが、泣いている赤ちゃんの声を「うるさい」と思う人もいる。泣き声の意味が分からなければ、ただうるさいだけなのです。しかし、赤ちゃんを愛している人は、泣き声の中に赤ちゃんの声を聴こうとするんですね。そして、赤ちゃんの全生活を見ているお母さんは、同じような泣き声でも、ちゃんと赤ちゃんの声を聞き分けることができるのです。

 ですから、愛をもって神様の声に耳を傾ける・・・特に「愛」の部分が大事になってくるわけです。それがなければ、神の声も、天使の声も、喧しい銅鑼の音にしか聞こえないと、使徒パウロが語っているところもあります(『コリントの信徒への手紙1』13章1節)。先週、神様はいろいろな方法で私たちに語られているということについてもお話ししましたが、神様がどんな形で語っておられるにしても、神様を愛さない人にはそれは聞こえないのです。耳にはしていも、伝わらないのです。しかし、神様を愛する人には、どんなに細くて小さな声であろうとも、それを聞き分けることができます。そして、神様の御心を知り、それを信じ、依り頼み、従うことによって、七度転んだとしても、神様の御言葉によって力づけられ、導かれて、また起きあがることができる生き方ができるようになるのです。『イザヤ書』40章30-31節には、このようにも言われています。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 若者であろうが、勇士であろうが、倒れ崩れる時が有り得る、とあります。それは神に望みを置く信仰者も同じです。しかし、神の言葉を聞き、それ望みをおいた生き方をしているならば、どんなに倒れても新しい力を与えられるというのです。
最後の一手
 倒れても、倒れても、起きあがることができる。これが私たちに与えられている神の救いだと言ってもいいでしょう。けれども、神の救いというのはこんなものでは終わらないのです。2節にこう書いてありました。

 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。

 《この終わりの時代》とあります。この書物が書かれてからもう二千年が経っています。人間の歴史から見れば、当時と今は、まったく違う時代だと言ってもいいでありましょう。しかし、聖書が言っているのは、そういうことではありません。神様の救いに関する話なのです。人間にとっての究極の救いが表された、今はそういう時なんだということなのです。先週、神様はいろいろな方法をお持ちであるということをお話ししました。けれども、神様は私たちの救いのために、最後の一手、究極の一手をすでに打ってくださったわけです。それが「御子によりて、我らに語り給へり」ということです。

 倒れても、倒れても、私たちは、私たちを愛してくださる神様の声を聞き、励まされ、慰められ、起きあがることができる。素晴らしい神の助け、救いです。しかし、それでは間に合わないことが起こります。励まされたり、慰められたりするだけでは、起きあがれない時が来るのです。それが人生の終わり、「死」です。イエス様は、この「死」から、私たちを起きあがらせてくださるお方なのです。
神なき望みなき者に語られる神の言
 「千の風になって」という歌が流行し、たくさんの人に愛され、色々なところで歌われるようになりました。生涯の伴侶である妻か、夫との死を歌ったもので、死んだあなたは、お墓の中に眠っているのではなく、つまり別世界に言ってしまったのではなく、かけめぐる風となって、ふりそそぐ光となって、朝は小鳥となって、夜は星となって、この世界で私と共に生きていてくれるんだという歌です。この歌で、愛する人を失った悲しみが癒されたという人も少なくないようです。皆さんの中にもこの歌が好きだという人がおられるかもしれません。

 しかし、メロディーも美しく、心を癒される調べであることは間違いないのですが、ここに歌われている死生観を聖書に照らし合わせてみると、ちょっとうなずけないことがあるのです。死んだら風になる、小鳥になる・・・それはファンタジーの世界だと割り切って、目くじらを立てるつもりはありません。しかし、この歌に限りませんが、こういうファンタジーの世界には罪の問題がまったく扱われないんですね。それでは「死」を乗り越えていくことはできないのです。

 聖書では、死の問題は、罪の問題です。罪を犯したから、その罰として死ぬのではありません。罪こそが死そのものなのです。罪は、私たちと神様のとの交わりを壊します。罪は、真理を見えなくします。罪は、神の祝福を奪います。それゆえ罪は、私たちを神なく望みない人間にします。そして不安と恐れに満ちた者にします。神様は、私たちを愛し、御自分の祝福と守りの中に置き、平和と喜びに満ちた生活をさせようとされました。そのように生きることが、私たち人間の本来の命なのです。しかし、罪によって、私たちはそれら一切のものを失うのです。それが死です。それは本当に恐ろしいことなのです。

 さらに恐ろしいことには、罪は、私たちの霊的な感覚をマヒさせて、そのような恐ろしさをまったく感じさせない人間にしてしまうのです。病気なのに痛みを感じない。危険なのに、その危うさを認識できない。そうしたら、どうなりますか? 痛みもなく、恐れもなく、楽しく過ごせるかもしれません。しかし、それは自分の命がどういう状態であるかを知らないだけの話です。罪も同じなのです。罪の自覚がなければ、死なんて怖くないというかもしれません。けれども、やがて神様の御前で自分の裁きが行われるときに、自分が失った祝福の大きさに気づいて青ざめても、もう遅いのです。

 私は十九歳で牧師になることを神の召命として受け止め、神学校に入学をいたしました。しかし、その頃の私は神様に熱心ではありましたが、たいへん傲慢なところがありまして、教会や牧師を平気で批判したりしていました。批判する人というのは、たいてい自分の罪は見ないで、他人の罪ばかりを見ていることが多いのです。私もそうでした。今思えば恥ずかしい限りですが、自分の罪深さということがよく分かっていなかったのです。そんな自分が一転して、自分の罪を恐れ、自分の救いに疑問を持ち、悩み苦しむようになってしまいました。そのきっかけとなったのが、この『ヘブライ人への手紙』でありまして、12章16-17節の御言葉が私の罪深さをえぐり出したのです。

 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 これは『創世記』にあるお話しなのですが、狩りから帰ってきたエサウは、双子の弟であるヤコブが煮物を作っているのを見るのです。腹ぺこだったエサウは、「それを食べさせて欲しい、俺は疲れきっているんだ」と、ヤコブに頼みます。ヤコブは双子として一緒に生まれてきたにもかかわらず、自分ではなくエサウに長子の特権が与えられていることが面白くなかった。それでヤコブは、「長子の特権を私に譲ると約束してくれたら、差しあげましょう」と取引をします。エサウは「ああ、長子の特権なんてお前にくれてやる。とにかく俺はもう腹が減って死にそうなんだ」と言ってしまうわけです。それでヤコブはエサウにレンズ豆の煮物を渡しました。エサウはそれを食べてたいそう満足するのですが、あとで死ぬほど後悔します。そのことを持ち出して、あなたがたはエサウのようにならないようにしなさいと、『ヘブライ人への手紙』は《エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶された》、《涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかった》と警告しているのです。

 これを読んで、私は本当に怖くなってしまったわけです。考えてみますと、罪というのは、ほんとうにこのエサウの話のように一杯の食物に負けて、自分は神の子としての祝福を失うことなのです。そのことに気づいたとき、自分はエサウのように泣いても、叫んでも、失ったものを取り返すことができない愚かで、惨めな人間に思えてきてしまったわけです。自分にはまったく救いがないように感じました。ところが、そういうことに気づくということ自体が、イエス様の恵みであり救いだったんですね。気づかなければ、悔い改めの涙すら流せないのです。そして、自分の命を希うということすらもないわけです。しかし、わたしはようやく自分の命がどんな危険な状態であるか、危険というよりも絶望的だったわけですが、そのことに気づかせてもらったのです。私もエサウのように涙を流して悔い改め、赦しを求め、憐れみを求めました。聖書には、《エサウは・・・事態を変えてもうらうことができなかった》と書いてあります。しかし、エサウはイエス様を知らなかった。イエス様は、このような神なき望みなき者、罪に死んだ者をも、再び起きあがらせてくださるお方として、私たち罪人に出会ってくださる御方なのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを冒頭で告げていたのでした。《神は御子によって、私たちに語られました》と。言い換えれば、イエス様に聞けということです。イエス様がヨルダン川で洗礼をお受けになったとき、また山上で栄光に包まれたとき、天から神の声が聞こえました。《これはわたしの愛する子、これに聞け》という神の声です。神様は、イエス様によって御自分の表してくださったのです。

 先週、神様が語りかけてくださるということ自体が、私たちにとっては救いであるというお話しをしました。そして、神様は実にいろいろな方法で私たちに語りかけてくださっているのだということもお話ししました。その声を聞くことによって、私たちは倒れても、倒れても、起きあがらせていただけるのです。しかし、何度起きあがろうとも、私たちは最後の最後で、どうしても立ち上がれない挫折を経験します。それが罪なのです。なぜなら、罪というのは、私たちを神なき望みなき者にしてしまうからです。私たちを神から見捨てられた者とし、あらゆる祝福を私たちから奪ってしまうものだからです。だから、罪は死なのです。

 神様はそのような者に、なお語りかけ給う。それが、「神、御子によりて、我らに語り給へり」ということです。罪の捕らわれ、あらゆる祝福を奪われ、泣いても喚いてもどうすることもできない私たちの魂に、あるいは私たちのこの世界に、神様はなお語りかけようとして、御子をお送り下さったのでした。そして、《これに聞け》と私たちにおっしゃってくださったのです。

 神様はイエス様によって何を語りかけてくださったのか。それが、この『ヘブライ人への手紙』のテーマでありますけれども、一言で言えば、私たちの罪を赦し、私たちに再び神の子として祝福をあたえてくださるということです。エサウが涙を流して懇願しても聞けなかったその言葉を、私たちは御子によって聞くことができるのです。感謝をいたしましょう。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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