ヘブライ人への手紙 05
「御子は天使に勝る者」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙1章4-14節
旧約聖書 詩編2篇
イエス様を知ること
 キリスト教の真髄は何でしょうか。私は幼き日より教会に通い、神様の教えを聞きながら育ってきました。しかし、それで自分が立派な人間になったかといえば、少しもそんなことはありません。胸を張って言うことではありませんが、道徳においても、愛の業においても、生きる知恵や能力においても、私は世間並以下の人間だと言うことができます。悩んだり、苦しんだり、絶望したり、八つ当たりをしたり、虚偽で身を包んだり、本当に傲慢で、自分勝手な人生を生きて参りました。それでお前はクリスチャンなのか? そのうえ牧師までしているのか? と言われるような人間なのです。

 しかし、逆にいいますとキリスト教だからこそ、私のような人間がそこに身を置いて生きていくことができたといえます。キリスト教の一番根底にあるのは神の救いです。しかも、その神の救いには病気の癒しとか、心の癒しとか、貧しき人々の救いであるとか、国家の平和とか、いろいろあるかと思いますが、一番大切なこととして伝えられる救いとは、罪人の救い、罪の赦しなのです。この罪の赦しの福音がなければ、キリスト教がどんな素晴らしい神の愛や、御業や、人間の希望や、信仰を説いていようとも、私はキリスト教の中に身を置き続けることはできませんでした。確かにキリスト教は素晴らしいとは思ったでしょう。だけど、この罪深き人間には、何一つ受け取る資格がないのだと、絶望して教会を去っていたに違いありません。

 実際、私にはそんな風に自分の罪に思い悩んで、教会を去ろうとしたときがありました。真っ暗な絶望感の中で、悶々としながら自分の救いを求めていました。そんな時、祈っておりますと、一つの幻を見たのです。この幻を言葉で正確に描くのは難しいのですが、私は長い、長い階段を上っていました。天国の上るための階段です。私は相当に疲れ果てて、一段上ってもすぐに数段落ちてしまう、そんなことを繰り返しながら、必死に階段を上ろうとしていました。

 その階段には、他にも上っている人がいました。私は階段に四苦八苦しながらも、自分より下にいる人を見ると誇らしい気持ちになり、自分より上にいる人をみると焦り、惨めな気持ちになっていました。ですから、下の方ばかりを見てしまうのです。あいつはまだあんな所にいる、まだ俺の方が上だなんてことを感じながら自己満足に浸るわけです。しかし、そんなことをしているうちに、どんどん追い抜かれてしまい、気がついてみると、自分は階段の一番下まで転げ落ちており、とうとうビリっけつになってしまったのでした。

 これは言ってみれば、一生懸命に神様に喜ばれる人間になって神様の恵みに与りたいとおもってきたのに、自分にはまったくその資格がないんじゃないかと、罪に悩み、悶々と祈っている時の、自分自身の心理状態だったんですね。私は、まさしく天国に続く階段のどん底で、世界中に自分より罪深い人間はいない、自分はもっと惨めな人間だと嘆いているような状態だったのです。

 階段のどん底は、命ひとつない荒涼とした荒れ野で、真っ暗でありました。しかし、私はそこで、イエス様が十字架にかかっている姿が見たのです。二人の強盗が一緒に十字架にかかっているのも見えました。その一人が自分のように思えました。そして、まったく理屈抜きで、「ああ、わたしは今、天国に一番近いところにいるんだ」という感激が全身に伝わってきました。すると今度は、空に天国の門が見えました。そこにイエス様が立っておられ、私に向かってあたかも「さあ、いらっしゃい」と招くように両手を差し出していてくださったのです。

 何ヶ月かしまして、私は教会の牧師から会報に載せるから、好きな御言葉と、短い文章を書いてくれと頼まれました。その時の文章を私はもうすでに持っておりませんけれども、よく覚えております。私が選んだのは『マタイによる福音書』27章38節でありました。

 イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。

 私は、コメントの中に「イエス様の罪深さの中に、自分の救いを見ている」と書きました。すると牧師がその原稿を見まして、「国府田君、これでは困る。これじゃあ、まるでイエス様が罪人みたいじゃないか。書き換えてくれ」と言いました。私がそれを断ったのですが、実際にできあがったものをみますと、もう忘れましたが、うまいこと書き換えられていまして、残念な思いをしたのを思い出します。確かに、「イエス様の罪深さ」という言い方は、誤解されやすい言葉だと思います。でも、イエス様はただ罪人と一緒にいてくださっただけではない。誰よりも罪深い正真正銘の罪人となって、あの階段のどん底にいてくださった。そして罪に悩み苦しむ私に、「わたしもこんなに大きな罪を負っているんだよ」と語りかけいてくださる・・・そう思えたから、私はそこで「ああ、この罪深き者の十字架にイエス様がいっしょにかかっておられるんだ」と分かったんですね。その瞬間、イエス様の祝福が自分の中に満ちてくるのを感じたのです。ですから「イエス様の罪深さ」という言葉はどうしても譲れなかったのですが、まあちょっと残念でした。確かに表現としては足りないものがありますから、仕方ありません。

 これは今から二十数年の前の話です。しかし、今も私の心に鮮明にある話です。その後、少しは成長してきたのかと期待されたら、それは違います。むしろ益々、この十字架にすがるばかりの罪深い人間であるということを、この二十数年間で自覚させられてきました。ちょっと傲慢になって、人を見下して、その罪を裁いたりしますと、たちまち階段のどん底に突き落とされる。そして、イエス様の十字架こそ、私の唯一の救いなんだと思い知らされるのです。キリスト教の救いは、罪の救いです。この罪の救いがあるから、こんなにどうしようもない人間でありながら、教会の中に身をおき続けられるのです。そして、それを語ることができるからこそ、私は牧師をさせていただいております。

 ところで、この神の救い、つまり罪の赦しは、ほかのどこにあるのでもなく、ただイエス様にあるというのが、キリスト教であります。ペトロは、イエス様についてこう証ししています。

 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(『使徒言行録』4章12節)

 これがキリスト教の真髄なのです。十字架とか、復活とか、そういうことが分からないならそれでもいい。しかし、キリスト教の救いは、イエス・キリストの教えや御業を云々することにあるのではなく、イエス・キリストを知るということにあるのです。イエス・キリストを知るということが、私たちの信仰生活で一番大事なことであり、私たちの罪深さ、弱さ、貧しさ、いたらなさ、愚かさ、絶望、そういう多くのものとの闘いに勝って、天国に行く唯一の道なのです。

 イエス様は祈りの中でこう言われました。

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(『ヨハネによる福音書』17章3節)

 御自分で「イエス・キリストを知ることです」という言い方に、ちょっと違和感を覚えますが、「イエス・キリスト」という言葉が大事なのです。キリストとは、イエス様の名前ではありません。「救い主」という意味の称号です。ですから、イエス・キリストとは、救い主としてのイエス様という意味なのです。イエス様を知ると言っても、いろいろな知り方がありましょう。何でもいいというわけではないのです。イエス様をわたしの救い主として知ること、それがイエス・キリストを知るということです。それが私たちの永遠の命だというのです。

 そのことを知るパウロは、こう言いました。

 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

 パウロというのは、この世的、人間的にも極めて優れたものをもった人でした。ローマの市民権をもっていたし、ユダヤ人として将来を嘱望されるファリサイ派の学者でありました。熱心さ、意志の固さ、生真面目さにおいても、非の打ち所のない人間として生きてきました。ところが、そんなパウロですら、イエス・キリストを知ることの素晴らしさに比べたら、そんなのものは塵芥に過ぎないと告白するのです。

 ここにキリスト教があります。イエス様を救い主、つまりキリストとして知るということ、そのことがこの世界においても、私たちの人生においても、私たちの愛する人々にとっても、何にも代え難い絶大なる価値をもっているということ、そこに私たちの罪のゆるしがあり、再生の恵みがあり、永遠の命があり、神のあらゆる祝福に与る望みがあるのです。

 さて、今朝お読みしました『ヘブライ人への手紙』は、まさしくそういうキリスト教の真髄をもって、冒頭よりイエス・キリストの栄光を知れ、それこそ私たちの救いだと私たちの語り始めているのです。これまで1-3節を丁寧に読んで参りました。これは『ヘブライ人への手紙』の序論だと言ってもいいでありましょう。「神、御子によって我らに語り給へり」、これがその中で一番大事なことです。イエス・キリストを知るためには、この地上で救いを成し遂げて、今神様の右におられるイエス・キリストに聞けということです。
御子は天使に勝る者
 そして、『ヘブライ人への手紙』は、本論に入るのですが、最初に語られているのは、御子は天使に勝る者であるということであります。このあと、御子はモーセに勝る、御子はヨシュアに勝る、御子はアロンに勝る、御子はアブラハムに勝る、そして、それゆえに御子なるイエス・キリストこそ、私たちの唯一の救い主であり、先ほども引用しましたペトロの言葉を借りれば「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」ということを、私たちに伝えているのですが、まずは天使であります。

 さて、4節にこう記されています。

 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。

 《優れた》と言う言葉が二回使われています。しかし、ギリシャ語では違う言葉が使われていまして、最初の《優れた》という言葉は、「力がある」という意味です。御子は天使たちより遙かに勝る力をもっておられるということです。そして、後の方の《優れた》という言葉は、「異なる」という意味です。名前の質が違う、位が違う、次元が違う、イエス様と天使とはそれほど違うのだということなのです。

 ある意味で私たちには、イエス様と天使が違うなんていうことは分かり切ったことなのかもしれません。まったくの初心者ならばいざ知らず、イエス様と天使を同じような存在であると信じ続けておられる方は、教会にはおられないのではないかと思います。ただ、当時は事情が違ったのでありましょう。ユダヤ人にとって、神様という方は本当に聖なるお方でありまして、私たち俗人が決して近づくことのゆるされないお方でありました。神様を見たら死ぬとまで言われていたのであります。ですから、天使が重要だったのです。神様のお側で仕えている天使が、神様の代わりに人間のところに来てくださる。時にはメッセンジャーとして、時には神の軍隊として、神様の御心や御業を顕してくれる。それが天使であります。

 しかし、『ヘブライ人への手紙』は、イエス様は天使ではないと言うわけです。天使以上のお方であるというのです。それがどういう意味をもっているのか? 神様は天使を介さず、もっと直接的に、もっと近く、私たちに御自身を顕してくださるということなのです。

 人間に現れた天使はまず「恐れるな」と語りかけ、それから神様の御言葉を伝えます。ザカリアに現れた天使も、マリアに現れた天使も、羊飼いたちに現れた天使も、復活の御墓に現れた天使も、みな「恐れるな」と言いました。天使ですら、見た者は神のご臨在を感じ、言いしれぬ不安と恐れを抱きます。しかし、イエス様というお方は、天使以上に神様の栄光に満ちており、神様と等しき神の御子なのです。

  いったい神は、かつて天使のだれに、
  「あなたはわたしの子、
  わたしは今日、あなたを産んだ」
  と言われ、更にまた、
  「わたしは彼の父となり、
  彼はわたしの子となる」
  と言われたでしょうか。(5節)


 イエス様は神の御子であり、被造物に過ぎない御使いとは比べものにならない御方であるということであります。さらに、こう言われています。

  更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、
  「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
  と言われました。(6節)


 神様は、御子なるイエス様をこの世にお遣わしになるとき、天使たちに「御子を礼拝せよ」とお命じになったと言われています。御使いは礼拝者であり、御子は礼拝の対象である神様なのです。

  また、天使たちに関しては、
  「神は、その天使たちを風とし、
  御自分に仕える者たちを燃える炎とする」
  と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。
  「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、
  また、公正の笏が御国の笏である。」(7-8節)


 天使は神様の側にいますが、使者に過ぎません。つまり、神への奉仕者なのです。しかし、御子は神様のそばで王座についておられます。このようにイエス様と天使とではまったく地位が違うのです。

  あなたは義を愛し、不法を憎んだ。
  それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、
  あなたの仲間に注ぐよりも多く、
  あなたに注いだ。(9節)

 イエス様は油注がれた者です。「油を注ぐ」と言う言葉は、ギリシャ語で「クリオー」といいますが、この言葉からクリストス、つまりキリストという名詞ができました。キリストとは油注がれた者という意味です。旧約聖書では神様に選ばれた王様や預言者、祭司が油注がれ、聖別されました。しかし、イエス様は他の誰よりも多くの油を注がれたと言います。質だけではなく量においても、イエス様は他のものたちに優る御方なのです。

  また、こうも言われています。
  「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。
  もろもろの天は、あなたの手の業である。
  これらのものは、やがて滅びる。
  だが、あなたはいつまでも生きている。
  すべてのものは、衣のように古び廃れる。
  あなたが外套のように巻くと、
  これらのものは、衣のように変わってしまう。
  しかし、あなたは変わることなく、
  あなたの年は尽きることがない。」(10-12節)


 ここでは、御子は《主》であり、万物の造り主であると言われています。それゆえに永遠に生きる御方であり、永遠に変わることのない御方であるとも言われています。被造物である天使とは比較にならない御方なのです。

  神は、かつて天使のだれに向かって、
  「わたしがあなたの敵を
   あなたの足台とするまで、
   わたしの右に座っていなさい」
  と言われたことがあるでしょうか。(13節)


 イエス様はすべてのことに勝利される御方です。神様はこのようなことを天使に言われたことはなかったと言います。

 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。(14節)

 天使というのは人を救いません。神様が救い給う人々い奉仕するのです。しかし、イエス様は救い主です。私たちのために救いの御業を成し遂げてくださった方です。

 天使に勝るイエス・キリスト、御子なるイエス・キリスト、永遠の王たるイエス・キリスト、私たちの主、万物の創造者にして支配者、永遠なるお方、そのようなお方が、私たちに使わされ、私たちの神様の愛と救いをお与え下さったのです。どうぞ、このイエス・キリストを知ることの喜びに溢れる者になたいと願います。そして、このイエス・キリストの他に救い主はいないということを、大胆に証しする者になりたいと願うのです。

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