ヘブライ人への手紙 07
「卑しくせられしイエスの栄光と尊貴」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙2章5-9節
旧約聖書 列王記上19章1-18節
良い耳をもつこと
 昆虫学者として有名なファーブルが、お弟子さんたちと一緒に、馬車の行き交う目抜き通りを歩いていました。するとファーブルは「今、コオロギが鳴いた」と言って、立ち止まり、コオロギを探し始めたそうです。しかし、お弟子さんたちにコオロギの鳴き声は聞こえませんでした。そもそもこんな賑やかなところで、コオロギが鳴いたとして、それが耳にとまるかどうか不思議だったのです。「先生、私たちには何も聞こえませんでした」とお弟子さんたちが言うと、ファーブルはやおらポケットからコインを取り出し、それを道端に落としました。チャリンと小さな音を立ててコインが道端に転がると、道行く人々が皆、音のする方を振り向きました。ファーブルはコインを拾い上げながら、「心に関心のあることは、どんな小さな音でも聞き逃さないのだ」と、弟子たちに語ったというのです。

 これが実話なのか、それとも後代の人によって作り上げられたファーブル伝説なのか、その辺は定かではありません。けれども、コオロギの音は聞き逃しても、コインの音は聞き逃さないという人間の心理はよく分かる気がするのです。

 私たちは、先週の礼拝で「我ら聞きし所を篤く慎むべし」という説教を聞きました。聖書で申しますと『ヘブライ人への手紙』2章1-5節をお読みしまして、特に1節に書かれていることを大切なこととして学んだのであります。

 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。

 神様は、日々、私たちにいろいろな形で、いろいろな方法で語りかけてくださっています。特に、神様はイエス・キリストを通して、《大いなる救い》(3節)を語りかけてくださった。その神様の語りかけをしっかりと聞き、心に受け止めつつ生きること、それが信仰生活だというお話しをしたのです。そうしますと、私たちに大切なことは、神様からの音ずれを、どんな小さなことでも聞き逃さない良い耳をもつということだと思うのです。良い耳というのは、ファーブルの話でも分かりますように、私たちの心の関心がどこに向かっているかということによって作られます。私たちの心が、いつも神様のことを考え、求めているならば、どんな小さな神様の語りかけをも聞き逃さない良い耳を持つことができるでありましょう。しかし、私たちの心が世の富、誉れ、力に関心を持ち、常にそれを追い求めているならば、いくら神様が語りかけてくださっても、それは自分の思いやこの世の喧噪にかき消されてしまって、何一つ聞くことができない耳になってしまうのです。神様からの音ずれを聞くことができる良い耳を持つこと、それが大事なのです。
苦難が良い耳を作る
 しかし、私たちはこの世に生きているのですから、この世のことに関心をもって生きるのは当然のことであります。そんな私たちがこの世のことから神様のことに目を向け、神様の声に関心を持つことがあるとしたら、それはどんな時でありましょうか。それは、この世に失望した時です。

 私が高校生の時から大切にしている本があります。キャサリン・マーシャルという人の『愛はいずこに』という、言ってみれば信仰生活の秘訣について書かれた本なのですが、残念ながら今は手に入れることができません。私がこの本によって学んだ最大のことは、信仰とは私たちの持つべき思想とか、哲学とか、信念とか、そういうものではなく、私たちの実際的な生活を救い、そこに神様の祝福をもたらすものであるということであります。信仰は絵に描いた餅ではないのです。絵に描いた餅はどんなに素晴らしい芸術作品であっても、私たちの飢えた腹を満たしてくれません。信仰とは、実際に食べて味わい、私たちを満腹させるものなのです。

 そういう信仰を持つためには、信仰を頭で学んでいるだけでは駄目です。若いうちは本をたくさん読んだりしますと、いろいろ知識が増えて、口もうまくなって、難しいことを言ったり出来るようになりますと、なんだか自分が偉い者になったかのように錯覚してしまうことがありますけれども、本当の信仰ではないのです。フランスの哲学者にして、科学者であるパスカルは、1654年11月23日から24日の夜半にかけて、生ける神様の現実に直面させられるという経験をいたしました。そして、人生が一変したその記念すべき夜以来、パスカルは衣服の内側に、つまり表地と裏地の間に、小さなメモを縫い込んで死ぬまで肌身離さずにいました。そのメモには、彼が真に経験した神との邂逅について短く、こう記されています。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。
 哲学者および識者の神ならず。

 アブラハムの人生、イサクの人生、ヤコブの人生に、生ける神として具体的に関わり、その人生を導き、支え、守ってくださった神、それが本当の神様だということです。本当の信仰というのは、この世界に、私たちの人生に、生き生きとした力をもって関わってくださっている神様と出会うことによって与えられるのです。『ヘブライ人への手紙』の言葉でいえば、「神、御子によって我らに語り給へり」と言われている神様の語りかけを、私たちの人生において真に聞くということによって与えられるわけです。

 キャサリン・マーシャルの本は、私たちの生の現実の中で、いかに神の声を聞くか、神の導きを知るか、そしてそれに従うにしたらどうしたらいいのか、それに従ったときにどんなに素晴らしい神さまの祝福を人生の中で味わうことができるのかということを、極めて具体的な例をあげながら書いてあるわけです。そして、その本の最初には、こういふうに書かれています。

 あなたが自分の生活に満足していて、自分以外の助けを必要と思っていないならば、あなたはこの本に用がないであろう。神の探求は、必要を感じるところから始まるのである。
 私たちが神の必要を感じるのは、解決できない問題を持っているか、あるいは人生にもっと何かを求めているか、もっと何かを注ぎ込まなければならないと、こころが焦っている時である。そんなとき、自分はただ生活の表面の動きの中にいるだけではないか、との自覚が起こってくる。たしかに私たちは、半分眠っているのである。本来の姿を生き切っていないのだ! 私たちは「もっと何かを」と切に求めている。


 ここに書かれていますように、神様に感心を持つためには、神様が必要だと思わなければなりません。これは、たいへん自己中心的な物言いですが、最初はそういうものなのです。「神様はあなたを愛している」、「あなたの罪を救うために、イエス様が十字架にかかってくださった」と言われても、自分の生活に満足している人にとっては、何の心に訴えるものがないのです。しかし、人間の生活というのは、必ず自分の力ではどうすることもできない時がきます。普通は、そういう時を歓迎するということはないのですが、しかし、キャサリン・マーシャルはそういう時こそ、神様の語りかけを聞き、神様との生ける出会いを果たし、人生を一変させるチャンスだと言っているわけです。

 実際、私たちもそうだったのではありませんでしょうか。信仰を持った人というのは必ず苦難や、挫折や、絶望というものを経験しているのです。そういうことを通して、この世のことから神様に目を向けるようになり、その声を求め、その声を聞くことを求めるようになったのです。
小さき神の声
 今日は旧約聖書からエリヤのお話しをお読みしました。エリヤは、イスラエルの民に神の偉大なることを示し、人々を神様のもとに立ち帰らせた偉大な預言者であります。しかし、そのエリヤが、アハブ王の后であるイゼベルに命を狙われると、たちまち絶望して、これまでの力強きエリヤからまったく想像できないような弱々しい姿で、荒れ野に逃げ出してしまうのです。神様に「もう私はこんな仕事に耐えられません。もう私の命をとってもいいですから、終わりにしてください」というような祈りまでします。しかし、そんなエリヤにも、神様は天使をお送り下さいまして、彼を励ましてくださいましたので、エリヤは四十日四十夜歩いて、その昔、モーセが神と出会った場所であるホレブ山にたどりつきました。

 エリヤはそこで適当な洞穴を見つけて身を潜めているのですが、その時、「お前はここで何をしているのか。表に出てわたしの前に立ちなさい」という神様の声があります。言われるままにエリヤが表に出ますと、そこでエリヤは主との新たな出会いを果たすのですが、その様子がたいへん印象的なのです。『列王記上』19章11-12節を、もう一度読んでみたいと思います。

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

 山を裂き、岩をも砕くような激しい風の中にも主はおられなかった。大地を揺るがす地震の中にも主はおられなかった。何かも焼き尽くすような激しい火の中にも主はおられなかった。このように書かれています。そして、これらのことの後、静けさの中で、ささやくような小さき神の声がエリヤに聞こえたというのです。これはいったい何を意味するのでしょうか。私たちは力を求めます。地位の力、お金の力、さまざまな才能、技術の力、体力・・・そういう世の力を持てば、私たちの人生を勝利に導くことができるのだと思い込んでいます。ですから、自然、私たちが神様に求めているもの、期待しているものも、神様がそういう力をもって、私たちの人生の問題を粉々に打ち砕いてくれることなのであります。しかし、神様は別のところにいらっしゃることもある。弱さの中に、静けさの中に、小ささの中に、神様がいらっしゃることがあるのです。エリヤは、自分の力が弱められた時、そのような神様に出会ったのでした。

 パウロも似たような経験をしております。パウロは多くの艱難辛苦を嘗め尽くしながら、世界中を伝道旅行して、キリスト教を宣べ伝えた人です。新約聖書の半分は、パウロの手紙であることからしてみても、その働きの大きさが分かります。しかし、パウロは激しい痛みの伴う病を持病としてもっていたようなのです。パウロはこの病気さえ癒されれば、もっともっとイエス様のために働くことができるのにと、何度も悔しい思いをしたに違いありません。それで、パウロはこの病の癒しを必死に祈り続けるのです。ところが、その祈りは聞かれませんでした。その代わり、《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ》(『コリントの信徒への手紙2』12章9節)という主の声が返ってきたのです。それを聞いて、パウロの目は開けます。そして、こう言うのです。

 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(『コリントの信徒への手紙2』12章9-10節)

 これもまた、強さの中にではなく弱さの中に、神様がいらっしゃるのだという、エリヤの体験と相通じる体験なのです。私たちが力を失うとき、弱められるとき、挫折し、敗北し、罪を犯し、病めるとき、私たちは神様に出会うチャンスなのです。神様はそのような中にいて、私たちに語りかけてくださっているのです。
低きに下る神
 さて、『ヘブライ人への手紙』を見て参りましょう。今日お読みしましたところは、ちょっとわかりにくいところだと思います。特に5-8節が、読んだだけではなかなかわかりにくいのです。まず5節を見てみましょう。

 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。

 《来るべき世界》とは、神様が約束してくださって、私たちが切に待ち望んでいる世界であります。聖書は色々な表現でそれを語っています。約束の地、天国、神の国、天の故郷、新しい天と地・・・要するに神様の義と愛と、私たちに対する祝福に満ちた平和の世界です。それを、神様は、《天使たちに従わせるようなことはなさらなかった》と言われています。《来るべき世界》、つまり私たちの救いと言ってもよいと思いますが、それを私たちにもたらしてくれるのは、天使たちではないのです。

 さらに申しますと、前回、《天使たちを通して語られた言葉》(2節)という話をしました。それは律法のことであると説明しました。ユダヤ人たちは、律法というのは天使たちを通して与えられたと信じていたのです。パウロも、そういうことを言っています。そうすると、《来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかった》とは、来るべき世界は、律法を守ることによっては得ることができないという意味でもあります。なぜなら、私たち人間は、律法を守りきることができないからです。どんなに努力しても、熱心であっても、それだけで神様の御心を満足させることができる人間にはなれないのです。

 では、《来るべき世界》は来ないのかというと、そうは書いてありません。神様はそれをイエス様に委ねられたのだと言うのです。《来るべき世界》、つまり救いは、天使ではなくイエス様から来るのです。このことは、『ヘブライ人への手紙』を読み始めてから、これまで何度もお話ししてきたことです。「神、御子によって我らに語り給へり」、「御子は万物を所有す」、「御子は罪の浄めを遂げ給ふ」、「御子は天使に勝れる者なり」・・・これまでお話ししてきた説教題を振り返りましても分かりますように、イエス様はすべてに勝る神様の御子であり、そのお方こそが私たちの救い主となられたのだ、この方をおいて他に私たちの救いはないのだということを、『ヘブライ人への手紙』1章は語ってきたのです。

 そして、2章に入りまして、先週は「我ら聞きしところを篤く謹むべし」という説教をいたしました。偉大なる神の御子イエスこそ、神様が私たちに与えてくださった救い主なのだから、注意深く熱心にイエス様に耳を傾けることが救いの道なのだということであります。

 ところが、今日お読みしましたところで一番わかりにくいのが6-8節前半です。

 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。
 「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。
 また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
 あなたは彼を天使たちよりも、
 わずかの間、低い者とされたが、
 栄光と栄誉の冠を授け、
 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」


 鉤括弧の中は、旧約聖書『詩編』8編からの引用ですが、これは、これは微妙に『ヘブライ人への手紙』独特の解釈が加えられています。簡単にいいますと、これは本来人間一般について語られていることなのですが、本書ではこれをイエス様に対して当てはめているのです。特に7節ですね。《あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた》とあります。本来の詩編ではこういう風には書いてありません。「神に僅かに劣るものとして人を造り」と書いてあるのです。全然意味が違いますね。『詩編』では、人間というのは神様ではないけれども、神様に似せて造られた存在であるということ言われています。しかし、本書では、《彼》つまりイエス様は、万物を所有する方であり、《神の栄光の反映》、《神の本質の完全な現れ》(1章3節)、つまり神と等しき方であるのに、神様はイエス様を一時的に天使よりも低い者とされたのだというのです。

 わかりにくいと思います。大切なことだけを申しますと、イエス様は神の御子であり、天使に勝れる者であるにもかかわらず、天使よりも低き者、弱き者、貧しき者、つまり人間となられたのだということが言われているのです。人間としての低さ、弱さ、貧しさを身に負われて、私たちのところに来てくださったということなのです。その人間イエスの弱さ、貧しさがここで語られているのです。1章とは逆ですね。1章では全てに勝るイエス様の高さが語られていました。しかし、2章ではそのすべてを脱ぎ去って、人間と同じ者となり、弱さ、貧しさをもたれたイエス様の低さが語られているのです。

 「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。

 ある意味でとんでもないことが書かれています。イエス様は神様の御子であり、万物の創造者、支配者であるならば、それに従わないものは何一つないはずなのに、《しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。》と、現実はそうなっていないと語られているのです。万物の創造者だ、支配者だ、神の子だと言っても、イエス様はこの世に対して何の力もないじゃないか。それどころか、人々の手にかかって十字架につけられ、殺されてしまったのではないか・・・そういう風に言われても仕方がないような現実があると、言っているのです。

 こういう現実は、私たちも日常の生活で経験しているのではありませんでしょうか。イエス様は救い主だと教えられているのに、私の生活は苦しいことばかりじゃないか。ニュースを見ても悲惨なことばかりだし、戦争はなくならないし・・・いったいイエス様は何をしているのか? どこにその救いがあるのか? 『ヘブライ人への手紙』は、実はそのようなイエス様の弱さの中にこそ、神様の恵みが、救いがあるのだと言われるのです。9節

 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 私たちは、イエス様に強き力を求めます。「神の御力をもって病気を治してください」、「立ちはだかる問題を打ち砕いてください」、「私たちの弱さを強めてください」・・・しかし、私たちに本当に必要な救いはそういうことなのでありましょうか? 病気が治ったら、問題が解決したら、自分が強い人間になったら、私たちの人生はバラ色だと本当に言えるのでしょうか。そうではないと、聖書は語っているのです。むしろ、私たちに必要なのは、イエス様の弱さ、貧しさ、小ささなのだというのです。いと高き神の子であるイエス様が、そのような者になってくださった。私たちと同じものになってくださった。私たちの弱さを、貧しさ、小ささを分かってくださるお方になってくださった。そこに神の愛、神の恵みがあるのだというのです。

 神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 私たちは、このことの中に、「神、御子によって語り給へり」という神の声を聞かなければならないのです。岩を裂くつむじ風の中にも神はおられなかった。大地を揺るがす地震の中にも神はおられなかった。すべてを焼き尽くす火の中にも神はおられなかった。イエス様の静かさの中で、貧しさの中で、弱さの中で、神様は私たちに語りかけておられるのです。そして、そのことが10節以下にさらに詳しく語られているのですが、それについてはまた次回にお読みすることにしたいと思います。
目次

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