ヘブライ人への手紙 08
「イエスは我らの兄弟となり給ふ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙2章10-18節
旧約聖書 詩編51編1-11節
豚に真珠?
 第二次世界大戦前後に活躍したエーリッヒ・ケストナー(1899-1974)というドイツの作家がおります。『ふたりのロッテ』、『飛ぶ教室』という児童文学は日本でもよく紹介されているケストナーの作品です。彼は詩人でもあります。人間や社会、政治に対する風刺や批判を辛辣に綴った詩をずいぶんたくさん書きました。そのためナチス政権から反体制作家とみなされ、発禁処分や焚書処分にされたりもした作家です。そんな彼の一流の風刺が効いた作品の一つでありますが、イエス・キリスト、について書かれた、こんな詩があります。

 『革命戦士イエスの誕生日によせて』

 あなたが世を去ってから
 もう二千年になろうとしている。
 命をささげた小羊よ!
 あなたは貧しい者たちに神を与えた。
 あなたは金持ちの嘲りに苦しめられ
 あなたのしたことは無駄になった!
 あなたは権力と警察を見、
 すべての人を自由にしようとし、
 地の上に平和をうちたてようとした。
 あなたは不幸がどんなものかを知っていた。
 不幸を解消するため、
 すべての人に善を行おうとした。
 あなたは革命家であり、
 闇商人と学者たちのために
 苦しい生涯を送った。
 あなたは常に自由を守ったが、
 人々の役には立たなかった。
 あなたは間違った考えをした人たちのところに来た。
 あなたは彼らと勇敢に戦い、
 国家や産業界、
 不穏なやからと闘った、
 不当な裁判によってあっさり殺されるまで。
 ほかにどんな策も通用しなかったのだ。
 それは今日とまったく同じ。
 人間は賢くならない。
 最たるはキリスト教徒、
 いくら手を合わせて祈ろうとも。
 あなたは彼らをむなしく愛した。
 あなたは無駄死にした。
 そしてすべては変わらない。
 昔のままに。


 『革命戦士イエスの誕生日によせて』というタイトルから察するに、おそらくこれはクリスマスに作られた詩でありましょう。聖書には、イエス様がお生まれになった夜、ベツレヘム近郊で野宿をしている羊飼いたちに現れて、こう告げました。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(『ルカによる福音書』2章10-11節)

 しかし、ケストナーは、私たちの救い主としてお生まれになったイエス様に対して言うのです。あなたのしたことは立派ではあるけど、「無駄になった」、「人々の役には立たなかった」、「あっさり殺された」、「あなたは空しく愛した」、「無駄死にした」、なぜなら「すべては何も変わらない」じゃないかと。

 みなさんは、これを聞いてどうお思いになるでしょうか。「いや、少しは世の中が良くなっているんじゃないか」というご意見もあるかも知れません。今日、私たちが恩恵に浴している人権にしろ、福祉にしろ、教育にしろ、平和運動にしろ、その背景にキリスト教精神の影響が大いにあります。そのために命をかけて闘ったクリスチャンたちのお陰であると言ってもいいのです。しかし、それにも関わらず人権問題はなくならない、戦争はなくならない、病人や貧民の数は増える一方です。それはなぜか? ケストナーによれば答えは簡単、人間がちっとも賢くならないからだというのです。イエス様は正しかった。立派だった。だけど人間はイエス様の送ったメッセージをちっとも受け取っていない。二千年前に、イエス様の言葉に耳を傾けなかった偽善者たち、富める人たち、権力者たちと同じだ。今も人間は、イエス様を十字架にかけて殺してしまった愚かな人間からちっとも成長していない。イエス様のなさったことをことごく無駄にしてしまっているのだ、と言いたいのです。

 価値の分からない人々に、こういう無駄なことをすることを「豚に真珠」と言います。いみじくも、これはイエス様御自身の口から語られた言葉でありました。

 真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。(『マタイによる福音書』7章6節)

 しかし、ケストナーに言わせれば、イエス様こそ最も愚かな豚に真珠を投げた張本人だということなのです。こういう痛烈な皮肉を語るケストナーでありますけれども、逆に言うとそれだけ世の中の不正義に苛立ちをもっていた、貧しい人々、虐げられている人々への思いやりをもっていたのです。それに対して、間違った世の中や、苦しめる人々の現実をまったく意に介さず、「クリスマスだ、救い主のお生まれだ、おめでたい、おめでたい」と騒いでいる教会やクリスチャンたちに深い疑問を持ったに違いないのです。

 いかがでありましょうか。ケストナーは、ある意味で正鵠を得ているといえるのではないでしょうか。「少しはよくなっているんじゃなか」、そんなことを言う教会は、そしてクリスチャンたちは、むしろイエス様の御救いというものをこの程度のものだと侮っているのではないかと言ってもいいぐらいなのです。先週、お話ししたことでありますが、『ヘブライ人への手紙』2章8-9節にこう記されています。まず8節を読んでみましょう。

 「すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。

 ここにはケストナーと同じことが書かれているのです。イエス様は救い主であるのに、万物をお治めになるお方であるのに、世の中は少しもイエス様に服従していない。そういう現実しか見えてこないと、聖書そのものが語っているわけです。しかし、その後に、こう続きます。9節

 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 聖書は、イエス様の死と苦しみを、空しかった、無意味だったとは言わないのです。むしろ、そこにこそイエス様の栄光が、神の恵みがあるのだと言うわけです。
小さきキリストを愛したマリア
 裸でさらし者にされて十字架にかけられたイエス様。極悪人と並んで十字架につけられたイエス様。「他人は救ったが、自分は救えないのか」とあざけられるイエス様。苦痛に身をよじり、顔をゆがめて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てに鳴られるのですか」と叫ばれるイエス様。「わたしは渇く!」と呻かれるイエス様。

 このように痛々しく、惨めなイエス様の十字架のうちに、神の栄光が、神の恵みがあるということを信じるのは、最初、イエス様の高弟たち、すなわち十二弟子たちにすら難しいことでした。ユダは早々にイエス様を見限ってしまいましたし、ペトロは「わたしはあんな人は知らない。私とはまったく関係ない」と人々の前で叫んで保身をはかりました。ほかの弟子たちも似たり寄ったりでありました。今、私たちはこうして日曜日ごとに十字架のもとに集められていますが、イエス様が十字架にかけられたとき、弟子たちはその十字架のもとに一つになって集まるどころか、恐れと不安と絶望にかられ、散り散りになって逃げ出してしまったのです。

 しかし、私が知る限り三人の人が、この十字架のもとで、イエス様をほかの人たちとはまったく違った目で見ていました。一人は、母マリアです。もう一人は共に十字架につけられた二人の強盗のうちの一人です。三人目は、イエス様を十字架につけた時の執行責任者であったローマの百人隊長でありました。

 十字架のもとにいる母マリアについては、聖書にそれほど詳しく記されているわけではありません。しかし、間違いなく、母マリアはほかの人たちと違った目で、十字架のイエス様をみつめていたでありましょう。だれもが、イエス様を憎み、蔑み、あるは失望し、愛想をつかし、挫折感に浸っている時に、おそらく母マリアだけは、胸を指し貫かれるような痛みを覚えつつも、十字架のイエス様の正しさを信じつづけ、イエス様を愛し、全身全霊をもって共にいようとし続けたのではありませんでしょうか。なぜならば、マリアは母の愛をもってイエス様を見ていたからです。

 母の愛、それは我が子が弱い時にこそ激しく、強く駆り立てられるのです。ペトロもそうですが、ほかの人々は皆違いました。イエス様のうちに特別な力を見るからこそ、そこに惹かれ、そこに信仰をもち、御跡に従ったのです。ですから、力を失い、弱々しく痛めつけられた十字架のイエス様と共にいることができませんでした。そのようなイエス様をなおも救い主として信じることができませんでした。しかし、母マリアは、その胎内にイエス様を宿された時から、その弱さのゆえに、貧しさのゆえに、小ささのゆえに、イエス様への愛を駆り立てられていました。そして、そのようなイエス様を愛し、そのようなイエス様と共にあり、全身全霊を注ぎ込むことに喜びを感じてきたのです。
主を見出した強盗
 共に十字架につけられた強盗の一人は、他の人々と同じように「お前はメシアではないか。多くの人を救ったではないか。それなら今、自分自身と我々を救ってみろ」と、イエス様を罵りました。それに対して、もう一人の強盗は片割れにこう言います。

 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(『ルカによる福音書』23章41節)

 この二人の違いは、罪意識の違いでありましょう。もっと正確にいうならば、罪意識の深さの違いです。イエス様を罵った強盗にまったく罪の意識がなかったかということ、そんなことはないと思うのです。けれども、自分にはまだ救われる値打ちがある。自分は悪いことはしたが、それなりに理由があることであって、十字架にかけられるような極悪人ではない。そんな意識があるのだと思います。それに対してもう一人の強盗は、自分は十字架にかかって当然だと告白しています。

 いや、もっと重要なことは「お前は神をも恐れないのか」という彼の言葉です。この人は、自分の十字架を神の裁きとして受けているのです。自分は、ほかのだれでもない神に対して罪を犯し、ほかのだれでもない神によって裁かれているのだという認識をもっているわけです。神に対して罪を犯すというのはどういうことでしょうか。実際にこの人が何をしたのであれ、その犯したことは神様が御心をもって与えてくださった自分の命、人生というものに背いてしまったことなのだ、もう生きている値打ちも、価値もない。そういうところまで罪意識が深まるということであります。

 ダビデが忠実な家臣ウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯し、ウリヤを戦争の最前線に送り込み戦死させたとき、これほどの罪を犯していながらも、彼は最初、何の罪意識もなかったということが聖書に記されています。人間はだれでも自己を正当化して生きていますから、だれが見ても明らかにおかしいと思うような罪でありましても、本人にとっては正当な理由のある限り罪だと思えないのです。人に迷惑をかけたとか、悲しませたとか、傷つけたとか、多少の罪悪感があったとしても、それだけでは自分を全面的に否定し、自分は十字架で死ぬべき人間だとまで思うことはないんですね。だから、自分の罪を認識するというのはとても難しいことです。しかし、預言者ナタンが現れて、その罪を指摘しますと、ダビデは自分の罪に気づいたとき、彼は非常に苦しんで、こう祈りました。

 あなたに背いたことをわたしは知っています。
 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
 御目に悪事と見られることをしました。(『詩編』51編5-6節)


 《あなたにのみ罪を犯し》と言っています。ウリヤとかバテシャバに対して罪を犯したと言ってもいいと思うのですが、ダビデはそうではなく、私は神様に罪を犯したんだと告白するのです。これはウリヤやバテシェバに罪を犯していないということではなく、それもまた人間に対する罪ではなく、自分に命をあたえ、人生を与えてくださった神様に対する罪だということでありましょう。そこから、自分に対する神の裁きということを真剣に考えるようになるのです。

 さて、イエス様と共に十字架にかけられた強盗の一人は、自分は神の裁きを受けているのだと思った。そのことに気づいたがゆえに、イエス様を見るとき、「あなたは、本当はこんなところにいるべきお方ではない」ということも分かったのです。なぜ、あなたがここにいるのか? あなたは罪のないお方、神様に愛され、祝福されるべきお方ではないか? それがどうして神に対して罪を犯し、死ぬべき滅ぶべき自分と共にここにいるのか? そのように問いつつ、彼はそこに深い神の恵み、一縷の救いを見いだすのです。そして、《イエスよ、あなたの御国においでなるときには、わたしを思い出してください》(『ルカによる福音書』23章42節)といったのでありました。

イエスを十字架につけた百人隊長
 もう一人、イエス様の十字架のうちに神の栄光を見た人がいます。それがローマの兵士100人を部下としてもつ百人隊長です。彼の上には千人隊長がいました。おそらく、彼は千人隊長の命令を受け、死刑執行の役割をやらされていたのだと思います。仕事とはいえ、死刑執行などという役回りはあまりしたくないことであります。しかも十字架刑というのは、死刑のうちで最も残酷な刑でありまして、麻酔もかけない生身の人間の手首を、そのまま十字架の横木に打ち付けて持ち上げるのですから、その苦痛は想像もつかないものでありましょう。百人隊長はそれを直接兵士達に命じ、すべてが成し遂げられるのを最初から終わりまで見届けなければなりませんでした。皆、死刑執行人の前で泣き叫んだり、呪いの言葉を口にしたり、怨みの眼差しでにらみつけたりしながら死んでいったであろうと思うのです。それは彼の心に決して消えることがないような深い傷として残されていったに違いありません。

 しかし、イエス様はほかのどんな犯罪人とも違いました。恨むどころか赦しつつ死んでいったのです。そのゆるしの眼差しは、この百人隊長にも向けられ、死刑執行の携わる彼の精神的な重荷、苦痛を癒し、今まで感じたことのない平安をさえ受けたのではありませんでしょうか。だからこそ、彼は十字架で息を引き取るイエス様を見て、《本当に、この人は神の子であった》」(『マルコによる福音書』15章39節)と告白したのでありました。

 このように母マリア、共に十字架につけられた強盗のひとり、そして死刑執行人の百人隊長、この三人はイエス様の十字架のうちに、ほかの人たちとはまったく違ったものを見たのです。弱々しく、痛々しく、無惨な姿をさらしているイエス様のうちに、「神、我らと共にいます」との神の愛、神の恵みが自分に注がれているのを見いだしたのでありました。しかし、イエス様の力を求めた人たちは、もっとも身近で仕えてきたペトロをはじめとする弟子たちですら、それが分からなかったのです。




新しい救い
 今日、お読みしました『ヘブライ人への手紙』2章10節にはこう書いてありました。

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

 《救いの創始者》という言葉が出てきます。イエス様は救いの創始者であるとはどういうことでありましょうか。それは、イエス様が私たちに与えてくださる救いが、まったく新しい、だれも経験したことがない救いであるということであります。

 イエス様を知らない人たちもまた救いを求めています。それは世の富、世の力、世の栄光を手入れるという救いであります。しかし、イエス様が私達のために用意してくださる救いは、そういう類のものとは違うのです。まったく新しい救いです。力ではなく弱さの中に、豊かさの中にではなく貧しさの中に、栄光の中にではなく敗北とか卑しさの中に、神様の愛と恵みが与えられる、そういう救いです。

 そういう救いだからこそ、《多くの子らを栄光に導く》ことができるのです。その前の節では《すべての人のために》とありました。イエス様はすべての人の救い主であります。しかし、ここで《多くの子ら》と言い換えられています。《すべての人》よりも救われる人の範囲が狭められてしまっているような気がするのです。けれども、そういうことではありません。《すべての人》と言っても、みんなが同じ人間ではなく、千差万別、みなそれぞれ違った命、違った経験を生きています。そういう多様性をもった人たちを、みなことごとく、一人の救い主イエス様が救いに導いてくださる、そういうことが《多くの子らを栄光に導く》という言葉で言われているのではありませんでしょうか。

 それに対して、世の救いは、決して多くの者たちを救わないのです。救われるのは(それが救いだとすればの話ですが)、特に優れたと認められる限られた者、選ばれた者だけであります。だれもがそれを目指しますが、多くの者たちが脱落します。しかし、イエス様は脱落者が出ないような救い、多くの者たちに神の救い、神の恵みを与えようとされるのです。

 母マリアはイエス様の弱さを愛することができる人でありましたから、それを見ることができました。強盗の一人は、自分の罪を、神様に対する罪を認めたときに、それをしることができました。百人隊長は、自分がイエス様を十字架につけたのだという深い精神的な重荷を負うことによって、イエス様の弱さの中に、すべての人をゆるし包み込む大きな愛を見いだしました。

 11節の終わりにこう記されています。

 イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない

 イエス様と私たちが兄弟とされる。それによって、私たちはイエス様が「天の父よ」と呼ぶお方を、同じように「天の父よ」と呼ぶことができるようになる。つまり、同じ神様の子とされるのです。その際、また10節に戻りますが、イエス様は《数々の苦しみを通して》とあります。私たちがイエス様の兄弟となるそれにふさわしいものとなるのではなく、イエス様のほうから近づいてくださり、私たちの兄弟となってくださった。イエス様は、自らを低くされることによって、貧しさを、弱さを身に負われることによって、この世のすべての人たちの兄弟となろうとされた。これが新しい救いなのです。
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