ヘブライ人への手紙 09
「我らを助け得る大祭司」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙2章10-18節
旧約聖書 詩編51編12-21節
弱さの中の力
 大阪に釜ヶ崎と呼ばれる地域があります。東京の山谷、横浜の寿町に並ぶ三大寄せ場のひとつです。この釜ヶ崎で二畳一間の部屋を借り、20年も暮らしながら、路上生活者たちを支援している本田哲朗神父という方がおられます。フランシスコ会の日本管区長も勤められ、将来を嘱望された有能な方でありましたが、ちょうど今の私ぐらいの年齢ですべてを擲ち、釜ヶ崎に入りました。その方が、先日、朝日新聞(asahi.com 関西)の中で、記者のインタビューに答えるという形で、たいへん考えさせられる良いお話しをしておられましたので、ちょっと長いのですが、ほぼ全文紹介させていただきます。

 私は台湾で生まれ、敗戦で両親の故郷・奄美大島に引き揚げ、そこで育ちました。当時、島民の2割はクリスチャン。私はクリスチャンの4代目。その中で、いつもクリスチャンらしく、良い人にならなければと考えていました。人の顔色ばかり見る「よい子症候群」です。聖書研究所で働くことになった時も、フランシスコ会日本管区の管区長に選ばれた時も、誇りでいっぱいでした。その一方、自分を偽り、他人を偽り、神を偽る、私自身の姿に気づいてもいた。これではいけないと必死に祈ってみたものです。
管区長になってすぐ、釜ケ崎を視察で訪れました。当時の釜ケ崎は今よりずっと、しんどい所でした。町は悪臭を放ち、髪がぼうぼうに伸びた野宿者たち。内心びくびくしながら夜回りに参加し、毛布を配ると、一人の野宿者が「兄ちゃん、すまんな、おおきに」と笑ってくれました。
いつもの自分と違う。何か身が軽い。どうしても忘れられず、次に東京の山谷で3日間、日雇い労働をしてみたのです。東北出身の労働者と一緒に、どろどろの土をスコップで放り上げる作業をしました。私はろくに作業ができなかったのに、彼は、監督がくれた封筒の一つを「おまえの分」と渡してくれた。帰りの電車で、他の乗客に泥がつかないよう気をつかう彼を見て、痛みを知る、貧しく小さくされた人が、どれほど思いやりを持っているかを知りました。
管区長を退いた後、志願して釜ケ崎の福祉施設「ふるさとの家」で働くようになり、自分の考えを打ち砕かれるような体験を何度もしました。夜回りをすると、いつもつっけんどんな野宿者がいました。善意でしているのに、なぜだろう。他の野宿者に聞くと、当たり前だ、ただで物をもらってうれしい人などいない、というのです。「そうだったな。私は野宿したことないし」と言うと、「本田さんが野宿しても、私らが楽になるわけじゃないよ」。
相手の立場に立って、ということをよく言われます。しかし人はしょせん、他人の立場に立つことはできないのだというのが、私が19年間、釜ケ崎で暮らしてわかったことです。相手の立場に立っているつもりの善意の押しつけが、実は相手の尊厳を傷つけ、差別や偏見の元になることがあるのです。でも、かかわりをあきらめるのではなく、相手より下に立つ心構えが必要です。野宿者は自活できる仕事を求めているのにそれがない。炊き出しをし、毛布を配る時は「こんなことしかしてあげられなくて、ごめんね。望んでいるのは、こんなことじゃないんだよね」と思いながらします。
ある労働者が、死んだ友人にお供えをしたいが、自分の朝食代だけはとっておきたいと、500円玉の両替を頼んできたこともありました。その500円が彼の全財産であるにもかかわらず、です。弱き人々の中にあってこそ、力は十分に発揮される。これもまた、私が釜ケ崎で学んだことの一つです。人間にとって大切なのは、良い人になることでも、立派な大人になることでもなく、人の痛みを放っておけない心を持つこと。これもまた、私がこの年齢になってわかったことです。


 本田神父が語っておられるのは、「弱さの中の力」ということです。人間は、だれでも弱さをもっています。社会的な弱さ、経済的な弱さ、肉体的な弱さ、精神的な弱さ、意志の弱さ・・・弱さもいろいろありますが、何にも弱さがないという人はいないんじゃないでしょうか。

 しかし、そういう自分の弱さを認められない人は、世の中にたくさんいるように思います。自分の弱さを認める代わりに、自分は偉いんだ、優秀なんだ、賢いんだということを人に認めさせ、それを自分の誇りにしようと生きている人です。何か失敗するようなことがあったり、過ちを犯してしまったとしても、他人のせいにしたり、自己弁解に終始したりして、決して自分の弱さを率直に認めようとしません。弱さを認めるということは、自分が価値のない人間だということを認めることと同じだと信じているからなのです。

 本田神父も御自分がそのような人間のひとりであったと語っておられます。善良な心の持ち主で、お仕事にかけても有能な方でいらしたのですが、それだからこそ、自分の弱さ、貧しさを素直に認められなかった。なんとか良い人であろうとして、自分を偽り、他人を偽り、神を偽り生きてきたというのです。もっとも、これは本田神父が自分の内面を非常に厳しく見つめるからこそ出てくる言葉でありまして、普通の人たちに比べたら本当に謙遜な方だったのだと思います。でも、神様の言葉によって厳しく自分の内面を見つめる。すると、心の中で「これじゃいけないんだ」という声が絶えず響いていたということなのです。

 何がいけないのでしょうか? 実は、神様は私たちの弱さに対して、私たちとは違った考えをもっておられます。たとえば『コリントの信徒への手紙1』1章27-28節には、このように語られているのです。

 神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

 神様は、私たちの強さや賢さではなく、弱さを求めておられます。強さや賢さのゆえではなく、弱さのゆえに、私たちを選んでくださいました。「選んでくださった」とは神様の目的のために、私たちを価値ある人間としてくださったということです。普通は「お前は弱いからダメだ」「愚かだからダメだ」と言います。しかし、神様は「お前は弱いからよろしい。わたしの目にかなった」と言われるのだというのです。
弱さの極地としての十字架
 どうして、神様は私たちの弱さを求められるのでしょうか。それはちょっと妙に聞こえるかもしれませんが、それは弱さの中にこそ罪を赦す愛があり、サタンを打ち負かす力があり、苦しみに打ち勝つ強さがあるからです。

 イエス様の十字架がそのことを証明しています。今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』2章10-18節には、突き詰めて言えばそういうことが書かれていたのです。まず10節をご覧下さい。

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。

 イエス様が《救いの創始者》であると言われています。これについては先週もお話ししたので簡単に申しますが、世の中にもいろいろな救いが謳われています。それは大抵、富、名誉、健康などの力を与える救いです。しかし、そういう救いは、結局、特に優れた人、選ばれたほんの一握りの人たちだけが手に入れるのでありまして、こから漏れてしまう人のほうがずっと多いのです。それが世の中の仕組みです。ところが、イエス様はまったく新しい救いを私たちに示してくださいました。それは世の富、世の力、安楽な生活の中にではなく、そういうものを一切奪われた弱さ、貧しさ、苦しみの極地である十字架の中にあるのだということを示してくださったのであります。

 ですから、イエス様は《数々の苦しみを通して完全な者》とされたとあります。世間でも、試練が人間を鍛えるということがいわれますが、そういう意味ではありません。イエス様は神の御子、神と本質を同じくするお方でありますから、鍛えられなければならない必要はなどまったくないのです。そういう強き、完全なるイエス様が、敢えて数々の苦しみを御自分のものとされて、弱さ、貧しさを完全に御自分のものとされた。その行き着くところが十字架です。この十字架において、イエス様は私たちを《栄光へと導く》お方となるのだと言われるのです。

 それは私たちをイエス様の兄弟とし、イエス様と同じ神の子としてくださるということです。そのことが11-13節に書かれていました。しかし、これについては後で申し上げることにしたいと思います。その前に、弱さ、貧しさの極地であるイエス様の十字架がいったいいかなる意味で私たちの救いであるのか、そのことを見ておきたいと思うのです。
悪魔を滅ぼす十字架
 第一に、それは悪魔を滅ぼすためであったと記されています。14-16節です。

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

 《悪魔をご自分の死によって滅ぼし》とあります。イエス様は十字架の死によって、悪魔を滅ぼされたのです。しかし、なぜイエス様の十字架の死が悪魔を滅ぼすのでしょうか。それに悪魔を滅ぼすだけならば、神の大能をもってして出来ないことは何もないのでありますから、別の方法があってもよさそうです。しかし、神様はそうなさいませんでした。わざわざ御子なるイエス様を人の世に送り、十字架につけて、悪魔を滅ぼされたのであります。

 その御心はどこにあるかと申しますと、《死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした》とあります。神様の目的は、単純に悪魔を滅ぼすことにあるのではなく、悪魔の虜にされ、奴隷にされている私たちを、悪魔の手から救い出すということにこそあるのです。『ヨハネの手紙1』3章8節には、《悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです》とあります。ここでは《悪魔の働きを滅ぼすため》とは、悪魔の策略、悪魔の力を打ち砕き、挫折させ、無力にすることです。そうしてこそ、人間は悪魔の影響から解放されるのです。十字架には、そのように悪魔の働きを無力にする力があるのだということなのです。

 それはどういうことなのでありましょうか。悪魔というのは堕天使という言い方もありますが、神様に反逆した天使たちのことであるというのが通説です。ただし、聖書には、悪魔がいかにして誕生したのか、いかなる事件をもって堕落したのかということについて何も語られていないのでご注意いただきたいと思います。聖書に書かれているのは、目に見えるものも、見えないものも、すべてものが神様によって造られたということ(『コロサイの信徒への手紙』1:16-17)、そして悪魔が神に罪を犯しているということです(『ヨハネの手紙1』3章8節)。そういうことから悪魔を堕天使だと考えるわけです。罪というのは神様に逆らうわけですから、自分が神になろうとすることだと言ってもいいのです。つまり悪魔の正体は「神になろうとした天使」なのです。

 とはいえ、悪魔というのは、賢い存在です。真の神様に太刀打ちできる存在でないことは、悪魔自身がよく知っているのです。ですから、神様と真正面から喧嘩するようなことはしません。では、どうするか。神様が特別な愛をもってお造りになった人間を誘惑し、罠にかけ、「神様に従うよりも、わたしに従った方が徳だぞ」と思い込ませるのです。さらに悪魔の賢さは、自分の正体を隠すことのうまさにあります。悪魔の醜い本性をみたら、いくら愚かな人間であっても、悪魔に従おうなんて思いません。しかし、悪魔は自分を上手に隠すのです。ですから、悪魔に従っている人間は、自分が悪魔に従っているなんて思ってもみません。自分の知恵や意志に従っているだけであると思い込んでいたり、神に逆らいながらも自分を良いことをしているとさえ思ってしまうことがほとんどなのです。

 ペトロが、イエス様に「サタンよ、引き下がれ」と叱られた時もそうです。ペトロは自分が悪魔に従っているなんて少しも思っていなかった。むしろ、自分はイエス様のためを思っているのだと思い込んでいたのです。パウロもそうです。キリスト教徒を迫害している時、パウロは自分こそは神を愛する人間だと確信していたに違いないのです。このようにして悪魔は、神の子らである人間を神様から引き離し、悪魔の子らとして、自分が人間たちの神になることに成功したのです。

 悪魔はまたイエス様をも誘惑しました。「お前は神の子ではないか。神の子なら石をパンに変えてみよ」「神の子ならここから飛び降りて、天使が助けにくるかどうか試してみよ」、そして「ひれ伏してわたしを拝むなら、地上のすべてを支配させてあげよう」とも言いました。悪魔は、イエス様が力ある神の御子であることを強調します。逆に言うと、イエス様が人の子として、つまり私たち人間の兄弟として、私たちを愛し、私たちをその愛によって捕まえ、神様のもとに連れ返すことを恐れたのです。だから、あなたは罪深き人間なんかと一緒にいてはいけない。神の子なのだから、神様のもとに帰れと、そういうことを言ったわけです。

 しかし、イエス様はこのような悪魔の誘惑を退けました。そして、神の子としての力ではなく、人間としての弱さを身にまとった方として、人間の友、人間の兄弟として生きられたのです。その極みが十字架です。十字架におかかりになるイエス様に対しても、悪魔は「神の子なら自分を救え」と叫び続けました。イエス様は神の子の力と栄光をもって、十字架から降りることがおできになったであろうと思います。しかし、イエス様は最後まで、人間の隣人としてあることを守られ、十字架で死なれたのです。そのようなイエス様について、聖書にはこう書かれています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(『フィリピの信徒への手紙』2章6-7節)

 つまり、イエス様は十字架によって、罪人の友となられることによっては、悪魔の神様から人間を奪おうとする策略、働きを打ち砕き、完全に空しくし、悪魔を敗北させたのです。これが十字架によって悪魔を滅ぼしたということの意味なのです。

罪を償う十字架
第二に、十字架は、人間の罪の償いのためであったと記されています。17節にこう記されています。

 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

 《罪を償うため》とあります。人間が悪魔から解放されたとしても、犯した罪が消えるわけではありません。罪が赦されるためには、償いが必要なのです。しかし、物に対して犯した罪であるならば、弁償をすればよいでありましょうが、私たちが犯した罪は、いわば神様の愛に対する罪です。神様の愛を踏みにじり、裏切ったのです。神様の愛を悲しませ、神様の愛を苦しませたのです。このような罪に対する償いは簡単ではありません。皆さんもそうでありましょう。物を壊されたぐらいでは怒らなくても、自分の心を踏みにじったり、傷つけたりした相手に対してはなかなか赦すことができないのです。

 そういう愛に対する罪というのは、どうしたら償われるのでありましょうか。どんなにお金を積んでも、どんな大きな犠牲をはらっても、たとえ命をもって償っても、罪を悔いる打ち砕かれた魂がなければ償うことができないのです。裁判の行方が注目されている光市母子殺人事件で、妻と子供を殺された本村さんは、被告に死刑を強く要求しています。被告が自分の罪を自覚し、自分のしたことに対する心からなる反省の気持ちをもち、まともな人間となって死刑に望んで欲しいということを語っておられます。死刑の是非はともかく、被害者の気持ちとしてはとてもよく分かるのです。被告が死刑になったとして、自分の失った大切な家族が帰ってくるわけではありません。そういう中で、少しでも心が慰められる何かがあるとすれば、被告が心の底から自分の犯した罪を悔い、そのことに恐れおののく心を持ってくれることだということではありませんでしょうか。それがなければ、たとえ死刑になっても意味がないということなのです。しかし、それがあったとしても、やはり償いきれない罪であることには違いありません。

 詩編51編は、先週もお話ししましたが、ダビデが姦淫の罪を犯した時に祈った悔い改めの祈りです。

 もしいけにえがあなたに喜ばれ
 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
 わたしはそれをささげます。
 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
 打ち砕かれ悔いる心を
 神よ、あなたは侮られません。(18-19節)


 ダビデも、自分の罪はどんなものをもってしても償うことはできないし、神様を宥めることはできないのだと知っていました。自分ができる精一杯のことは、悔いし砕かれた魂を神様にささげることだ。それとて、決して償いにはならないのだけど、憐れみ深い神様は、それを見てあるいは赦してくださるかもしれないと、そう言っているわけです。

 イエス様は、罪を犯されませんでした。しかし、全人類の犯した罪をすべて御自分の罪とされて、私たちに成り代わって、本当に打ち砕かれた魂をもって十字架におかかりくださったのです。だからといって私たちが罪を悔いなくてもよいということにはなりません。しかし、罪を犯さなかった方が、私たちの側に立って、私たちの罪を自分の罪とし、その罪の重さにおそれおののき、打ち砕かれた魂をもって十字架にかかり、命を捨ててくださった。それをみて、神様はイエス様のゆえに心を宥められ、私たちに対する憐れみをさらに深くしてくださるのだということなのです。イエス様の十字架によって、私たちの罪が償われるとは、そういうことであります。

新しい救い
  第三に、イエス様の十字架は、私たちを苦しみから助け出すと言われています。18節です。

 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 「同病相憐れむ」といいますが、イエス様は私たちの受ける苦しみをすべて味わい尽くされて、私たちの苦しみをだれよりも分かってくださるお方であるといわれています。十字架の苦しみ、そこには様々な苦しみがあります。肉体の痛み、渇き、飢え、言われ無き罪を着せられる苦しみ、辱め、愛する人からの裏切り、離別、孤独・・・イエス様は十字架にいたるまで、私たちの苦しみを嘗め尽くされたのです。だからこそ、イエス様は私たちに必要な助けをよくご存知でいてくださるのです。

 イエス様は十字架で死なれました。御子として身分を擲って、まったき人間の友、神の僕となられたがゆえに、悪魔の働きを破り、悪魔の手から私たちを解放してくださいました。また、罪は犯されなかったにもかかわらず、私たちの罪を自分の罪とされて、私たちの打ち砕かれた魂となってくださいました。それによって、私たちの罪の償いとなってくださいました。さらに、イエス様は私たちの経験するあらゆる苦しみを十字架で味わわれました。それゆえに私たちの苦しみを分かり、私たちを助け得る方となってくださいました。

 そのようなイエス様の十字架の恵みを、私たちはイエス様との命の交わりの中で受け取ることができます。11節に《イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない》とあります。12節に《わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ》とあります。13節に《ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます》とあります。これらの御言葉が何を意味しているのかと言いますと、イエス様が私達と血と肉を分け合った兄弟となってくださり、イエス様の命と私たちの命に深い結びつき、交わりをもってくださるということなのです。

 このようにイエス様は神の御子でありながら、私たちの兄弟として、私たちに今ももうしましたような十字架の愛をもって愛し、十字架の恵みをもって恵み、十字架の救いをもって助けてくださる。神様と私たちの間の架け橋となり、私たちをもう一度、悪魔から解放し、罪を償われた者として、苦しみから助け出して、神の子としての祝福に与らせてくださるのです。ですから、イエス様は《神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司》と言われているのです。みずから十字架にかかり、私たちの命をもって、神の愛、祝福をもたらしてくださる大祭司であります。どうぞ、大祭司なるイエス様の祝福を受けながら、この一週間も神の子らとして歩み、励みたいと思います。

 それに対して、世の救いは、決して多くの者たちを救わないのです。救われるのは(それが救いだとすればの話ですが)、特に優れたと認められる限られた者、選ばれた者だけであります。だれもがそれを目指しますが、多くの者たちが脱落します。しかし、イエス様は脱落者が出ないような救い、多くの者たちに神の救い、神の恵みを与えようとされるのです。

 母マリアはイエス様の弱さを愛することができる人でありましたから、それを見ることができました。強盗の一人は、自分の罪を、神様に対する罪を認めたときに、それをしることができました。百人隊長は、自分がイエス様を十字架につけたのだという深い精神的な重荷を負うことによって、イエス様の弱さの中に、すべての人をゆるし包み込む大きな愛を見いだしました。

 11節の終わりにこう記されています。

 イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない

 イエス様と私たちが兄弟とされる。それによって、私たちはイエス様が「天の父よ」と呼ぶお方を、同じように「天の父よ」と呼ぶことができるようになる。つまり、同じ神様の子とされるのです。その際、また10節に戻りますが、イエス様は《数々の苦しみを通して》とあります。私たちがイエス様の兄弟となるそれにふさわしいものとなるのではなく、イエス様のほうから近づいてくださり、私たちの兄弟となってくださった。イエス様は、自らを低くされることによって、貧しさを、弱さを身に負われることによって、この世のすべての人たちの兄弟となろうとされた。これが新しい救いなのです。
目次

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