|
|
|
イエス様がお弟子さんたちを連れてエルサレム神殿に上られたときのことです。境内は参拝客相手に商売する人たちの露店でたいへんな賑わいを見せておりました。過越祭が近づいており、今こそ稼ぎ時といわんばかりに商売に精を出していたのです。これをご覧になったイエス様は、たいへんな剣幕で彼らをお叱りになりました。縄で鞭を造り、売られていた犠牲用の動物たちを追い散らしたり、露店の机や椅子をひっくり返したり、蹴散らしながら、《「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」》(『ヨハネによる福音書』2章16節)と怒鳴られたのでした。
《父の家》つまり「神の家」が、《商売の家》に成り果てている。貪欲な者たちが、欲しいままに利をむさぼる場所になっている。そのことに、イエス様は激しい怒りをお覚えになります。当然のことでありましょう。私たちにしてみても、自分の家で誰かが勝手なことを始めてご覧なさい。「ここは私の家だ。出て行ってくれ」というに違いないのです。
皆さんは、ご自分の家に何を期待しておられるでしょうか。暑さ、寒さをしのげること、地震が来ても倒れない頑丈な構造をもっていること、くつろぐための十分なスペースがあること・・・いいえ、そうではないと思うのです。そういうものは、無いよりも在った方がよいに決まっています。しかし、それらのものが十分にあったとしても、そこに自分の居場所がなければ意味がありません。どんなに立派な家があっても、肩身が狭い思いをして暮らさなければならないとしたら、そこを自分の家だと思えないでありましょう。こんな家はいちいちも早く出て行って、狭くても、あばら屋でもいいから、自分が自分らしくあることのできる場所へ、息のつける場所へ移りたいと願うに違いありません。
「神の家」は、何よりも神様にとって安住できる場所でなければなりません。神様がそこを自分の居場所として喜び、楽しみ、安らかなところでなければなりません。そのために必要なものは、神殿の大きさでも、広さでも、頑丈さでもないでしょう。神様を神様として愛し、慕い、崇める信仰が、そこに満ちていることが必要なのです。
神の家は、最初、道端に落ちているたった一つの石で築かれました。『創世記』28章10-22節にそのことが書かれていますが、抜粋してご紹介しましょう。
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。(10-12節)
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。(16-19節)
路傍に立てられた立った一つの石でさえ、「ここに神様がおられます」と、神様が神様として敬われる場所ならば、それは「神の家」と呼ばれるのです。
モーセは、それよりもずっとマシな神の家を造りましたが、それとて「幕屋」、つまり移動式のテントに過ぎませんでした。ソロモンがそれを石造りの立派な神殿に仕上げました。しかし、それとて神殿が完成した時、ソロモンはこう祈ります。
神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
ソロモンは、財においても、知恵や力においても、持てるすべてのものを献げて神殿を建てましたが、それとて、とても天地をお造りになった神様がお住みになる場所とは言えないことを知っておりました。しかし、他方で石の枕のように粗末なしるしであろうとも、それを「神の家」と呼ぶことを許し、「私はあなたと共に住む」と答えてくださるのが、私たちの神様なのであります。
もっとはっきりと申しましょう。神様は、どんなものであれ、人間が建てた建造物にお住みになることはありません。しかし、神様を神様として愛し、慕い、崇める信仰があるところに、神様は喜んでお住み下さるのです。 |
|
|
|
|
「神の家」を建てるとは、そのような信仰を作り上げることに他なりません。どんなに立派な神殿が建てられようとも、参拝客相手に商売をする者たちや、自分たちが敬われることばかりを求めている祭司たちが支配しているような神殿は、とても神の家とは言えないのです。そこは、もはや神様の居場所ではないからです。それを、イエス様は「神の家」が「商売の家」に成り果てていると嘆き、お怒りになったのです。
そして、イエス様はこう言われました。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(『ヨハネによる福音書』2章19節)
ここに、イエス様御自身の言葉によって、イエス様は罪によって汚された古き神の家を打ち壊し、新しい神の家をお建てになるお方であることが語られています。今日、お読みしました『ヘブライ人への手紙』にもこう記されています。
家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
イエス様は《家を建てる人》なのです。では、イエス様がお建てになる家とは何か。《新しい神の家》などと申しますと、聖書を読み慣れた方はすぐに「ああ、それは教会のことだな」と思われるかもしれません。それはそうなのです。しかし、今はもっと丁寧に考えていきたいと思います。
「神の家」とは、繰り返し申しますが、神様の居場所です。神様が神様として礼拝される所と言ってもいいかもしれません。それは建物ではありません。どんなに荘厳な神殿であろうが、天地を造られた神様がそのような中にお住みになるわけではないということは、それを造ったソロモンも百も承知だったのです。では、神の居場所とは何でしょうか? 神様の喜び、楽しみ、安息をもって共にいてくださるところはどこでしょうか? 荒川教会は果たしてそのような場所となっているのでありましょうか? 私たちの信仰は、そのように完全に神様を喜ばせるものでありましょうか? ああ、そうであったらどんなに素晴らしいことでしょうか! しかし、現実は、私たちの貧しき信仰を認めざるを得ないのではないでしょうか。神様が本当に安息できる信仰が、この地上のどこに見いだされるのか? それはとても難しいのです。
けれども、ただ一つ、それがあります。それはゴルゴダの丘に建てられたイエス様の十字架です。イエス様の十字架、それはこの世的にみれば、希望の終わりでした。神の御子が、世の救い主が、不信仰な輩によって磔にされてしまったのです。イエス様の十字架は、悪の勝利、神の敗北と見られても仕方がないようなことだったのです。イエス様の弟子たちも皆、そのように思っておりました。イエス様が十字架にかけられて三日目、ある弟子が、十字架につけられたイエス様について、こんなことを語っています。
この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。(『ルカによる福音書』24章19-21節)
これがイエス様の弟子たちの十字架に対する一致した考えでありました。しかし、聖書は違うことを語ります。イエス様は、自分の命をさえ捨てて、神様の御心に従われた。たとえ、そこから何の希望も見えないような所であっても、「神の御心ならば」という信頼をもって従われた。そこに神様を神様として尊ぶ、完全な信仰がありました。その全き従順、完全な信頼の現れがイエス様の十字架であったのです。
『ヘブライ人への手紙』2章9節はこう語ります。
ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
イエス様は神を神としない者たちの毒牙にかかって殺されたのではない。神様のすべての人に対する恵み深い御心が全うされるために、自分をまったく無にして、神様がすべてとなられるために、十字架にかかることもいとわれなかった。それゆえに、十字架はイエス様の栄光と栄誉の冠なのだというのであります。
十字架がそのように神様の嘉せられるものであった証拠、それがイエス様の復活でありました。神様を神様とする完全なる信仰をもって、御自身の体を神様の居場所としてお捧げ下さった。それが十字架であります。そして、イエス様のすべてを献げきったそのまったき従順のうちに御自分の栄光を現してくださった。それが復活なのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」とは、この意味であったのです。
『フィリピの信徒への手紙』2章6-11節にはこう記されています。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
つまり、イエス様は御自分の御体を十字架において完全に神様のお捧げすることによって、御自身を神様の栄光の宿る神様の新しい家となさったのです。復活なさったイエス様こそが、新しい神の家なのです。 |
|
|
|
|
しかも、イエス様は御自身の体を神様に献げられただけではありません。私たちにも、その御体をお与え下さいました。『ヘブライ人への手紙』2章11〜13節に書かれているのはそのことであります。
それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を、わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
イエス様は御自分の御体を神の家としてお捧げになり、同時に私たちをも御自分の体につなげて神の家、つまり神様の宿り給う住まいとしてくださるのです。先ほども申しましたが、私たちの信仰は貧しいのです。しかし、イエス様に連なることによって、そしてイエス様の十字架の愛と恵みに生かされることによって、私たちの神の家となるのです。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです
『ヘブライ人への手紙』は、このように私たちに語りかけています。「確信と希望に満ちた誇り」、それはイエス様の十字架に対する確信と希望に満ちた誇りです。何度もいいますが、私たちの信仰は貧しいのです。とても神様の安住される居場所となるような信仰ではないのです。しかし、このような私たちをイエス様の十字架の救いを信じ、その十字架への信仰に生きるならば、私たちもまたイエス様と共に神の家、神の宿り給う魂を持つことができるということです。
今日は聖霊降臨日です。聖霊がくだり、教会が誕生したと言われる日です。聖霊が与えられると、何か聖霊の特別なパワーが与えられるように考えている人もいますが、そうではありません。聖霊のお働きの一番のことは、私たちをイエス様の御体の肢々としてくださるということになるのです。そのための信仰を私たちに与え、イエス様の御臨在を生き生きと私たちの魂に感じさせてくださるのです。それによって、私たちも神の家となります。私たちのうちに神が宿り、私たちが神のうちに宿るようになるのです。「神われらと共にいます」との祝福が私たちの人生に与えられるのです。
|
|
|
目次 |
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|