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大阪大学の総長をしておられる鷲田清一(臨床哲学)という方が、『「待つ」ということ』(角川選書)という本を書いておられます。鷲田氏は、その本の中で、現代社会は様々な文明の利器を持つことによって待たなくてもよい社会になっただけではなくて、待つことができない社会になったと警告を発しておられます。
かつて「待つ」ことはありふれたことだった。一時間に一台しか来ない列車を待つ、数日後のラブレターの返事を待つ、果物の熟成を待つ、酒の発酵を待つ、相手が自分で気づくまで待つ、謹慎処分が解けるのを待つ、刑期明けを待つ、決定的現場を押さえるために待ち伏せる(かつて容疑者を追って、同じホテルに一年間張り込んだ刑事がいた)。万葉集や古今和歌集をはじめ、待ち遠しさを歌うことが定番であるような歌謡の手管があった。待ちこがれつつ時間潰しをすること、期待しながら不安を抱くこと、そんな背反する思いが「文化」というかたちへと熟成された。喫茶店はそんな「待ち合い」の場所だった。農民や漁師、そしてウェイター(まさに「待ち人」)といった「待つ」ことが仕事であるような職業があった。相撲でも囲碁でも「待った」できないという強迫がひとを苛んだ・・・。そんな光景もわたしたちの視野から外れつつある。
みみっちいほど、せっかちになったのだろうか・・・。
せっかちは息せき切って現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、実は未来を視野にいれていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったんは決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つといより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。頑なであり、不寛容でもある。やりなおしとか修正を頑として認めない。結果がでなければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。待つことは法外に難しくなった。
「待たない社会」、そして「待てない社会」。
意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつしか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えたもにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか・・・
少し長い文章を引用させていただきましたが、皆さんにも心当たりのあることなのではありませんでしょうか。未来というのは、何が起こるかわからないという世界です。それはある意味では意のままにならないものであり、受け身でいるしかないものであり、恐れや不安の原因になります。しかし、未来というのは希望でもありまして、人生に想定外の悪いことが訪れたとしても、まだその先に何が起こるか分かりません。その悪いことが、ひょんなことでひっくり返って善いことになるかもしれない。そんな私たちの意表をつくようなことが起こり得るのが未来なのです。
ですから、何が起こるかわならい未来というのは、恐れや不安ばかりではなく、たいへん大きな希望を私たちに与えるものなのです。「待つ」というのは、そういう何が起こるかわからない未来に、私たちの切なる祈りを込めるということなのです。しかし、祈りと言っても、「病気を治して欲しい」とか、「仕事を成功させて欲しい」とか、私たちの心の願いを迎えにゆくような祈りではありません。
本で読んだのか、誰かから聞いたのか、ちょっと忘れましたが、こんな話をおぼえています。重い病気で苦しむ信者さんのもとに、牧師さんがお見舞いにきて、病室で病の癒しを祈るのです。祈りが終わると、信者さんは不安に満ちた顔で「わたしは大丈夫でしょうか」と尋ねます。すると牧師さんは自信たっぷりに「大丈夫です」と答えるのです。信者さんの顔はパッと明るくなって「神様はわたしを癒してくださるのですね」と確認をします。ところが、牧師さんは「わかりません」と答えました。「でも、『大丈夫だ』とおっしゃってくださったではありませんか」と、信者さんは訴えました。すると牧師さんは、「もちろんです。病気が治っても、治らなくても、あなたは大丈夫なのですよ」とお答えになったというのです。その信者さんは、それを聞いて、病気が治らなければ自分はダメだというのではなく、治っても治らなくても神様の愛と祝福は変わることなく私のうちにあるんだというイエス様の救いの確かさを悟って、深い平安が与えられたというのです。
この牧師さんは、信者さんの病気が治して欲しいと素直に神様にお祈りをしました。しかし、そのような願いで、神様を自分の意のままにしようなどとは考えませんでした。『フィリピの信徒への手紙』4章6-7節に、こう記されています。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
自分の願いを神様に訴えるのは良いのです。しかし、神様のすばらしいご計画のなかにある私たちの未来を、所詮人間の考えに過ぎない私たちの願いで、こうでなければダメだと囲い込んでしまってはいけないのです。私たちは未来を支配するのではなく、未来に祈りを込めなければなりません。意のままにならない未来、何が起こるか分からない未来、だからこそ、たとえ私たちの目には一縷の可能性さえ見えないとしても、あるいは私たちの願いを打ち砕くようなことが起こったとしても、なお予想だにしない神様の備え給う祝福が未来にはある、そのような人知を超えた神の平和が私たちに必ず訪れる、そのように期待し、祈りを込め、神様の御業を待ち望むのです。「病気が治っても、治らなくても大丈夫です」とは、そのような人知を超えた神の平和を信じた言葉、神様の開き給う未来を信じる信仰の祈りなのです。
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待つことができない社会、それは自分の意のままにならぬもの、自分を超えた力に対する期待や希望をもてなくなった社会です。そのような期待や希望がなくなるとどうなるのでしょうか?
まず、不安が支配するようになります。「何が起こるか分からない」ということが、私たちの思いを超えたことが起こりえるという希望に結びつかないで、ただひたすら不安の原因になってしまうのです。自分の意のままにならないことが不安なのです。自分の力を超えたものが、自分の人生を支配しているということが不安なのです。
ですから、意のままにならぬものや、自分の力を超えたものを自分の人生から排除して、何でも自分の思い通りにしようとする。そのためにあれこれと備えたり、先手を打とうとしたり、悩んで苦労をする。常に対策を考えている。何が起こるか分からないのだから、本当は考えても仕方がないことなのに、それでも一生懸命に考えてしまう。だから、不安に支配されている人は忙しいのです。心を休まらないのです。待つことが出来ない人は、不安で、心忙しくて、安息がないのです。
そのような人間、そのような世の中に対して、今日読みしました『ヘブライ人への手紙』3章19節は、《彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであった》と記すのです。
不信仰とは何か? 8-10節にこう記されています
荒れ野で試練を受けたころ、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。
荒れ野であなたたちの先祖は
わたしを試み、験し、
四十年の間わたしの業を見た。
だから、わたしは、その時代の者たちに対して
憤ってこう言った。
『彼らはいつも心が迷っており、
わたしの道を認めなかった。』
《心をかたくなにしてはならない》とあります。かたくなな心とは、自分自身のねじれた考えに凝り固まってしまって、何も受け入れなくなってしまう心です。先ほどからくり返し言っていますが、人生には自分の意のままにならないものがあります。自分の力を超えたものが働いています。実はそこに神様の御心があったり、御業があったりするんですね。
こんな話を聞いたことがあります。ある老牧師が、目を輝かせ愉快そうにこう言うのです。「長い間、仕事に邪魔が入ると、つねに文句を言ってきましたが、その邪魔というのが、じつはわたしに与えられた仕事であることが、だんだんと分かってきました」
数多くの思いがけない出来事を、単に自分の計画を邪魔するやっかいな出来事として恨みがましく思うのではなく、そこに何らかの神様のご意志があるのだということを認め、信じると、人生の色がガラリと変わるのです。
何年か前、私は二年に一度行われる「支区のつどい」という行事の実行委員長を託されました。それまで支区のつどいは、高名な先生をお招きしてお話しを伺うというようなものでしたが、私がガラリと内容を変え、葛西臨海公園で野外礼拝をし、みんなでお弁当を広げて食べ、リクレーション大会をしようという計画を立てました。苦労して周到な計画を立てて、いよいよその日を向かえたのですが、残念なことに当日は雨でした。それで近隣の教会と附属保育園をお借りしまして、そこでの支区のつどいとなったのでした。その二年後に開かれる「支区のつどい」においても、私が実行委員長に選ばれました。そして、今度こそはと年間天気予報も調べ、雨が少ない日を選んで、再び野外礼拝を計画しました。ところが、またもや雨だったのです。私はとてもがっかりしたのですが、しかし、実は二回とも「支区のつどい」そのものは大成功で、参加者からとても好評だったのです。もしかしたら、ただっ広い芝生広場でやるよりも、教会の限られた空間の中でやったからこそ親しみがそこに生まれ、成功したのかもしれないと、今は思うのです。そう思いますと、二度とも雨が降ったということは、私の愚かな計画を神様が是正してくださって、成功に導いてくださるための方法であったとも言えるわけです。
このように思い通りにならないことが起こったとき、何か邪魔が入ったとき、その中にこそ自分の計画や願いを超えた神様の恵み深い御心があるということを、心を開いて信じると、むしろ、そのようなことが、私たちの希望になってくるのです。
しかし、不信仰な人々は、「わたしの道を認めなかった」と言われています。心を閉ざし、自分の願いや計画に凝り固まり、神様の道、神様の方法を認めない、それが不信仰なのです。そこには、決して安息はありません。
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では、安息に入るためにどうしたら良いのか。今日は、「待つ」というお話しから始めました。私たちは神を待つべきなのです。詩編62編の2節にこう記されています。
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
《わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう》、文語訳で申しますと「わがたましひは黙してただ神をまつ」、これが大切なのではないかと思います。
まずは魂の沈黙であります。先ほど待つことができない人は、不安と忙しさで安息を持つことができないということを申しました。不安と忙しさ、それは言い換えれば、魂の騒がしさであります。どうしようか、こうしようか、これじゃだめじゃないか、これでいいんだろうか、まだ足りないのではないか、もっと何かしなければいけないのではないか、どうしてこんなになってしまったのか・・・不安な魂、忙しい魂、安息のない魂は、つねに揺れ動き、迷い、つぶやいています。そのような騒がしい魂を、まずは静めるのです。自分の願い、計画、不安、恐れ、心配・・・そういうものを一切合切ひっこめて、神様に魂を向けるのです。
そして、神様から来るものを期待し、祈りを込めて待ち望むのです。この場合の祈りを込めるというのは、先ほども言いましたが、「あれをしてください」「これをしてください」と、自分の願いを取りに行くような意味での祈りではありません。そうではなく、何をくださるかわからないけれども、きっと神様が自分のために備え給う良きものがあると信じて、その訪れを祈るということです。そうすると、さっきの老牧師じゃありませんが、今まで自分の仕事の邪魔だとおもっていたようなことの中に、実は神様の与え給う尊い仕事があったのだとか、綿密な計画が雨でつぶれてしまったことの中に、実は神様の計画を祝福する方法があったのだということが見えてきて、私たちを喜ばせてくださるのです。
最後に、私たちが今日、もっとも心に留めておきたい御言葉に触れましょう。それは7-8節、そして15節の二箇所に記されています。15節をお読みします。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
神の声を聞くとはどういうことでしょうか。神様の声が音として耳や心に響いてくるということがないとは言いません。しかし、私にはそういう経験はないのです。それなら、私は神の声を聞いたことがないのかというと、そうじゃないと思うのです。
最初に紹介しました鷲田氏の本の中に、聴くこともまた待つことだという、一節があります。
聴くということがだれかの言葉を受けとめることであるとするならば、聴くというのは待つことである。話す側からすればそれは、何を言っても受け容れてもらえる、留保つけずに言葉を受けとめてくれる、そういう、じぶんがそのままで受け容れてもらえる感触のことである。とすれば、《聴く》とは、どういうかたちで言葉がこぼれ落ちてくるのか予測不可能な《他》の訪れを待つということであろう。(前掲書、69頁)
聴くとは、予測不可能な「他」の訪れを待つことだと言われています。「他」の訪れ、です。自分が期待したり、予想したりするものを、相手から引き出そうとするのではありません。「きっとこう言うだろう」「ああ言うだろう」ということを予測してしまってはいけないのだということです。その口からどんな言葉がこぼれてくるのか、じっと黙して待ち、留保をつけずに受け容れることが聴くということなのです。自分に黙して、「他」の訪れを待つ、それを受け容れる。それが聴くということです。
だとすれば、先ほどから申し上げていますような、私たちの人生には意のままにならないもの、予測不可能なもの、自分の力をこえたものがあることを認め、その訪れの中にこそ神様の御心を信じ、受け容れるということ、それが神の声を聞くということに繋がるのではありませんでしょうか。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
この二つの御言葉は同じ事を言っているのです。『ヘブライ人への手紙』は、「神、語り給う」というメッセージから始まっています。神様はいろいろな時に、いろいろな方法で私たちに語りかけておられる。そして、何よりも御子イエス・キリストによって私たちに語りかけておられます。その意味するところは、神様がわたしたちとの交わりを求めておられるということだということを、これまで何度も申し上げてきたと思います。神の声を聞くということは、私たちの人生の中に生きる方として神様を迎え入れるということなのです。そのような幸いを、ぜひ私たちのものにしたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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