ヘブライ人への手紙 14
「信じたる者は安息に入ればなり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙第4章1〜3節
旧約聖書 ホセア書第11章1〜11節
善い働きも罪になる
 今から十五年も前の古い話なのですが、今でも忘れてはならない教訓として、わたしが大切にしている失敗があります。それは荒川教会に赴任して三年目、そしてそれはわたしの牧師としての三年目のことでもあったのですけれども、さっそくわたしは一つの行き詰まりを感じていました。三十歳になるかならないかの未熟な人間でもありましたから、たくさん足りないことがあったと思いますが、心だけは希望と熱心に燃えて、教会に仕えることに励んでいました。しかし、その割には、働きは実を結ばないのです。洗礼を受けた人も教会にこなくなるし、頼りにしていていた信徒が何人も他教会に転出してしまうし、教勢は落ちこむばかりでした。

 わたしは、何とかしなければいけないと焦りました。そして、色々なことをしたと思います。訪問をしたり、手紙を書いたり、説教に工夫を凝らしたり、伝道集会のようなイベントをしたり、自分自身の研鑽のために聖書や書物も熱心に読みました。何よりも力を込めてしたのは教会員名簿を見て、一人一人の名をあげて祈ることです。しかし、色々なことをやればやるほど、まだ足りないのではないかという不安が広がり、ますます焦り、「わたしがこんなに一生懸命にやっているのに、みんなは分かってくれない」と苛立ちを覚えたり、そうかと思うと「わたしのような能力のない牧師では、荒川教会を潰してしまうのではないか」と恐れの中に深く心を沈めて落ち込むのでした。

 そういう行き詰まり、落ち込みの中で、ハッと気づかされたのです。何とかしなければいけないと、自分で色々なことをやろうとするからいけないんだということです。教会というのは、神さまのものです。荒川教会に集う信徒ひとりひとりは神さまの羊の群れです。それをわたしのごとき人間が何とかしなければダメになってしまうとか、何とかすることができるはずだと思うことが傲慢だということに気づいたのです。荒川教会は、神さま御自身が一番愛してくださっています。神さま御自身がこれを守り、支え、導こうとしてくださっています。そのような神さまの御心とお力を無視して、わたしは「自分が神さまのためにこれを何とかしなければ、教会が潰れてしまう」なんてことを考えていたのです。愚かなことでした。傲慢なことでした。そして、罪深いことでありました。

 そうです。わたしはその時、すべては自分の罪のせいだと思ったのです。その罪というのは、人を躓かせてしまったという類の過ちのことではありません。過ちは生きているかぎり、わたしに付きまとうでありましょう。あるいは何か不道徳なことをしたり、不真面目や不熱心であったということでもありません。逆に、わたしは、ある意味では今よりも一生懸命だったのです。しかし、わたしが罪だと感じたのは、まさしくその「一生懸命さ」でありました。それはいったい何に対する一生懸命さであったのか? 「神さまのために」。「教会のために」と、自分で思っていました。でも、よく自分の心を探ってみると、違うのです。自分がやらなければいけないという責任感。自分の働きを実らせたいという野心。神さまや人から自分を評価してもらいたいという名誉心。自分が教会を潰してしまうのではないかという不安や恐れ。そういうものに駆り立てられた一生懸命さだったのです。それを「神のために」「教会のために」という大義名分でくくって、自分を納得させていただけだったのです。

 一生懸命な働きも、方向を間違えれば罪になるのです。これは大事なことです。信徒ひとりひとりのために名をあげて神の祝福と守りを祈ることは悪いこととは思われません。良い説教をするために、たくさんの勉強をすることも悪いこととは思われません。むしろ善いことだと思うでしょう。しかし、それが落とし穴でありまして、善いことだと思っているからその中に潜む不信仰に、罪に、気づきません。たとえ善いことをしているように思えても、それが罪になることがあるのです。「自分はこんなに善いことをしているのに、なぜみんなは分かってくれないのか」とか、「自分はこんなに祈っているのに、なぜ神さまを聞いてくれないのか」とか、「もっともっと善い業をしなければダメなんじゃないか」と、そういう思いの中に、いったいどんな信仰がありましょうか? 神さまの愛なる深い御心に信頼し、神さまの御力に依り頼んでいないところに、どんな信仰がありましょうか? 

 たとえ善い業だとしても、それが結局は自分の牧師としての名をあげるためであったり、自分の恐れや不安を払拭するためであって、神の栄光のみを求めているのでないとするならば、それは不信仰であり、不信仰は罪なのです。イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人たちの業を見て、「偽善者よ」と厳しく叱責されましたが、それと同じです。どんなに善い業をしているようであっても、その心がどこにあるのか。それが問題なのです。

罪とは何か
 一般的に、罪というのは悪い仕業をすることだと思われがちですが、実は、そうではありません。人殺し、泥棒、嘘、姦淫、親不孝、傲慢、貪欲、不従順、偶像礼拝・・・罪というのは、いろいろ複雑な形をとります。しかし、その本質は、神さまの愛なる御心を拒絶することなのです。

 神さまはわたしたちに惜しみない愛を注いでくださっています。愛をもって、わたしたちを形作られました。愛をもって、わたしたちに人生を与えてくださいました。愛をもって、わたしたちにこの世界を与えて下さいました。そして、わたしたちの度重なる過ちもすべて赦し、愛をもって語りかけ、支え、導いてくださっています。神さまの愛に欠けたることはありません。神さまの愛は変わることがありません。完全な愛、永遠の愛です。そのような神さまの愛をもって、わたしたちは愛されているのです。

 このようにわたしたちを愛してくださる神さまが、わたしたちに望んでおられることはただひとつ、わたしたちがその神さまの愛を喜び、信じ、身をゆだね、神さまの愛にまったき幸せを感じて生きることなのです。

 しかし、人間というのはそういう神さまの愛を邪険にし、疑い、迷い、拒絶してしまう、愚かで、憐れな存在なのです。たとえば、神さまは「わたしの恵みはあなたに十分である」(『コリントの信徒への手紙二』第12章9節参照)と言われるのに、「いや、わたしにはあれがありません。これがありません」と言い張ってしまう。「あなたはわたしの目に高価で貴い」(『イザヤ書』第43章4節参照)と言われても、「いや、わたしなんか愛される値打ちがありません」と言い張ってしまう。「あなたを価なく愛する」(『ローマの信徒への手紙』第5章8節参照)と言われても、「いや、神さまに愛されるためには、あれをしなければ、これをしなければ」と、自分の心が壊れるまでに働いてしまう。「何でもわたしに求めよ」(『ヨハネによる福音書』第14章13節)と言われるのに、「いや、こんなことまで神さまに求めるのは申し訳ない」などと妙な遠慮を働かせてしまう。どうして、こうも人間は神さまの求め給うことと逆のこと、逆のことをしてしまうのでありましょうか。

 人間同士にしたってそうですが、愛しても愛してもそれを信じてもらえない、受け取ってもらえない、ということは、何よりも辛く哀しいことなのです。神さまの愛が疑われ、ねじ曲げられ、試され、拒絶され、捨てられてしまう。神さまが、人間の罪だと言っておられることは、そのことなのです。

 先ほど申し上げましたわたしの罪というのも、そうなのです。神さまのために、教会のためにと言いながら、少しも神さまの愛に信頼していなかった。自分がしなければとか、自分なんかダメだとか、あの人が悪いんだとか、そんなことばかりを考えて、恐れや不安を増幅させていたのです。

 恐れや不安、これが罪の証しです。神さまの愛を喜び、信じ、そこに身をゆだねていれば、恐れや不安はないのです。まったき安息にわたしたちは包まれるでありましょう。神さまの愛は完全で、永遠だからです。それを信じず、試し、迷い、ねじ曲げ、拒絶するところに、恐れや不安が生じるのです。

 ですから、『ヘブライ人への手紙』3章19節は、《彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであった》と語るのです。神さまの愛を信じないことが不信仰なのです。そして、その不信仰は神さまに対する罪なのです。神さまに対する罪ということは、神さまが傷つけられ、苦しみ、悲しみ、怒っているということです。その罪が、わたしたちに恐れや不安を与えているのです。
約束は続いている
 では、そのような罪の中にあり、神さまの怒りの中にあり、日々、恐れと不安に苛まされているわたしたちはどうしたらいいのでありましょうか。どうしたら、罪を赦され、一度、疑い、捨ててしまった神さまの愛を再び受けることができるようになるのでしょうか。そして、恐れや不安から解放され、神さまの愛の中にある安息に入るためにはどうしたらいいのでしょうか。そのような道は、まだ残されているのでありましょうか。

 今日お読みしました4章1節にはこう書かれているのです。

 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。

《神の安息にあずかる約束がまだ続いている》とあります。わたしたちは神さまの愛を信じず、拒絶し続け、それによって神さまの傷つけ、苦しめ、悲しませました。そんなわたしたちを、神さまはまだ御自分の愛の中に戻ってくるようにと招き続けてくださっているというのであります。

 今日は『ホセア書』第11章を合わせて読みました。1-4節までに、神さまがイスラエルをどんなに心を砕いて愛したかということが書かれています。

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
 わたしが彼らを呼び出したのに
 彼らはわたしから去って行き
 バアルに犠牲をささげ
 偶像に香をたいた。
 エフライムの腕を支えて
 歩くことを教えたのは、わたしだ。
 しかし、わたしが彼らをいやしたことを
 彼らは知らなかった。
 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
 彼らの顎から軛を取り去り
 身をかがめて食べさせた。


 しかし、そうやって愛してきたのに、イスラエルは神さまの愛を信じようとしません。疑い、迷い、ねじ曲げ、踏みにじるのです。だから、神さまは怒ります。5-7節

 彼らはエジプトの地に帰ることもできず
 アッシリアが彼らの王となる。
 彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
 剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
 たくらみのゆえに滅ぼす。
 わが民はかたくなにわたしに背いている。
 たとえ彼らが天に向かって叫んでも
 助け起こされることは決してない。


 わたしがどんなに愛を伝えても、それを受けとろうとしなかったから、あなたがたは愛なく滅びるだろう。もうあなたがたがどんなに叫んでも、わたしは耳を傾けないし、助けもしないぞという、心かたくななイスラエルに対する神さまの激しい憤り、絶望が、ここに記されています。

 しかし、その直後に、神さまは言葉を翻して、こう言うのです。

 ああ、エフライムよ
 お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ
 お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て
 ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ
 憐れみに胸を焼かれる。
 わたしは、もはや怒りに燃えることなく
 エフライムを再び滅ぼすことはしない。
 わたしは神であり、人間ではない。
 お前たちのうちにあって聖なる者。
 怒りをもって臨みはしない。


 神さまは、ご自分の愛を受け入れない者たちに「もう、お前たちのことなんか知らない」と言っておきながら、すぐに「ああ、やっぱりお前たちを見捨てられない。滅びに引き渡すなんてことはできない。」と、限りない愛を吐露されているのです。そして、神さまのお心の中で、激しい怒りの炎が、そのまま憐れみの炎と変じて燃え上がるということが言われています。ご自分を愛を蔑す者たちに対して激しい怒れば怒るほど、その怒りを憐れみに変えて愛の炎を燃やされるのです。

 そして、その愛の極みがイエスさまの十字架です。御独り子なるイエスさまの命を犠牲にしてまでも、わたしたちの救いの道をお開き下さったのです。『ヨハネの手紙1』4章9-10節をお読みいたします。

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 神さまは、ホセア書に示されていたような罪をさえ呑み込んで愛してしまうような激しい愛をもって、わたしたちを愛してくださっていることをお示しになるために、イエスさまをお遣わしになったのだと書かれています。ただお示しになるだけではありません。《その方によってわたしたちが生きるようになるためです》とあります。神さまの愛を蔑す愚かな罪人であるわたしたちが、イエスさまを知り、イエスさまのうちに神さまの愛を見いだし、十字架の愛、復活の力によって新たに生まれ変わって生きるようになるため、そのためにイエスさまは来てくださったのだということです。
福音
 だから、神さまの安息にあずかる約束はまだ続いている。わたしたちに与えられている、ということなのです。続く2節にこう記されています。

 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。

 イスラエルの人たちには、乳と蜜の流れる約束の地が与えられると告げ知らされていました。同じように、わたしたちにも神の安息に与ることが約束されているという福音が告げ知らされていると言うのです。

 福音とは、イエスさまがしてくださったこと、してくださること、その二つによってわたしたちが救われるということです。もっと端的に言えば、イエスさまが救い主であり、福音そのものだということのです。「神、御子によって我らに語り給へり」ということであります。 

 その際、大切なことは聞くということなのです。これは以前にも申しました。聞くというのは、耳で聞けばいいということではありません。いくら耳にしても、それを拒絶していたら聞いたということにはならないのです。聞くということは、聞いたことを受け容れるということです。3章7-8節に、そして3章15節に、それから4章7節にも、一つのことがくり返されています。

 今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
 神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。


 大事なことだから、三回もくり返されているのです。《神の声》を聞いて、心をかたくなにして聞き入れなかったから、意味がないからです。

 けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。

 これも同じことを言っているのです。神さまの言葉が、信仰によってわたしたちの生活、心にしっかりと結びつくことが大事なのです。結びつくというのは混じり合うという意味でもあります。わたしたちの生き方が神さまの言葉を受け容れることによって変わるということです。

 15年前、わたしは自分の罪に気づきました。そして、自分が何をしてきたのか、自分に何ができるのかということではなく、イエスさまのしてくださったこと、してくださること、そこに徹底的に立たなければいけないということを思い知らされました。そして、それを実行するために、少々極端なことをしたのです。それは、いったん自分の働きをすべてやめるということです。たとえば教会員を訪問することや、祈ること、説教のために本を読んで勉強すること、そういうこともやめました。そして、神さまはいったいわたしに何をせよとお命じになっているのか、そのことを、聖書を読み、祈り求めることに専念したのです。

 正直言って、簡単なことではありませんでした。自分が命綱だと思ってしがみついていたものから手を離すことだからです。しかし、それをしなければ今までと何も変わりません。本当に思いきって手を離しました。すると次第に、神さまはわたしに新たな力をお与え下さり、為すべきことをお示し下さるようになったのです。

 わたしがすべきことは、神さまの示し給うことを聞き分けることと、それに従うことだけになったのです。そうしますと、やっぱり忙しくなるし、ミスもしますし、一生懸命にやってもうまくいかないときもあるのですが、そのことでくよくよしなくなりました。神さまがしてくださっている。神さまがすべての責任を取っていてくださると信じているからです。わたしに求められているのは、より優れた業をすることではなく、神さまに与えられたことを忠実に果たすことだからです。それがひとの目につかない小さな働きであろうと、はたまた自分の手に負えないような働きであろうと、あまりそういうことを考えずに、神さまに言われたことをしているのだという気持ちで働くことができるのです。

 働きには、命を豊かにする働きと、命のために必死にならなければならない働きがあります。罪人に与えられた神さまの呪い、つまり神さまの愛を拒絶した人に与えられた神さまの呪いは、創世記3章17-18節にあります。

 神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
 取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して
 土は茨とあざみを生えいでさせる
 野の草を食べようとするお前に。
 お前は顔に汗を流してパンを得る
 土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。
 塵にすぎないお前は塵に返る。」


 一生涯、食べるために悩み、労苦し、多くの徒労を重ねなければならないということであります。別の言葉で言えば、安息のない人生です。しかし、神さまはそういうわたしたちをもう一度、ご自分の愛と祝福の中、安息の中に帰らせてくださると約束してくださった。それが福音なのです。イエスさまなのです。4章3節にこう書かれています。

 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。

 イエスさまを信じるならば、わたしたちは生きるための労苦、徒労から解放され、生かされている喜び、命を豊かにする働きのために用いられるようになるのです。それが神の安息です。どうぞ、イエスさまを信じて、イエスさまをわたしたちの安息日の主としてお迎えしたいと思います。

 
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