|
|
|
「蟻とキリギリス」という寓話があります。蟻は、暑い夏の盛りも、地道に一生懸命に働きました。そして、厳しい冬のための蓄えもできました。他方、キリギリスは、熱い日中は葉陰で昼寝ばかりをし、風の涼む夕方になるとバイオリンを弾き、毎夜のように舞踏会を楽しんでいました。やがて寒さの厳しい冬になります。遊んで暮らしていたキリギリスは、食糧難に陥り、蟻の家に助けを求めます。けれども、大家族の蟻には、キリギリスを養うゆとりなどとてもありません。キリギリスは夏の間、怠けて遊んでばかりいたせいで、冬を越せなかったと、だいたいこういうお話しです。
わたしも子どもの頃に、このお話しを聞いて、「ああ、遊んでばかりいてはいけないんだな。みんなが遊んでいる時にも、地道に、勤勉に働き続けることこそ正しいことで、いざという時に身を守ることなんだ」という思いを持ちました。わたしだけではなく、多くの子どもたちがこのお話しを聞いて、働くことこそ善いことで、遊ぶことは悪いことだという教訓を得たのではないでしょうか。
けれども、この教訓は正しいでしょうか。兼好法師は働き者の蟻をみて、イソップとはまったく逆のことを考えました。『徒然草』の七十四段に、こういう随筆があります。
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕べに寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事かを待つ。期する処、ただ、老いと死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。
わたし流に現代訳を申し上げたいと思います。
「身分の高い人も低い人も、老いた人も、若い人も、みんな蟻のようにあっちに行ったり、こっちに行ったり、群がったりして、朝から晩まで生きるためには働かなきゃ、稼ぐためにはもっと働かなきゃ、といって、ちっとも休むことができない。だけど、そんな風に休みもせず働いていても、後に待っているのは老いと死だけじゃないか。人生、老いることも死の訪れも、あっという間だぞ。それなのに地位や名誉を追い求めたり、金や物を追い求めたり、一生を心を迷わせて過ごす人や、あるいはまた年をとりたくない、死にたくないと、自然の理を認めず、なんとか年をとらない方法はないか、死なないで生き続ける方法はないかと、やはり一生を悲しんでばかりいる人もいる。いったい、そんな人生に何の楽しみがあるというのだろうか」
兼好法師は、働くことや健康を気遣うことなんて、人生においてつまらないことだと言っているのではないのです。あるいは、どうせ死ぬんだから、刹那の楽しみ、喜びだけを追い求めていればいいじゃないかと言っているのではないとも思うのです。「何の楽しびかあらん」というのは、人生の意味について問うているんですね。同じようなことを言っているのが、三十八段です。長いので最初の部分だけ紹介します。
名利に使わはれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るにまどし。害を買い、累(わづらひ)を招く媒(なかだち)なり。
また、わたし流に現代訳になおしてみます。
「地位とか、名誉とか、財産にとらわれて、静かに人生を過ごす暇がない。かえって人生を苦しめるばかりなんて愚かなことだなあ。財産が多いと、そればかりに気をとられて、自分自身というものを失ってしまう。財産のせいで災いや悩み事ばかり増えてしまう。そういうものだよ。」
「財多ければ、身を守るにまどし」。「まどし」というのは貧しいという意味ですが、財産を守ろうとするあまり、自分自身を守ることができなくなってしまう、つまり自分らしく生きることができなくなってしまうということが問題にされているのです。「何の楽しびかあらん」というのも「閑かなる暇なく」というものも、決して人生を安楽に過ごせということではなく、自分が自分らしく生きることができない人生に、いったいどんな意味があるのかということなのではないでしょうか。
もう一つ紹介したい文章があります。高村光太郎の『智恵子抄』にある「人に」という詩です。
「人に」
遊びぢやない
暇つぶしぢやない
あなたが私に会ひに来る
―画もかかず、本も読まず、仕事もせずー
そして二日でも、三日でも
笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き
さんざ時間をちぢめ
数日を一瞬に果たす
ああ、けれども
それは遊びぢやない
暇つぶしぢやない
充ちあふれた我等の余儀ない命である
生である
力である
浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える
八月の自然の豊富さを
あの山の奥に花さき散る草草や
声を発する日の光や
無限に動く雲のむれや
ありあまつ雷霆(らいてい)や
雨や水や
緑や赤や青や黄や
世界に吹き出る勢力を
無駄づかいと何(ど)うして言へよう
あなたは私に躍り
私はあなたにうたひ
刻刻の生を一ぱいに歩むのだ
本を抛(なげう)つ刹那の私と
本を開く刹那の私と
私の量は同じだ
空疎な精励と
空疎な遊惰とを
私に関して聯想してはいけない
愛する心のはちきれた時
あなたは私に会ひに来る
すべてを棄て、すべてをのり超え
すべてをふみにじり
又嬉々として
高村光太郎と智恵子の愛の詩であります。光太郎のもとに智恵子がやってくると、光太郎は何かもなげうって智恵子との二人の時間を満喫したのでありましょう。その時は、画を描くこともやめ、本を読むこともやめ、仕事も忘れて過ごした。しかし、それは「あそびぢやない」「暇つぶしぢやない」と言います。つまり、怠惰に無意味な時間を過ごしているのではないという意味でありましょう。それどころか、このように二人が愛し合うということは、「充ちあふれた我等の余儀ない命である」というのです。つまり、二人が自分らしさを得て、自分らしい命を高め、豊かにするための大切な時間であるということでありましょう。
|
|
|
|
|
兼好法師も、高村光太郎も、人生には仕事以上に大切なことがある、それは自分らしく生きることだと言っているわけです。そのためには兼好法師は人生を楽しむこと、閑かな時間を過ごすことが大切だと言っています。高村光太郎は智恵子と愛し合う時間こそがそれだといっています。わたしはどちらも非常に大切なことに目をつけていると思うのです。
人生を楽しむというのは、旅行をするとか、趣味を持つということじゃありません。生きるということ自体を前向きに、肯定的に捉えるということです。人生には辛いこともある。でも、その中にも、様々な出会いがあったり、親切があったり、神の恩寵があったりするのです。「楽しむ」というのは語弊がありますが、人生における良い面を積極的に評価して、人生を肯定的に捉えるということが、人生を楽しむということなのです。
「閑かな時間」というのも、じっと何もしないでいれば、それで閑かな時間を過ごしたとは言えません。閑かな時間というのは、自分自身が口を閉ざすということです。心配性の人は、何にでも首をつっこみ、口を挟み、結果として問題を自分に抱え込んでしまいます。自分が何かをしなければ気が済まないんです。しかし、人生にしろ、世の中にしろ、自分が思い描いた通りになるわけではありません。自分を超えたものによって左右されることがずいぶんあるのです。運命であるとか、自然の理であるとか、わたしたちの信仰で言えば神さまの御手というものが、わたしたちの人生を左右します。閑かな時間を過ごすとは、そういうものに逆らったり、何が何でも支配しようとするのではなく、運命とか、自然の理とか、神の御心に目を向け、心を開き、受け入れ、身をゆだねる態度ということです。そうすることによって、あるいは自分を中心に半径数メートルぐらいの小さな世界に生きていた自分が、もっともっと大きな世界の中に生かされていることを知ることができるようになるわけです。
それから、高村光太郎の恋愛といいますか、人を愛する時間の大切さということがあります。人を愛するということは、相手に対して自分を押しつけることではありません。相手の存在をあるがままに認めて、それに心を開き、耳を傾け、留保をつけずにそのまま受け入れ、抱くということです。それが男女の恋愛にしても、親子の愛にしても、友情にしても、愛の基本なのです。それが、自分を豊かにしたり、高めたりするのです。
自分の願いを実現させるとか、何かを一生懸命に追い求めるとか、そういう一生懸命さというのは往々にして自分の不安や恐れ、人生や世界に対する否定的な姿勢から生まれてくることがあります。それを克服しようとする一生懸命さなのです。だから、真面目で、几帳面で、勤勉でありましても、少しも自分らしく生きられていないということがあるわけです。自分らしく生きるために必要なのは、その反対にある大らかさ、朗らかさです。自分の人生、自分を取り囲む世界や人々、自分を超えた運命とか神の御心、そういうものに対する朗らかな肯定、前向きな希望、心を開いた愛というものが必要なのです。 |
|
|
|
|
別の言葉でいいますと、まことの安息が必要なのです。不安な人は、心配が多い分だけ忙しくなります。何もしていなくても心が安まらないということも少なくありません。よく言われることですが、「忙」とは心を亡ぼすと書きますように、自分らしさというものをどんどん失っていってしまうわけです。人生を楽しむとか、静かな時間を過ごすとか、愛するとか、それはそのような忙しくて、せわしくて、気の休まらない生活から抜け出して、まことの安息を見いだすということと同じ事なのです。
逆に申しますと、まことの安息というのは、自分が自分らしく生きるということの中にこそあるわけです。安息というのは、週末、休憩時間、休日になれば自然にやってくるものではありません。また身体を動かさずにじっとしていれば安息が訪れるというわけでもありません。安息というのは、自分が自分らしくあるときに与えられるものなのです。
たとえば釣りでも、旅行でも、スポーツでもいい。そこで忙しさに追われている自分を忘れ、自分自身に返るといいますか、自分らしい自分を生きることができるならば、それが安息になるわけです。しかし、今申しました釣りとか、旅行とか、スポーツ、つまり趣味のような類は、必ずいつもできるわけではありません。比較的元気で、時間にも、経済的にも、ゆとりがあればこそ出来ることです。様々な事情で、身体が動けなくなったり、外出できなくなったりすると、たちまち失ってしまう安息でもあるわけです。
しかし、聖書はわたしたちが何があっても失われることのない真の安息があるということを教えています。聖書というのは、《安息日を心に留め、これを聖別せよ。(中略)いかなる仕事もしてはならない》(『マタイによる福音書』第20章8〜10節)とか、《人の子は安息日の主なのである》(『マタイによる福音書』第12章8節)とか、《明日のことまで思い悩むな》(『マタイによる福音書』第6章34節)とか、《人知を超える神の平和》(『フィリピの信徒への手紙』第4章7節)とか、人間が休むことの大切さを教えています。わたしたちに、休め、休めと言っているのです。
|
|
|
|
|
|
しかし、それは怠惰であることとは違います。聖書は休めと命じている他方で、怠惰な生活を厳しく戒めています。カトリック教会では、怠惰は七つの大罪の一つとされ、諸悪の根源だとも言われます。もちろん、聖書にも、怠惰な生活を戒める言葉がいくつも見いだせるのです。たとえば『テサロニケの信徒への手紙二』3章6節にはこう語られています。
兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
《わたしたちから受けた教え》というのは福音のことです。そして、福音というのは、神の安息に入る道であります。それに聞こうとしないこと、受け入れないこと、それが怠惰な生活だと、ここで警告されているのです。もっと分かりやすく申しますと、仕事が忙しいから日曜日に教会にいけない。これが怠惰な生活だということです。なぜなら、それは神の安息に与り、その中で自分らしさを回復し、自分らしい本来の生き方をすることに逆らうものだからです。
今日の『ヘブライ人への手紙』に記されていることも、だいたいそういうことなのです。1-2節、これは先週お話ししたことですが、もう一度読んでみましょう。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
《神の安息にあずかる約束がまだ続いている》と言われています。わたしたちは、神さまの愛に逆らい、自ら神さまとの関係を壊してしまうことによって、神の安息の中に憩う幸いを失いました。しかし、そんなわたしたちを、神さまは「わたしのもとに帰りなさい」と招き続けてくださっているということなのです。
けれども、いくら神さまが招いてくださっていても、その声を聞こうともしないとか、聞いても心を開いて受けとめようとしないなら、意味がなくなってしまいます。神さまの愛の言葉を踏みつけているのと同じなんですね。だから、「気をつけましょう」と言われているわけです。
3-9節はちょっと分かりにくいかと思います。要するに何が書いてあるかと言いますと、昔、イスラエルはモーセに率いられて安息の地を目指して荒れ野の旅をし、モーセの後継者であるヨシュアと共にヨルダン川を渡って安息の地、今のパレスチナに入植しました。しかし、彼らは不信仰のために、神さまが与えてくださった安息の地で、神の安息にあずかることができなかったということなのです。そこに神さまの安息がなかったのではありません。それはすでにあったのです。そして、そこに導かれもしたのだけれども、信仰をもって神の安息に憩うことをしなかったから、台無しになってしまったというわけです。
神の安息がすでにあるのに、それに与ることができない。先週、わたしは15年前の愚かな失敗について語りました。自分の力で何でもやろうとして頑張りすぎたことが、実は不信仰であり、罪であったというお話しです。またその時の話なのですが、わたしはその頃、日曜日というのは最も気の休まらない日でありまして、一週間の中で一番疲れる日となっていました。礼拝が始まる前は、いらした信徒の方々に挨拶をし、礼拝中は誰々が来ていないとか、またあの人は遅刻してきたとか、今日は多いとか少ないとか、そんなことばかりを考え、礼拝が終わったらまた信徒たちに気配りをし・・・つまり日曜日というのは、神さまを礼拝し、神さまの安息を味わう日であるのに、当の牧師が信徒の顔色ばかりみて、さっぱり神さまを礼拝していなかったのです。
そのことに気づきまして、わたしはまずわたし自身が神だけを見て、神を礼拝する者にならなければと思いました。それで、自分を業をやめたというお話しを先週もしたのですが、礼拝前には書斎でひとりで祈ることにし、礼拝中も誰が来ているかということなど一切考えず、ひたすら神さまを礼拝することに思いを集中することにしたのです。そのお陰で、今わたしは日曜日が本当に安息の日になりました。月曜から土曜まで、朝起きてから寝るまで、休む間もないこともあるのですが、日曜日、皆さんと共に神さまを礼拝するという時間において、すべての罪をゆるしてくださるイエスさまの十字架の愛、新しい命を与えてくださる聖霊さまとの交わりという経験して、本当に霊肉が癒され、力づけられる体験をしているのです。
10節に興味深いことが記されています。今日、ぜひ皆さまに覚えていただきたい御言葉です。
なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
神の安息に与る者は、自分の業を休む者だということが言われているのです。あれをしなければいけない、これをしなければいけない、そういう仕事に追われる心や体を一切休ませて、神さまにお任せして、神の安息に憩うということが大事なのです。そうすると、神さまがどんなに深い愛をもって、力強い御手をもってわたしたちを支えてくださっているかが、はじめて分かるのです。自分が頑張っているうちは、それが分かりません。不安や恐れにかられるからこそ、なかなか自分の業を休むことができないのでありますが、それを信仰によって神さまに委ねるのです。そうすると、神さまと共にある安息が分かるようになります。そして自分らしさというものを取り戻して、あれをしなければいけないとか、これをしなければいけないという恐れや不安から自由になって、本当に自分がなすべきことを、自分らしく行うことができるようになるのです。
11節を読んでみましょう。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
《この安息にあずかるように努力しようではありませんか》と語られています。先ほど、安息に与ろうとしないことこそが怠惰なのだというお話しをしました。妙な話かも知れませんが、安息にあずかるためには努力が必要なのです。それから1節には「気をつけましょう」とありました。そういう注意深さ、思慮深さというものも必要なのです。
安息に入るということは、休むということでありますから、いとも簡単なことに思えるかもしれません。しかし、決してそうではないのです。日曜日の礼拝ひとつとってみても、わたしたちには本当に大切なことは何か、本当に自分に必要なことはなにか、そういうことを思慮深く考え、他の用事をさしおいてでも礼拝を守るという決断、選択、努力というものが必要になってきます。それをしないで、この世に身を任せて生きていたら、決して日曜日の礼拝を守る生活などできないのです。毎朝の祈りだってできないのです。結局、神の安息にあずかる道を歩むことを後回しにして、この世のことにかまけた生活になってしまうわけです。忙しい、忙しいと言いながら、神さまの目から見たら、それは神の安息に与り、自分が自分らしくあることを放棄した怠惰な生活でしかないのです。
みなさん、どうぞ安息に与る努力を惜しまないようにしようではありませんか。神の安息の中で自分が自分らしくなるとき、わたしたちはこの世の生活を、人生を心から受け入れ、自分らしさをもって生きていくことができるようになるのです。そのためにも、《今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心かたくなにしてはならない》(第4章7節)と、ヘブライ人への手紙の著者が再三にわたり告げている警告を、きょうもまたしっかりと心に留める者でありたいと願います。
|
|
|
|
|
|
目次 |
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|