ヘブライ人への手紙 18
「キリストは神の御子なれど」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙 第4章14-第5章10節
旧約聖書 詩編 第8編4-5節
人間とは何者か
 人間とは何者でしょうか? 科学者、宗教者、哲学者、文学者、様々な人たちが、それぞれの言葉をもって、その答えを出そうと試みています。わたしはそういうものを読み尽くしたわけではありませんが、これまで読んだ本の中で、たいへん教えられたのはスイスの生物学者アドルフ・ポルトマン(1897〜1982)が書いた『人間はどこまで動物か ―新しい人間像のためにー』(岩波新書)という本です。

 アドルフ・ポルトマンは、生物学者としての科学の目をもって、進化論を鵜呑みすることに警鐘をならしています。それは、人間の尊厳や価値を貶めることになるし、実際にそうなっているというのです。ポルトマンが指摘しているのは、進化論が生み出した優生思想の害悪です。優生思想というのは、悪質な遺伝子をもった人間を淘汰し、優良な遺伝子をもった人間を残していけば、人類はもっと優秀になるとか、社会はもっとよくなるという考え方です。

 最悪の例がナチスのホロコーストです。ヒトラーは、ユダヤ人を悪質な遺伝子を持つ民族と決めつけ、これを淘汰しようと大量殺戮を実施いたしました。このように自分たちに支障となる遺伝子を持つ人間を淘汰することによって、自分たちの遺伝子を守ったり、より進化させたりすることができると信じているのが優生思想なのです。

 日本にも優生思想は存在します。つい10年前まで「優生保護法」という法律がありました。その第一条には、はっきりとこう書いてあります。

 「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。」

 「不良な子孫の出生」、その意味は精神病や障害者や遺伝病をもった人たちの子どもたちのことです。まったく間違ったことで、とんでもない話ですが、そのような子どもたちが生まれることを防止するために、不妊手術であるとか、人工中絶をすることを定めた法律なのです。それが1996年に廃止されるまで存続していたのでした。

 さすがに今はそのような考えはないだろうと安心してはいけません。出生前検診で遺伝病や障害者の誕生を防止したり、不妊治療の名を借りた体外受精でも優秀な遺伝子を掛け合わせたり、あるいは微妙な問題ですが脳死による臓器移植なども一方の命と他方の命の価値を比較するような危険が伴うのです。

 こういうことが、実はダーウィンの生物は淘汰によって進化するという説から生まれてきています。ポルトマンは、それが人間の命の尊厳と価値を貶めていると言うのです。

 ポルトマンは生物学者として、人間の独自性を解明します。多くの生物学者が人間と動物との共通点に注目した研究をするのに対して、彼は人間と動物との違いに注目した研究をしました。その内容についてここで詳しく触れることはできませんが、一番重要な彼の発見は、動物の常識からすれば、人間はかなり早産の状態で生まれてくるということです。たとえば霊長類の妊娠期間は、チンパンジーが230日、オランウータンが275日、人間が266日です。日数にほとんど違いありませんが、生まれてくる時の赤ちゃんの状態が違うのです。猿の赤ちゃんは、生まれたときから各器官が発達しており、運動能力が備わっています。ところが、これは皆さんもよくご存知だと思いますが、人間の赤ちゃんは目も明いていないし、自分の力でお乳のありかを探すことも、お母さんにしがみつくこともできません。お母さんが赤ちゃんを抱きあげ、乳房を含ませてやるとやっと反射的にお乳を吸うことができることと、何か不快なことがあるときに泣くということぐらいしかできないのです。猿などに比べるとまったく無能力で無防備な状態で生まれてくるわけです。そして、自分で歩けるようになるまでの約1年間は、子宮という閉ざされた中ではなく、お母さん(あるいは他の人)との関わりの中で、あるいは世界の刺激の中でゆっくりと成長していくのだというわけです。

 他にも人間と動物の著しい違いを示す発見があるのですが、もう一つわたしが興味をもったのは、動物の身長、体重の増加というのは、最初に急速に発達して、生殖機能が完成したところで緩慢になり、やがて止まります。ところが人間というのは逆なのです。最初はゆっくりと成長し、生殖機能が備わるころになって急速に成長し、子供が生まれるようになってからしばらくは成長し続けるのです。そして、この成長期というのは人間の精神が形成される時と重なると指摘されています。つまり性欲的なものが、単に子孫を残すだけのものではなく、精神活動全般に影響を与えるものとなっているということなのです。

 たとえば愛でありましょう。人間が異性を求め、惹かれ合うのは子孫を残すことだけが目的ではありません。もっと精神的なことです。また愛というのは男女の愛だけではなく、友情や家族愛や人類愛というものがあります。そういうものも、直接的に性欲に結びつくわけではありませんが、この時期に大きく発達するのです。

 また人間が非常に無能力、無防備の状態で生まれてくるということも、人間が自分のか弱さを慈しんでくれる愛の中で育まれる存在であり、その点が他の動物とまったく違うのだということを示しているのではありませんでしょうか。弱き者を弱き者であるがゆえに愛せざるを得ない。それが人間なのです。ですから、弱き者を淘汰して、強き者だけが生き残れば人類は進化するなどという優生思想はとんでもないことなのです。

 また、ポルトマンは、人間と動物の行動様式の特徴を比べて、環境や本能に縛られている動物に対して、人間は環境や本能に対して開かれ、決断する自由を持っているということも言っています。人間にも動物的な本能があるわけですが、それに縛られないで自由な決断をもって生きることができるということです。

 人間の尊厳が愛と自由にあるということはよく言われることであります。それが生物学的にも証明できるということを、ポルトマンは示してくれているわけです。
愛と自由、そして罪
 愛とは何でしょうか。命に価値を与えるものでありましょう。優生思想には、淘汰されるべき命と保存されるべき命があります。言ってみれば価値のない命と価値のある命があるのです。この自然界にはそういう原理が働いているのかもしれません。しかし、人間は、その限りではないのです。愛の原理をもって生きることが出来る。小さき者、弱き者、顧みられない者を愛し、その命をかけがいのないものにすることができる。それが人間です。

 先天的に手足がなく生まれてきた乙武匡洋さんが書かれた『五体不満足』という本があります。そこにこんな話があります。

 本来ならば、出産後に感動の「母子ご対面」となる。しかし、出産直後の母親に知らせるのはショックが大きすぎるという配慮から「黄疸」という理由で、母とボクは一ヶ月間も会うことがゆるされなかった。・・・対面の日が来た。病院に向かう途中、息子に会えなかったのは黄疸が理由ではないことが告げられた。やはり母は動揺を隠せない。結局、手も足もないということまでは話すことができず、身体に少し異常があるということだけに留められた。・・・病院でも、それなりの準備がされていた。血の気が引いて、その場で卒倒してしまうかもしれないと、空きベッドがひとつ用意されていた。父や病院、そして母の緊張は高まっていく。「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。「かわいい」―母の口をついて出た言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配は、すべて杞憂に終わった。

 動物の世界では障害をもって生まれてきた子は淘汰されても仕方がない命に入るのかも知れません。しかし、人間においては違うのです。愛が働くからです。

 自由とは何でしょうか。束縛から解放されることだけが自由ではありません。自分の生きる道を自分で決断することができるということです。たとえば障がい者の子供を産み、育てるという決断は、ある意味では多くの苦難を背負うことを決断することになるかもしれません。それによって自分の自由な時間や活動が制約されることかもしれません。しかし、喜んでそれをしよう、喜んでその束縛、不自由さの中に身を置こう、それに自らを従わせようという、自由な決断をすることができる。それがわたしたちの持つ自由です。感情や衝動に任せてやりたい放題をすることが自由ではないのです。自ら選んだ道、受け入れた道に、自分を従わせることができる。それが自由なのです。

 人間もまた、他の動物と同じように自然界の中に生きるものでありますが、他の動物とは違って、このような愛を自由をもって生きることができる。それは、聖書によれば、神さまが人間をそのような特別な存在としてお造りになったからであるということなのです。

 神は御自分にかたどって人を創造された。(『創世記』第1章27節)

 人間は神の形に作られました。その神の形とは何かということはいろいろと言われますが、人間だけが特別に備えている愛と自由も、神の形の反映であるに違いありません。逆に言うと、神さまが愛と自由を持ったお方であるからこそ、その似姿に作られた人間には愛と自由があるのです。

 ただし、聖書が語る人間は、それだけの存在ではありません。そのような神の形に造られた人間が、今は恐るべき罪の中にあると、聖書は繰り返し語ります。罪とは、神さまの愛に対する拒絶、裏切りです。事もあろうに人間は、神さまに与えられた愛と自由をもって、神ではないものを愛し、選び、そこに身を置いて生きるものとなってしまったのです。それによって人間のもっている愛は憎しみやエゴや偶像礼拝へと墜ち、自由は裏切りや逃避や我が儘や気ままな放縦生活へと墜ちてしまったのです。

 聖書はこう語っています。

 彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。(『ローマの信徒への手紙』第1章20-24節)

 簡単に申しますと、人間は愛と自由という素晴らしい性質を神さまにいただきながら、罪のゆえに、愛すべきものを愛すことができない、なすべきことをすることができない、そういう不幸な状態に陥り、自らを貶め、どうにもならなくなっているのだというのです。

 人間は時として天使の心を見せ、時として悪魔の心を見せます。線路に落ちた人を助けようとして自らの命を落とした人の話を聞けば天使のごとき人間の心を思いますし、自分のエゴで無差別殺人を行うような人の話を聞けば、悪魔のごとき人間の心を思います。もともと人間が善なるものか、悪なるものかと言えば、聖書は善なるもの(神の形)であると言うのです。しかし、神さまを神としない罪が人間を悪なる者(罪人)にしてしまったのです。それが人間に多くの不幸をもたらして、わたしたちの人生を慰めのない悲しみに満ちたもの、希望のない不安と恐れに満ちたものにしてしまっているのです。

神さまのところに帰る道
 それならば、もう一度、神さまのところに帰ればいい。その通りなのです。しかし、どうすれば神さまのもとに帰れるのか? そもそもそのような道があるのか? あるとしたら、その道はどこにあるのか? それを示しているのが聖書の福音です。聖書の内容には、歴史あり、戒律あり、格言あり、預言あり、と色々なことが書かれているように見えますが、すべてのことはわたしたちが神さまのもとに帰る道はここにあるのだということを教えている福音なのです。

 先週に引き続き、今日もお読みしました『ヘブライ人への手紙』4章14節にはこう書いてありました。

 わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

 《偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている》とあります。大祭司とは何でしょうか。一言でいえば、神さまと人間の間を橋渡しする人なのですが、5章1-4節に大祭司とはいかなる職なのか、いかなる人なのかが書かれています。これについては簡単にまとめてみることにしましょう。

@ 大祭司は人間の代表として罪の償いの献げ物をささげ、神に仕える者である。

 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。(5章1節)

A 大祭司もまた罪人であり、それゆえに罪人を思いやることができるような人間でなければならない。

 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。(5章2-3節)

A 大祭司は人間の中から神が選ばれた者である

 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。(5章4節)

 大祭司とは、罪人を思いやり、罪人のために神に償いの献げ物をし、神に仕える職務であるということです。しかも、大事なことは、神の側からそのような大祭司を立ててくださったということです。その意味するところは、神さまの側には、わたしたちを赦し、愛し、再び神の子どもらとしてくださる用意があるということに他なりません。。そのために神さまの側から橋渡しをする人間を選んでくださった。それが大祭司です。

 そして、そのような大祭司の中の大祭司、偉大な大祭司として、わたしたちにはイエスさまが与えられているのだというわけです。それは、『ヘブライ人への手紙』の冒頭で、「神、御子によって我等に語り給へり」と言われていることに通じます。神さまは御子の命を、わたしたちの大祭司としてお与え下さったのです。

 4章16節を読んでみたいと思います。

 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 わたしたちが神さまのところに帰るために、神さまの御子であるイエスさまが、わたしたちの偉大な大祭司として与えられている、この方の御業と御恵みにより頼むことが、神さまのところに帰る道なのです。だから、イエスさまを信じ、その憐れみにすがり、恵みを受け、折々に助けもいただいて、神さまの恵みのもとに立ち帰ろうと、本書は呼びかけているのです。

御子なれど・・・

 しかし、大祭司は人間の代表でありますから、人間でなければなりません。しかも罪を知る者でなければなりません。それゆえ、イエスさまは神と本質を同じくする御子でありながら、わたしたち人間と同じものになられたのです。

 最初に、人間とは何かということを申しました。愛と自由を持つ者だというお話しをしました。それはそうなのですが、神さまが人間になるということは、どういうことなのでしょうか。愛と自由をもつとか、そういうことでないことは確かです。聖書にはこう書いてあるのです。7-10節

 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

 激しい叫び声をあげ、涙を流し、死からの救いを祈り、願い、多くの苦しみに耐えて生き、その中で神への従順を学ばさせれる。それが人間である。神の御子が人間になるとは、そのような者になることだと言うのであります。

 イエスさまは、病人をいやしたり、死んだ人を甦らせたり、嵐を鎮めたり、多くの奇跡を行われました。しかし、イエスさまが完全な者となり、永遠の救いの源となり、わたしたちを救える大祭司と呼ばれる理由は、そのようなことにあるのではないのです。神の御子であるにもかかわらず、貧しさを嘗め尽くし、家族にも理解されず、最も信頼する友に裏切られ、見捨てられ、正しさを、善なる精神を、愛を、踏みにじられ、罵られ、嘲られ、鞭打たれて、十字架にかけられ、「わたしは渇く」と言って絶命されたイエスさま。悪魔の誘惑に悩まされ、血がしたたるような汗を流して祈り、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスさま。このようなイエスさまのうちにこそ、わたしたちが崇める救い主の姿があるのだということなのです。

 なぜならば、そこにおいてこそイエスさまとわたしたちが一つになれるからです。イエスさまは確かに愛と自由の人であられました。その愛と自由をもって、御自身をそのような弱さ、小ささ、そして罪のドロドロとした汚らわしさ、恐ろしさの中に身を置かれたのです。それが十字架です。わたしたちの偉大なる大祭司が、わたしたちの罪を贖うために献げてくださった尊きいけにえです。

 《キリストは御子であるにもかかわらず》・・・どうぞ、そこに現された神さまの大いなる愛、イエスさまの限りなき恵みを思い、わたしたちの信仰をしっかりと保ち、大胆に神の恵みの御座に近づこうではありませんか。イエスさまがわたしたちと同じ者になってくださったのは、そのためなのです。
 
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