ヘブライ人への手紙 19
「教えの初歩に止まることなく」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙5章11〜6章3節
旧約聖書 創世記12章1-4節
成熟を目指して進もう
 聖書を読んでおりますと、ときどき「おや? これはいつも教会で聞いている話とちょっと違うぞ。矛盾しているんじゃないか」と思わされることがあります。私が、聖書を読み始めた頃、そんなことを感じた箇所のひとつが、今日お読みしました第6章1-2節にあります。

 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。

 《成熟を目指して進みましょう》というのは、その通りだと思うのです。けれども、悔い改め、神への信仰、洗礼、按手、死者の復活、永遠の審判、このような信仰上の基本的な教えは、もう学ばなくてもいいと言い切れるものなのでしょうか。いつまでも、そんな初歩を、繰り返し学んでいるから、あなたの信仰は成熟しないのだというのは、すこし乱暴過ぎる話だと思わされるのです。当時、私が通っておりました教会は、長老主義教会のひとつでした。そこでは、このような教理的なことを繰り返し学ぶことを、とくに大事にしていました。ですから、「おや? これはどういうことだろうか。教会で大切だと言われていることが、ここでは否定的に書かれているではないか」と思ったのです。

 今は、そんな風には思いません。ここで言われているのは、基本を軽んじるとか、繰り返し学ぶことが無意味だという意味ではないのです。『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに訴えていることは、知識を勉強すれば、信仰が成長していくわけではない、ということなのです。知識の勉強とは、頭でする勉強のことです。頭でする勉強は、広い意味での学びからすれば、学びの一部に過ぎません。つまり、「体で覚える」という学びもあるのです。

 先日、東支区の牧師会があり、「牧師の成長」というテーマで互いの経験を聞き会い、とても有意義な時を過ごしました。みんな違う経験をもっておられますけれども、共通して言えることもありました。誰もがたくさんのことを勉強して牧師になるわけですが、それはようやく牧師としてのスタートラインに立ったということに過ぎません。本当の意味で牧師になるためには、実際に神様に遣わされた教会の現場の中で、あるいは家庭を築いていく中で、あるいは自分自身の魂の問題と向き合いながら、迷ったり、打ち砕かれたりしながら、目が開かるような信仰的な経験が必要だった、ということです。牧師になるための学びは、知識として学びに終わらず、身をもって学ぶこと、つまり鍛錬が必要だったのです。

 ところで、牧師として鍛錬されるということは、信仰者として鍛錬されるということであります。牧師も、ひとりの信仰者なのです。信仰者として生きていく中で、神様から「牧師になりなさい」という召しを受け、この召しにこたえて牧師となります。神の召しに応えるという、信仰者としての生き方のなかで、牧師となる学びをし、牧師としての鍛錬を受け、成長していくのだと言えます。そして、それがひとりの信仰者としての成長と重なるのです。

 個人的なことからお話しますと、牧師であることだけが、自分の神様の召しだと思っていません。支区の中での役目もあります。荒川区内の教会の交わりの中での役目もあります。からしだねの家の後援会の会長という役目もあります。家庭における親としての役目、親に対する子としての役目など、いろいろな役目があります。それらのものすべてが、神様に遣わされた場所だと信じ、その召しにこたえて、神様への信仰と祈りをもって生きていくのが、自分のあり方だ信じています。皆さん場合も、教会の信徒として生きることだけが、信仰者として生き方ではないはずです。皆さんは、牧師ではないからといって、神様の召しを受けていないのではありません。皆さんも、家庭に、社会に、いろいろな役目を負って生きておられることのでありましょう。皆さんが今生きておられる場所、その現実、それこそが神様に遣わされた場所であり、神様の召しなのです。教会の中でそうであるように、そこでも信仰をもって生き、神様の召しにおこたえしようとしなくてはなりません。きっと色々と難しい問題が襲いかかってくるでありましょう。それが、信仰の鍛錬となるのです。そういう時に、信仰者として生き抜くことによって、私たちの信仰が成長し、成熟していくのです。

 もしかしたら、私には何の役目もないと思っているような方がいるかもしれません。それは間違いです。おそらく、自分は世のため、人のために何もしていない、できていないというような意味だろうと思います。しかし、今申し上げているのは、世のため、人のために役目が与えられているということではありません。神様の目的のために、神様の御心によって、私たちに役目が与えられているのです。

 聖書に、こういう話があります。ある日、イエス様と弟子たちが歩いておりますと、生まれつきの盲人が道端で物乞いをしていました。そのように、世の中には、生まれながら他の人とは違った不自由さを負っている人がいます。弟子たちは何故だろうという疑問を持ちました。そして、「先生、あの人が盲人として生まれてきたのは、だれのせいでしょうか。本人の罪でしょうか。それとも両親の罪でしょうか。」と、イエス様に尋ねたのです。すると、イエス様は弟子たちに「それは誰のせいでもない。神の栄光が現れるためである」とお答えになります。つまり、弟子たちが考えるような因果応報のせいではなくて、神様が何か目的をもってその人にそのような人生をお与えになったのだということを教えられたのです。

 どんな人も、今生きている現実の中に神様の召しがあり、神様の目的のために生きることができるのです。そこが病院であろうと、刑務所であろうと、道端であろうと、人っ子ひとりいない山の中であろうと、もしそれがあなたの生の現実であるならば、そこが神様に遣わされた場所なのです。その中で神様への信仰に生きることが、神様に求められているのです。私たちが神様のそのような求めを知り、信仰に生きるならば、そのことによって神様のこの世界に対する目的が実現していくのです。

 アブラハムの人生を考えてみましょう。アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれます。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が、アブラハムを信仰の父と尊敬している、それほどの人物です。しかし、アブラハムは、世のため、人のために、何をしたのでしょうか。何もしていないのです。「わたしの示す地に行きなさい。私はあなたを祝福の源にする用意がある」という神様の召しに応えて、アブラハムは行き先も知らず旅立ちました。そして、どんな時にも、神様に従うことをやめませんでした。アブラハムの人生は、いってみれば、それだけのことなのです。しかし、いついかなる日にも信仰に生きたアブラハムの人生があればこそ、キング牧師のような正義の人が輩出され、マザー・テレサのような愛の人が輩出されました。すべては、アブラハムの信仰あればこそです。与えられた場所で、精一杯の信仰に生きること、それが神様の目的に従って生きることです。そのことによって、人に対する、世に対する、神様の目的が、実現していくのです。

 基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。

 この聖書の言葉は、信仰は、知識を学ぶことによってではなく、信仰に生きるという鍛錬をもって、成熟していくのだ、と教えているのです。だから、いつまでも「わたしはまだ初心者だから」とか、「聖書は難しい」とか、そういうことを言っていないで、神様を信じる生活を大胆に始めなさいということなのです。
信仰は聴くことから始まる
 では、神様を信じる生活とは、どういう生活なのでありましょうか。それは非常にはっきりしています。神の言葉に聴く生活です。このことは『ヘブライ人への手紙』が繰り返し述べていることでありますが、この書だけではありません。イエス様も《聞く耳のある人は聞きなさい》(『マルコによる福音書』4章9節、他)とか、《あなたがたは耳があっても聞こえないのか》(『マルコによる福音書』8章18節)と言われました。神様が語りかけてくださっていることを聞く耳を持たずして、どうして御心に添った信仰生活ができるかということなのです。パウロも《信仰とは聞くことに始まり、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです》(『ローマの信徒への手紙』10章17節)と言っています。

 しかし、聞くといっても、いろいろな聞き方があります。聞き方が悪いと、聞いても分からないということが起こってきます。今日、お読みしたところには、そのことが書かれています。5章11節

 このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。

 《このことについて》とは、先週お読みしましたところに書かれていましたが、イエス様こそ永遠の救いの源であり、大いなる大祭司であるという信仰です。端的にいえば、イエス様が私達の救い主であるということです。このことについて、著者はさらに詳しくこれから話をしたいのだが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、分かるように話すが難しい。話しても分かってもらえるかどうか心配だ、と言われているのです。

 なぜ耳が鈍くなっているというのか。なぜ心配なのか。そのことが12節にあります。

 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。

 《あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに》とは、一種の皮肉であろうと思います。さんざん勉強をしてきた。ですから、知識だけは人に教えるほどたくさんある。だけど、信仰が育っていないというのです。

 芸事の世界には「守、破、離」(しゅはり)という言葉があります。「守」というのは、基本を忠実に学ぶことです。書道であればお手本通りに書く。舞踊であれば型どおりに踊る。そういうことを徹底的に身につけるのが「守」です。しかし、それで芸事が完成するではありません。基本を身につけたら、敢えてその基本を破って、自分なりの表現をしてみることが大切になります。「こうでなければいけない」という守りから、「こんなこともできる、あんなこともできる」と、自分らしい芸へ模索が始めるのです。基本に対して応用の段階だと言ってもいいかもしれません。それが「破」です。このような基本に忠実な時期や自分らしさを模索する時期などを経て、最後にこれが私の芸であるという境地に達する。学んできた基本は完全に自分の中に昇華されてしまっている。それが「離」です。

 それとまったく同じというわけではありませんが、信仰も、教科書で学ぶような「こうでなければいけない、ああでなければいけない」という基本に留まっていたら、自分らしい信仰が持てないのです。自分らしい信仰が持てないということは、信仰によって自分というものを生かすことが出来ないということです。自由のない信仰になってしまうのです。

 信仰とは、神様が与えてくださった、ひとりひとりに固有の人生を、神様の召しとして受け止め、信仰をもって生きるということです。ですから、みんな違った形になってくるのは当然なのです。教会に行けない人もいる。献金ができない人もいる。聖書が読めない人がいる。だからダメというのではなく、それをも神様がそれぞれに与えてくださった人生として受けとめる。そして、その中で、どうしたら神様を信じていくことになるのかということを求める。それが《固い食物》ということでありましょう。そのような「固い食物」を噛み砕いて、自分の信仰の養いとすることが、信仰の鍛錬となり、成熟となるのです。

 そういう方向を目指していないと、これから何を話しても、わたしの話は分かってもらえないだろうと、『ヘブライ人への手紙』の著者は危惧しているのです。13-14節

 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

 イエス様は「誰でも幼子のようでなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃったのですが、ここは、そういう意味での幼子ではありません。成熟していないという一点において、幼子であってはいけないと言われています。なぜなら、成熟しないと《義の言葉》を理解できないからだと言われているのです。

 義とは、神様の正しさです。「神様は正しい」、これが信仰の基本でありましょう。しかし、応用問題となると、どうでしょうか。世の中に不条理があります。自分の人生にも苦しいことや辛いことが襲ってきます。そういう中で、神様の正しさはどこにあるのだろうか? 神様は眠っているのではないだろうか? 神様は間違っているのではないだろうか? そういう疑念にとらわれますと、いくら聖書を読んでも、「でも、現実は」と思ってしまう。神様の言葉を素直に聞けなくなってしまうのです。

 そこで聞き方が問題になってきます。こんな話を聞いたことがあります。私たちがよく使う「きく」という漢字には「聞」と「聴」と二つあります。「聞」は、耳が門構えの中にあります。この門というのは、自分の心の門といいますか、自分の考えや価値観のことだと考えますと、あくまでもそういう自分の考えや価値観を崩すことなく人を話をきく、それが「聞く」だというのです。他方、もう一つの「聴」は、「耳」の横に「十四の心」と書きます。私たちの心にある色々な思いを合わせて、その言葉を聞き、受けとめることに集中する。それが「聴」だというのです。これは、漢和辞典に載っているような話ではありませんが、聞き方にもいろいろあることがわかる話です。少なくとも、自分の門構えの中に閉じこもっていては、耳を傾けていても、相手の言っている真意というものをしっかりと聴くということはできません。神様の言葉を聞くということも、私たちの構えを棄てて、全身全霊をもって虚心に聴くことが必要なのです。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という諺があります。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もあります。自分自身を神様の言葉に預けてみる。それは虎の穴に入るような、身を捨てるような思いかも知れません。しかし、そうすると、ああ、本当に神様の愛が私を支えてくださっていたのだという経験をすることが本当にたくさんあります。そこまでしなければ、神様の正しさということが見えてこないことがあるのです。

 今日は「教えの初歩に止まることなく」という説教題をつけさせていただきました。信仰というのは勉強によって身につけるものではなく、神様を信じて生きる人生によって鍛錬され、身についていくものなのです。無教会派の人の本を読んでいますと、「信仰の実験」という言葉が出て来ます。実験は、仮説が正しいかどうか自ら確かめてみるということです。神様の言葉は正しいのです。しかし、その正しさを身をもって確かめて、自分の経験としなければなりません。それが「信仰の実験」です。

 それは神様を試みることとはまったく違います。試みるというのは、疑いをもって試すわけです。しかし、実験というのは証明するために試すのです。それが全身全霊で神様の言葉を聞くということなのです。そうすれば、神様の言葉の正しさは、必ず証明されます。そして、私たちはだんだんと信仰をもって生きるということが、どういうことであるかを知るようになるのです。

 
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