ヘブライ人への手紙 20
「神もし許し給はば我ら之をなさん」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙6章1〜12節
旧約聖書 ヨナ書3章1-10節
信仰者としての成熟
 ときどき世間を騒がせるエセ宗教が見受けられます。世間を震撼させたオウム真理教や、その後にも白装束を着た人たちの集団や、「最高です!」と叫ぶ人たちの集団や、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。こういうエセ宗教が何か問題を起こして、テレビなどで取り上げられますと、その信者たちの姿が放映されたりするのですが、それを見て、異様な、不気味な感じるのは、どうしてでしょうか。それは、みんな同じ顔に見えてくるということに一因があるように思います。もちろん、顔立ちがみな同じというわけではありません。しかし、顔つきとか、話し方とか、人間はもっと個性が豊かなものだと思うのですが、それがないのです。みんな同じ顔つき、目つき、同じ話し方、同じ感情、同じ考え、一色で塗りつぶされた人たちという感じがしてならないのです。そういう人たちを見て、宗教や信仰というのは、怖いものだと思う人が出て来ても不思議ではありません。しかし、こういうのは、本物の宗教、信仰ではなく、宗教とは似て非なるものエセ宗教なのです。

 エセ宗教の特徴が幾つかあります。一つは、教祖や教団の教義に対する絶対的な忠誠です。批判はおろか質問すらゆるさない。それを鵜呑みにすることが求められるのです。しかし、そんなことは何も知らない幼子ならいざ知らず、常識的な精神をもった大のおとなにはおいそれと通用するものではありません。これはおかしいんじゃないか? 本当にそうだろうか? いろいろと考えたり、批判したり、疑問に思ったりするのが当たり前なのです。それを抑え込むために、エセ宗教が遣う手段が、教団のみが善なる世界で、それ以外の世界は全部悪だという教義です。救いや、心の平和は、教団組織に従うことによってのみ得られると教えると共に、教団以外の世界で築いてきた人間関係や、学んできた思想や、情報はすべて悪であって、もしそういうものに触れたりすれば、たちまち悪が入り込んで地獄に堕ちると脅かしたりもします。こういうことを、本人が気づかないうちに仕込んでしまうノウハウをもっているのが、エセ宗教なのです。

 もちろん、キリスト教でも、神様、イエス様に忠実であること、また教会や教義を大事にすることが説かれます。この世と神の国の違いということも申します。しかし、決定的に違うのは、一人一人の個性を殺すようなことは教えないのです。むしろ、信仰を持つということは、私たち一人一人の持ち味である個性を、神様の賜物として重んじ、花開かせていくことだ、と説くのがキリスト教です。

 先日、若い頃にお世話になった牧師先生がわざわざお訪ね下さいまして、短い時間でありましたけれども、心励まされるとても恵まれた時間を過ごさせていただきました。私は、その先生のもとで伝道師を二年間いたしました。その時のことを思い起こして、私はこんなことを尋ねてみました。「先生、今だから申し上げられることですが、先生はとても働き者でいらして、あの頃、私は二十代だったのですが、恥ずかしながら先生についていくのがとてもたいへんでした。先生はお疲れになるということがないのですか。」 実際、本当に勤勉な先生なのです。集会が終わると、私などはぐったりと疲れてきっているですが、先生は涼しい顔をして「国府田君、○○さんを訪問しよう」などとおっしゃる。「この先生は疲れるということがないのか」と、とても不思議でした。今はもう70歳になられたそうですが、今回お訪ねくださったのも、そういう忙しい合間をぬってのことでありました。

 「疲れることを知らないのですか」という私の問いに、先生は少しはにかみながら、「う〜ん、実はね、私は本来はのんびり過ごすのが好きな人間なんだ。だけど、国府田君も知っていると思うけど、パウロが『競技場で走る者は皆走るけれども、賞を得るのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい』と言っているところがあるよね。若い頃に、この箇所で「自分の身体を鞭たたいて走りなさい」という説教を聞いてしまったんだ。他方、聖書には「歩みなさい」というところもたくさんあるだけど、その説教を聞いて以来、歩くんじゃなくて走らなければいけないという強迫観念みたいなものが出来ちゃってね、のんびりしていると罪悪感を感じてしまんのだよ」と、こんな風にお答え下さったのでした。

 私は、この先生の答えを聞いて、ますます敬服させられました。一生懸命に働いている自分を誇るのではなく、むしろそれを自分の弱さとしてお話しになる。走る者ばかりではなく、歩く者がいてもいいんだということをお認めになる。こういうことはなかなか言えるものではないと思うのです。自分が走るタイプの人間だったら、他人にもクリスチャンは走らなければいけないんだと言いたくなってしまう。自分が歩くタイプの人間だったら、他人にもクリスチャンは焦らずにじっくりと歩くことが大切なのだと言いたくなってしまう。それが人間の常だと思うのです。しかし、走るタイプもあれば歩くタイプもある。私などは歩くタイプなのですが、神様は両方の人間をそれぞれお用い下さるのだとおっしゃる。こういう謙虚さというものが、本当の信仰ではありませんでしょうか。

 人間は、みんな違う顔をもっていていいのです。神様は私達ひとりひとりをオンリーワン、かけがいのない、ただ一人の存在としてお造りになり、命をあたえ、人生を与えてくださいました。大切なことは、神様が与えてくださったひとりひとりの固有の賜物としての命を大切にし、その人らしく生き、その人らしく神様に仕えるということなのです。だから、ひたすら走ることが出来る人は、一生懸命に走ったらいい。そして、走ることを極めたらいい。じっくりと歩くことができる人は、じっくりと歩いたらいい。そして、歩くことを極めたらいいのです。それが信仰者としての成熟です。そうすることによって、一人一人の命に与えられた神様の目的が果たされていくのです。

 先週も触れたところですが、『ヘブライ人への手紙』6章1-2節にはこう記されています。

 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。

 他方、3章14節にはこんな風にもかかれていました。

 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。

 キリストの教えの初歩を離れるのか? それとも最初の確信をしっかりと持ち続けるのか? しかし、これは決して矛盾したことを言っているのではありません。最初の確信を持ち続けるからこそ、それを基として成長していくことができるのです。これについては先週もお話ししましたので繰り返しませんが、《キリストに連なる者となる》ということについて、一言お話ししたいと思います。

 《キリストに連なる者となる》という御言葉から、《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。》(『ヨハネによる福音書』15章5節)とのイエス様のお言葉を思い起こされる方も多いかと思います。イエス様はこう言われました。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(『ヨハネによる福音書』15章5-6節)

 私たちクリスチャンは、イエス様から注ぎ込まれる命によって生き、その命の力によって成熟し、実を結ぶ者になるのだということがかかれています。では、イエス様に連なる者となるためにはどうしたらいいのか? 最初の確信を離れないということです。長い信仰生活には、それがぐらついてしまうようなことがたびたび起こります。イエス様の愛が見えなくなるような艱難辛苦が襲うこともありましょう。罪の誘惑に負けてしまうこともありましょう。人間を見て躓くこともありましょう。しかし、そういう時にも、最初に信じたイエス様の愛に固く立ち、歩み続けなさいということなのです。何かある度に、「イエス様は本当に救い主だろうか」とか、「あの洗礼を有効だったのだろうか」とか、「本当に死者の復活はあるのだろうか」とか、最初の確信をひっくりかえしたり、ほじくり返したりするようなことをする必要はないのだということなのです。最初に信じた通りに、キリストにつながり続けなさい。そうすれば、あなたがたは成長していくのだ。そして、神様から賜物としていただいたあなたらしい命が、実を豊に結ぶようになるのだというのです。

 私たちは皆、ひとりの主、イエス・キリストに連なり、イエス様から送られてくる命の力によって生かされているのです。しかし、それによって私たちが結ぶ実は、決して一色ではありません。同じ形、同じ味ではありません。みんな違う色、形、味をもっている。先ほどの私の恩師の話によれば、走る人もいれば、歩く人もいる。たとえ似たものがあったとしても、決して同じではない。そして、ここが肝心ですが、それにもかかわらず、等しくキリストの香りを放っている。だから、それは私たち一人一人の個性であると同時に、キリストからくる命を豊かさ、恵みの豊かさなのです。
成長しないことは罪である
 ところで、ぶどうの木の譬えを持ち出したのには、もう一つ理由があります。イエス様は、私につながっていれば、命を豊かに受けて成長し、実を結ぶけれども、つながっていなければ枯れてしまう。そして枯れ枝は集められ、焼かれてしまうと、恐ろしい裁きについて語っておられます。実は、同じことが今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』にもかかれていました。7-8節

 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

 雨とは、「雨をふりそそぎ」という讃美歌を歌いましたが、天から降り注ぐ神の恵みのことです。それから、『コリントの信徒への手紙1』3章9節には、《あなたがたは神の畑である》とも言われています。神様は、私たちが実を豊かに結ばせることができるように、必要な恵みを、折々にお与え下さっているのです。しかし、それを私たちが無駄にしてしまうことがある。そのように神の愛、恵みに応えないで生きていると、茨やあざみを生えさせる役に立たない畑とみなされ、呪われ、ついには焼かれてしまうといわれているのです。

 『ヘブライ人への手紙』は、《成熟を目指して進みましょう》と言っています。それは、できれば成熟した方がいいという話ではなく、必ず成熟しなければならないということです。なぜなら、成熟しないということは、イエス様からの命を受けていないということであり、それはすなわちイエス様を離れているということだからです。成熟しないことは、イエス様の恵みに生きていない結果であり、それは堕落であり、罪なのです。

 『ヘブライ人への手紙』は、たいへん厳しいことを言います。6章4-6節、

 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

 イエス様によって、私たちの命は、天の光の中に移されました。天の賜物を、豊かに味わう者とされました。聖霊は、しばしば御言葉と神の国の力を、私たち生活の中で証ししてくださいます。そういうイエス様の救いと恵みを知りながら、そこを離れていくということは、それを捨てることであり、イエス様を改めて十字架につけて侮辱することだ、と言われています。これはとっても厳粛に受けとめなければならない御言葉です。イエス様の命は、お安い命ではありません。神の独り子の命であります。その尊い命を私たちに惜しみなく与えてくださったのは、ただ一つの目的のためなのです。『ヨハネの手紙一』4章9節にこうあります。

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

 《その方によって、わたしたちが生きるようになるためです》とあります。神なき望みなき愚かなる罪人を、神様は、天の父として憐れんでくださり、イエス様をお与え下さった。それは、私たちが、イエス様の命によって、再び神の子らとして生きることができるようになるためなのです。それでこそ、イエス様の犠牲になさった命は生かされてくる。残酷な十字架は救いのしるしとなる。その神様の深い御心を侮ってはいけないとのです。《成熟を目指して進みましょう》とは、単なる勧告ではなく、警告なのです。もし、キリストによって生きるということから離れてしまうなら、もうあなたがたにはどこにも救いはなくなるのだということなのです。

更によき恵みあり
 このような厳粛な御言葉を読みますと、私たちの誰もが恐れを感じるに違いありません。クリスチャンになったのに、まだこんな罪、あんな罪を犯し続けている。私なんかダメなのではないか。少しも成長していないのではないか。ただ裁きの火で焼かれるのを待つだけではないのか。しかし、『ヘブライ人への手紙』は、そんな風に私たちの意気をくじくために、このような厳しいことを記しているのではありません。6章9節

 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。

 厳しい警告で震え上がっている読者に対して、これはあなたがたを絶望させるために言ったことではなく、あなたがたのために残されている救いに、しっかりを目を向けてもらうためである、と言っているのです。それは何か? 6章10節

 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

 たとえ今は、私たちの憂うべき状況があるとしても、神様はちゃんとあなたがたの過去を顧みてくださる。今は忘れられ、失われかけているかもしれないけれども、かつて《神の名のために示したあの愛を》、神様は《お忘れになることはありません》と言い切るのです。

 イエス様は、冷たい水一杯の愛を、決して忘れることがないと誓われました。本人が忘れているような些細な業を思い起こして、あなたはわたしにこんなことをしてくれた、あんなことをしてくれた、あの小さな者のひとりにしたことはわたしにしてくれたのと同じなのである、とおっしゃってくださるお方です。神様は、私たちの罪をもおぼえていらっしゃるでありましょう。そして、もし数えるならば罪ばかりが多く、愛の業などほんの取るに足らぬものに見えてくるかもしれません。実際、私たちは自分を省みるとき、ああ私の人生は罪で真っ黒だと思うこともあるのではないでしょうか。しかし、神様は私たちの愛を決して忘れ給わないとおっしゃるのです。私たち自身が忘れているような小さな愛をさえ、おぼえていてくださるのです。そして、それを大切にして下さる。神様とはそういうお方です。だから、『ヘブライ人への手紙』は、このように私たちを励ますのです。

 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

 厳しい警告もありましたが、それは「あなたがたはダメだ」と言っているのではありません。神様の御心に従えなかったこと、罪を犯してしまったこと、神様を悲しませる多くのことが、私たちにはありましょう。しかし、信仰生活は、何の暗さもかげりもない青空の下を歩むことではありません。クリスチャンになっても世にある限り、人間的な弱さ、貧しさ、罪深さは避けられないものとして残るのです。では、クリスチャンの強みは何か? それは神様の真実です。神様がわたしたちを愛し、救おうとしてくださっている。その真実さ、力強さ、頼もしさに依り頼んで、破れても、破れても、私たちの歩みを止めることなく歩み続けることができるのではありませんでしょうか。

 そのためには、主の恵み深さ、十字架の救いから、片時も目を離すことができません。「誇る者は主を誇れ」という御言葉がありますが、自分ではなく、主の恵み深さ、十字架を誇りとして、だからこそ希望を失わず、終わりの日まで信仰の歩みを、歩み続けなければならないのです。

 私は、今日お読みしました聖書の中で、意外と重要なことを言っているのは、3節ではないかと思うのです。

 神はお許しになるなら、そうすることにしましょう。

 文語訳では、《神もし許し給はば、我ら之をなさん》です。成熟を目指して歩む。それには間断のない努力や熱心が必要でありましょう。しかし、私たちの人間的な努力や、熱心だけで、成し遂げられるものではないし、そもそもそんなことをしても、私たちの罪を数えたら、それだけで私たちの善き業など無きに等しいものになってしまうのです。けれども、神様はそういうことをすべてわかった上で、私たちを励ましてくださる。大きなゆるしの中で、私たちに努力することを、信仰を追い求めることをゆるしてくださっているのです。その恵みの中で、私たちは、希望が与えられ、破れても、倒れても、また起きあがり、「神様! イエス様!」と、御名を呼びつつ、歩むことができるのではありませんでしょうか。感謝をいたしましょう。

目次

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