ヘブライ人への手紙 22
「この希望によりて神に近づくなり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙7章1〜19節
旧約聖書 詩編110編4節
祭司制度について
 『ヘブライ人への手紙』は、ヘブライ人つまりユダヤ人に向けて書かれたものです。したがって、ユダヤ人ならではの問題が、この書の中に含まれています。もちろん、私たちに関係ないということではありませんが、一義的には、ユダヤ人の抱えている問題ということがあるのです。祭司制度の問題も、その一つであります。これを読む場合、まずユダヤ人の知っている祭司制度とは、どういうものかを知ることから始めないと、わかりにくいのです。できるだけ分かりやすく、お話ししたいと思います。

 祭司とは、神殿に奉仕して、礼拝や祭儀を司る人たちのことです。「祭司」を逆さに読みますと、「司祭」になります。「司祭」は、カトリック教会で、礼拝や典礼を司る聖職者のことです。礼拝や礼典を司るという意味では、ユダヤ人の「祭司」も、カトリック教会の「司祭」も、そしてプロテスタント教会での「牧師」も、同じ働きをすると言ってもよいのです。司祭は、神父とも呼ばれ、信者たちの魂への父親的な配慮の働きもいたします。牧師は、信者たちを神の羊たちとして牧するという働きもします。それにたいして、イスラエルの祭司は、もっぱら神殿礼拝を司る働きをしていたのでした。

 礼拝を司るとは、どういうことでしょうか。礼拝には、大きく分けて二つの要素があります。神さまが私たちに与えてくださる祝福と、私たちが神さまにお捧げする献げ物(献身)です。讃美、祈り、信仰告白、献金などは、神さまへの私たちの捧げ物です。聖書朗読、説教、聖餐式、洗礼式、祝祷などは、神さまが私たちに与えてくださる祝福です。礼拝の中には、これらの要素が、神さまと交わりということを考えて、プログラム化されています。

 余談ですが、礼拝のプログラムは、教会によって違います。先日、ある教会に招かれまして、説教のご奉仕をさせていただきました。礼拝が始まると、すぐに報告があって、集会の案内や、今日は誰々さんがお見えになりましたとか、誰々さんの受洗記念日という紹介が始まります。そのあと、讃美歌を歌うと、今度は献金があります。それから最後に、聖書朗読、説教、祝祷となるのです。私たちの礼拝とまったく逆の順序ですが、これも神さまとの交わりということを、教会の祈りとして考え、できあがったプログラムなのでありましょう。どのようなプログラムであれ、礼拝の中には、神さまの恵みと、それに対する応答として献げ物(讃美や祈りや献金)があるのです。
 礼拝を司る者とは、神さまに遣われた者として、礼拝者に神さまの御心や祝福を伝え、また礼拝者の代表として神さまに祈ったり、讃美を導いたりする役割を果たすひとです。神殿での礼拝は、私たちの礼拝とはまた違ったところがありますが、本質的なことは同じです。

 では、誰が祭司になるのでしょうか? なりたい人がなるのでしょうか? 人々が「この人がいい」と思う人がなるのでしょうか? そうではありません。これは神さまのお仕事ですから、神さま御自身が、人間の中からこれと思う者をお選びになり、祭司としてお立てくださるのです。人間が、勝手に自分がなりますとか、あの人がいいと選ぶものではありません。

 これもまた、司祭や牧師と同じことです。私は、神さまに召されているだとか、選ばれているんだとか、そういう言い方は、傲慢に聞こえるかも知れません。しかし、実際はまったく違うのです。

 「どうして牧師になろうと思ったのですか」と、よく聞かれます。そういう質問を受ける度に、私はどう答えて良いのかと、迷ってしまいます。訊ねる人は、何か使命感のようなものに燃えて、それを実現するために、私が牧師になったのだと思っておられるのかもしれません。実際は、そうではないのです。高校三年生の時、いろいろ進路に悩んでいたのは確かですが、牧師になりたいなんて思ったことはありませんでした。まったく別の道を考えていたのです。ところが突然、私の心の中に、進路のひとつとして「牧師になる」という思いが起こってきました。なぜ、そんなことを思いついたのか、自分でもびっくりするぐらい唐突な思いでした。だから、自分には有り得ない進路として、すぐにこの思いをかき消しました。

 ところが、その思いは消えるどころか、日増しに強くなってきました。それが、苦しいぐらいなのです。それで、私は、そのことを牧師に相談することにしました。正直に申しますが、私は牧師になるためにはどうしたらいいのかも知りませんでした。それで、「牧師になるためには、どうしたらいいのですか」と、牧師に聞いたのです。その時、神学校というものが存在することを知りました。牧師になるためには、神学校で六年間勉強し、その後に伝道師になる試験を受け、合格して伝道師になったら、その三年目に牧師になる試験を受け、合格したら按手という式を受けて、ようやく牧師になれるのだというお話しでした。神学校に入って、順調に行ったとしも、牧師になるのは10年目です。この話を聞いただけで、私は「ああ、自分には無理だ」と思い、きれいさっぱり牧師になる道を捨てるつもりでした。その日も、「わたしは牧師にはなりません」と言って、牧師館を出たのでした。

 けれども、結局は、神学校に行くことになりました。自分で決めたこととはいえ、自分ではないものに引っぱられて、逆らい得ないようなものを感じたからです。それでも、私に無理だと思ったら、いつでもやめてやる、ぐらいのつもりでした。私が牧師になれるはずがないと、無理だ、絶対に有り得ないと、ずっと思っていました。そんな私が、ようやく牧師になるように神さまに召されているのだと、確信が持てるようになったのは、神学校に入ってから三年か、四年が立ってからのことだったと思います。自信がついたのではありません。むしろまったく逆で、自分の力で牧師になろうとするからいけないのだ。神さまが、私を牧師にしようとするならば、神さまの必要な力を与えくださるはずだし、こんな私でも神さまが必要としてくださることがあるのだ、ということを謙虚に受けとめることができたわけです。

 このような信仰を、召命感と言います。この召命感は、牧師になってからも、繰り返し問われていくものです。これがなくなったら、もう牧師をしていくことはできません。精神的に堪えられなくなってしまうのです。それは、牧師になるということに限らないかもしれません。特にプロテスタント教会では、万人祭司、職業召命感といいます。つまり、それぞれが生かされている場所や、働いている場所は、神さまのお仕事をするためにそこに遣わされているのであり、遣わされている場所において、神さまの恵みを伝え(伝道)、また神さまに執り成しの祈りをするのです。それぞれの職業に、また人生において、自分はそこに神さまに遣わされている、そのために選ばれているのだと思うことは、決して傲慢なことではなく、自分の力ではなく、神さまの力によって生かされ、働かさせていただいているのだと、むしろ謙遜にさせられて生きることなのです。

 先日、ある方からこのようなお話を聞きました。自分は、今まで何をやっても力があと一つ足りず、自分の人生を妨げるような様々な不運によって、いつも不完全燃焼をしているような重苦しい気持ちが消えなかった。ある日曜日、教会に向かいながら電車の中で「神様、どうか私に力を貸してください」と、心の中で叫ぶように祈っていた。すると、その時、はっと気づかされることがあった。それは「自分には力が足りない」と思っていたのは間違いで、「私は初めからどんな力も持っていなかったのだ」ということだった、というのです。それに気づいたとたん、その人はとても心が軽くなったといいます。「私は初めから、どんな力も持っていなかったのだ」ということは、今まで何か一つでもできたことは、すべてが神様の力であったということもであると分かったからでした。すると、これからのことについても、今では自分にできるだろうかといつも不安であったのが、すべては神様がしてくださるのだから、という希望、平安で満たされたというのです。これも、一つの召命感の話なのです。

 さて、話を戻しますが、イスラエルの祭司も、決してなりたい人がなるのではなく、神さまによって、祭司として選ばれた人たちでありました。そして神さまが選ばれたのは、レビ族という一つの部族です。イスラエルには、十二の部族がありましたが、そのなかの一つであるレビ族は、代々にわたって祭司の部族となり、神殿での礼拝や礼典を司る働きを守ってきたのです。それが、今日の聖書に出て来ます《レビの系統の祭司制度》ということです。
別の祭司
 レビの血統は、元をたどれば、モーセの兄であるアロンにたどりつきます。言い換えれば、モーセが神さまから受けたお告げによって、アロンが大祭司となり、アロンの所属していた部族であるレビ族が、祭司の部族になったのであります。そのことをふまえて、11-14節を読んでみましょう。

 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。

 
レビの系統の祭司制度は、確かに神さまが御心によるものです。しかし、それによっては、人は完全な状態に達することができなかった。だから、《アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司》、つまりレビの系統とはまったく違う、別の祭司が立てられる必要があったのだ、と言われているのです。12節以下、

祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。

 『ヘブライ人への手紙』は、イエス様こそ真の、永遠の大祭司であると語っています。しかし、イエス様はレビ族ではなく、ユダ族の出身でありました。先ほどもいいましたが、祭司とは、神さまがお立てになるものでありまして、レビ族の祭司制度は、神さまのお与え下さった律法に記されているわけです。しかし、ユダ族の祭司などということは書いてない。もし、変更があるならば、正規に律法の変更がなされるはずではないか? そういう疑問が起こってきます。

 その疑問に、『ヘブライ人への手紙』の著者は答えようとしているのです。そして、イエス様が永遠の大祭司であることは、揺るぎのないことであるばかりか、26節に書かれていますように、《このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。》と、私たちに主張しているのです。15-19節

このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。 なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 《メルキゼデクと同じような別の祭司》とあります。そろそろ、メルキゼデクについても説明しなければならないと思います。

神の約束と誓い
 『ヘブライ人への手紙』6章18節にこう書いてあります。

それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。

 《希望を持ち続けようとして世を逃れてきたわたしたち》とあります。《世を逃れてきた》とは、もうここには望みがないと、世に対して深く絶望したということです。しかし、その絶望のどん底で、神様に希望を見いだしたのです。

 その時、神様は、私たちの希望を、《二つの不変の事柄によって》、力強く励ましてくださった、と語られています。《二つの不変の事柄》とは、神の約束と誓いです。二つといいますが、何か別々のことがあるわけではありません。約束だけでも、それは神様の約束でありますから確かなもの、不変のものなのです。しかし、私たちを更に励ますために誓いによって、それをいっそう確かなものにしてくださった。ですから、《二つの》というより「二重の」と言ったほうがいいのかもしれません。17節にこう記されています。

神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。

 変わることのない約束を、これは絶対にはかわることがないものだよと、わざわざ誓いによって保証してくださったというのです。それは、信じることに弱き私たちを激励し、必ず神様の約束を受け取る者とならせるための、神様の愛なのです。

 いった神様は誰に何を約束し、誓ってくださったのでありましょうか。そのことが13-15節に書かれているのです。

神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。

 《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、神様はアブラハムに約束してくださった。ただ約束してくださったのではなく、御自身に誓ってその約束の真実であることを保証してくださったのであります。

 ここで、アブラハムの人生についてお話しできれば一番いいのですが、そこまでの時間がありません。『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。

 最初にも申しましたように、クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。

 イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。

メルキゼデク

 メルキゼデクは、旧約聖書においてもたったの二回しかその名が記されていません。一つは創世記14章17-20節です。

アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

 アブラハムがケドルラオメルを撃破した際、彼を祝福したサレムの王がメルキゼデクであり、アブラハムは彼に戦利品の10分の1を贈ったとあります。この短い記述があってから1000年後、ダビデの記した詩編の中に再びメルキゼデクの名が登場します。詩編110編4節です。

 主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って
 あなたはとこしえの祭司
 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』


 
この言葉は、神様によって、ダビデがメルキゼデクの後継者に任じられたということを意味しています。そして、さらに1000年後、イエス・キリストが誕生し、この『ヘブライ人への手紙』の著者が、もう一度メルキゼデクに光を当てます。新約聖書の中には、この手紙を除いて、この名を見ることはできません。しかし、この手紙は、旧約聖書における上記のたった二回の記述をもとに、イエス・キリストこそはメルキゼデクに等しい大祭司であると、大胆かつ緻密に論じるのです。

 いったいメルキゼデクとはいかなる人物でありましょうか。

@ 《このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でした》(7:1a)

 メルキゼデクは王であり、祭司でした。王とは、人間と人間の間を結ぶ、社会を治める者です。祭司は、神と人間の間を結ぶ宗教を治める者です。今日では、政教分離こそが、先進国の印のようになっていますが、それは無用な争いを避けようとする方便にすぎません。もちろん、私は、政教分離はもっとも現実的な政策だと思っているのですが、本来を言えば、聖書をみても、信仰の本筋からしても、政治と宗教は切り離せないものなのです。日本のクリスチャンも、天皇制反対、政教分離など声高に叫ぶよりも、まことの宗教を知らしめて、天皇をはじめ日本中をクリスチャンにして、まことの王、まことの祭司なるキリストにこの日本の国を捧げ、神の教えによってこの国の政治があらたにされることを願うぐらいの夢を持ってもいいのではないでしょうか。

A 《王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。》(7:1b-2)

 メルキゼデクの名は、メルクが「王」、ツェデクが「正義」の意味でありますから、「正義の王」という意味です。また、当時サレムというのは小さな村であったと想像されますが、その意味は「平和」です。そらに、詩編72編3節に《神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある》という箇所をみますと、後のエルサレムこそが、サレムであろうと思われます。ちなみにエルサレムとは、「平和の神」との意味です。つまり、メルキゼデクは、後のエルサレムの王であり、正義と平和をもたらす者、つまり民に祝福を与える者としての力と尊敬をうけていたということが、想像されるのです。それゆえ、アブラハムも彼に敬意を表し、戦利品の10分の1を捧げたのでした。

B 《彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、》(7:4a)

 メルキゼデクも歴史上の人間であるならば、必ず父があり、母があったことでしょう。また生涯の初めも、終わりもあったに違いありません。しかし、メルキゼデクのそのような血統については、一言も語られていません。それは、メルキゼデク自身の人格のうちにこそ、彼を王にし、祭司とする資質があったということではないでしょうか。

 このことをアロンに始まるレビ族の祭司制度と比べてみましょう。レビ族の祭司制度では、必ずアロンの子孫であることを証明する系図が必要でした。逆に言うと、どんな人物であろうと、アロンの子孫であることを証明する系図さえあれば祭司になることができたのです。つまり、この祭司制度で重要なことは、個人の資質ではなく、神が、アロンあるいはレビ族を選ばれたという事実であり、それゆえにレビ族が祭司としての権威をもったのです。それはそれで意味のあることです。しかし、メルキゼデクは、そのような祭司とは質を異にしていたということが、ここで強調されているわけです。

 このようなことから、『ヘブライ人への手紙』は、メルキゼデクが、アブラハムに優るものであるということ、4-10節で語ります。そして、アブラハムに優るということは、その子孫であるレビ族にも優るということだとも言われています。さらに、先ほど丁寧にお読みしたところですが、11-19節では、イスラエルに与えられている神の掟、つまり律法にも優るのだということが言われているのです。もう一度、16節を見ていましょう。

この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。

 メルキゼデクが、律法による祭司ではなかったように、そしてアブラハムを祝福したということからも分かるように、律法による祭司よりも優れた者でした。イエス様もまた、律法による祭司ではなく、アブラハムや、アロンや、レビ族や、律法すらも超越した祭司なのです。また18-19節にはこう記されています。

その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです。

 非常に大胆なことが言われています。レビ族の系統の祭司が無視されて、ユダ族からイエス様が出て、私たちの永遠の大祭司となられたということは、律法に変更があったということではなく、全律法の廃止なのだというわけです。

 律法とは、そもそも私たちが神さまに近づくための道を示すものであります。しかし、それは、《弱く無益》だった、と言われています。律法は、神さまがあたえ給うものですから、律法そのものが悪いわけではありません。しかし、イスラエルの人たちは、律法主義に陥って、律法を与え給う神さまの御心を忘れてしまったのです。ですから、結果的には無益なものになってしまったのです。

 しかし、神さまの恵みは、本当に限りないものです。律法を無益なものにしてしまった人間の愚かさ、弱さをも救うために、もっと優れた希望を与えてくださった。それが律法を超越した、永遠の大祭司であるイエス様です。

しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 《わたしたちは、この希望によって神に近づくのです》とあります。《この希望》とは、律法のように、何かをしたら救われるというような希望ではなく、もっと優れた希望であるというのです。何がどのように優れているのか、それは次回のお話しになります。ただ今朝、私たちが覚えたいことは、神さまは《レビの系統の祭司制度》、これもまた神さまが人間が神さまに近づくために、恵みをもって、お定めになったものなのですが、それを全廃してまでも、私たちに新しい希望としてイエス様を与えてくださった。そのことをしっかりと私たちの胸に刻みたいと思います。この新しい希望、すなわち何にも優って確かな私たちの希望であるイエス様は、私たちをどんなところからでも完全にお救いになることができる希望なのです。
 最後に25節をお読みしたいと思います。

それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

 イエス様に望みを置く者は、完全な救いを受け取ることができるのです。感謝しましょう。
 
目次

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