ヘブライ人への手紙 23
「光は暗闇の中に照りたり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙7章19-28節
旧約聖書 ヨブ記29章1−5節
不在の神
 荒川教会のホームページを見て、いろいろな方がメールをくださいます。夏休み中にも、奥様を亡くされた男性の方から、『ヨブ記』の説教を読みながら、神さまの御心を思い、悲しみに堪えているというメールを戴きました。ホームページには本当にたくさんの説教を載せているのですが、なかでも多くの反響があるのが、『ヨブ記』の説教なのです。

 『ヨブ記』は、ヨブという神さまにとても忠実な人が、ある日から突然、たいへん厳しい神さまの試みに遇うというお話しであります。ヨブは、「どうしてこんなひどい目に遇わなければならないのですか」と、神さまに問い続けます。しかし、神さまからの答えはなかなか戴けないのです。ヨブは言います。『ヨブ記』29章2節、

 どうか、過ぎた年月を返してくれ
 神に守られていたあの日々を。
 あのころ、神はわたしの頭上に
 灯を輝かせ
 その光に導かれて
 わたしは暗黒の中を歩いた。
 神との親しい交わりがわたしの家にあり
 わたしは繁栄の日々を送っていた。
 あのころ、全能者はわたしと共におられ
 わたしの子らはわたしの周りにいた。

 
ヨブが嘆いているのは、人生に苦難のあることではありません。苦難は、誰にでも、いつでも、あり得ることです。ヨブの人生においても、それは例外ではありませんでした。今までにも、色々と苦しいことがあったのです。

 しかし、ヨブは言います。《あのころ、神はわたしの頭上に灯を輝かせ、その光に導かれて、わたしは暗黒の中を歩いた》と。昔も、暗黒の中を歩いていたけれども、あの頃は神さまが私と共にいてくださった。神さまはいつも祈りに応え、私を導いてくださった。その愛を、その恵みを、いつも感じていた。そのことが人生の励ましとなり、慰めとなって、自分を力づけていた。ところが、今あるのは苦しみだけ。暗闇だけ。その中に神様がまったく居なくなってしまった。見えなくなってしまった。呼んでも、呼んでも、答えが返ってこなくなってしまった。御心がさっぱり分からなくなってしまった。いったい神さまはどこへ行ってしまったのか? なぜ居なくなってしまったのか? どんな御心をお持ちなのか。神様がわからなくなってしまったことに、ヨブを苦しみ悶えているのです。
 30章20節で、ヨブは神さまに訴えます。

 神よ
 わたしはあなたに向かって叫んでいるのに
 あなたはお答えにならない。
 御前に立っているのに
 あなたは御覧にならない。


 ヨブは、誰よりも神様と共に生きようとしていながら、神なしに生かされているような苦悩を味わっています。それにもかかわらず、神の前に生き続けようとして、神に祈りつづけています。それは、嘆き、訴え、あるいは争いとも言える苦しい祈りです。それが、ヨブの信仰なのです。このような「神の不在」、「神の沈黙」という闇の中で懊悩する人たちが、『ヨブ記』の中で何か救いを見いだすとしたら、ヨブのこのような姿勢ではないでしょうか。神さまが分からない。神さまを感じない。神さまが見えない。神さまの声が聞こえない。そのように神の不在、神の沈黙の中で祈り続けることも、神の前に生きる信仰なのです。
神は玄なり
 記憶が定かではないのですが、誰かの詩の中にあった言葉だと思います。「神は玄なり」という言葉に、強烈な印象を受けました。「玄」という言葉の意味は、一口で語りきれません。老子は玄という言葉をもって、天地万物の根源を言い表しました。万物の根源というものは、洞窟の奥深いところにあるようなものでありまして、そこは暗いのです。暗くてよく見えない、隠されている、目をこらしてよく見たとしても霞んで見えるのです。そういう奥深い暗さを、「玄」といいます。ちなみに漢和辞典で調べますと、「遠い、奥深い(暗さ)、しずか(沈黙)」という意味があるようです。「神は玄なり」とは、神さまがそのように万物の根源たる深遠な存在であるということでありましょう。そして、これが大事なのですが、そうしますと神様は分からなくて当然、見えなくても当然、近くに感じなくても当然、つまり神さまは光ではなく、深い闇なのです。

 神は闇であると言うと、驚かれる方もあるかもしれません。実は、私もあまりそういう説教を聞いたことがありません。しかし、聖書を素直に読みますと、神さまは闇なのです。たとえば、聖書に最初になんて書いてありますでしょうか。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(『創世記』1章1-3節)

 神さまが天地創造の最初に光を創造された、と語られています。光は、神さまによって創造されたものです。しかし、闇は違います。光が創造される前から《闇が深い淵の面にあり》と書いてあります。闇は、万物が創造される前から、存在していました。神さまは、闇の中におられたのです。

 それだけではありません。神さまは、厚く層をなしている黒雲、密雲の中におられると、聖書に繰り返し語っています。まず、イスラエルが神さまから十戒を受け取った時のことです。

あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。(『申命記』4章11節)

 イスラエルの民が、神の山ホレブに近づいた時の情景です。民は、黒雲と密雲の垂れこめる山に近づくことができず、モーセだけがそこに近づいていきました。

民く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト記20章21節)

 神さまはその密雲の中から、民に語り、二枚の石の板にそれを刻まれ、モーセに渡されました。

主は、山で、火と雲と密雲の中から、力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。更に、それを二枚の石の板の上に書いてわたしに授けられた。(『申命記』5章22節)

 あるいは、ソロモンが神殿を建立した時の話です。祭司たちは、神殿の至聖所に十戒の石の板を納めた契約の箱を安置しました。すると、濃い雲が神殿全体を覆い、祭司たちは奉仕を続けられなくなったと語られています。

祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。ソロモンはそのときこう言った。「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を、いつの世にもとどまっていただける聖所を、わたしはあなたのために建てました。」(『列王記上』8章10-13節)

 《主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった》と、ソロモンは言っています。神殿とは、民の中に神様が御臨在くださる証しとなる建立物でありましょう。その神殿においてすら、神さまは密雲の中に、つまり幾重にも覆われた厚い雲の暗さの中に住まわれる、というのです。

 もちろん、新約聖書において《神は光であり、神には闇が全くない》(『ヨハネの手紙1』1章5節)と記されていることを承知の上でお話しをしております。神さまが光であったとしても、その光は、厚い雲の中に隠されているのだということなのです。

 『ヨブ記』の中に、エリフという若者が登場してまいります。彼がヨブに語った言葉のなかに、私がとても大切にしている御言葉があります。『ヨブ記』37章21-22節です。

 今、光は見えないが
 それは雲のかなたで輝いている。
 やがて風が吹き、雲を払うと
 北から黄金の光が射し
 恐るべき輝きが神を包むだろう。


 厚い雲が太陽を隠すことがあります。しかし、太陽がなくなったわけではありません。雲のかなたで、太陽は輝き続けているのです。やがて風が雲を吹き払うときが来ます。そして再び太陽の光が私たちを照らすようになります。そのように、今神さまの光が見えなくても、分からなくても、感じなくても、神さまがいないわけではないのです。聖書の民は、その闇の中に、光を隠す黒雲、密雲の中にこそ、神さまの存在を感じていました。それは、まさに「神は玄なり」と言い換えても良いことではありませんでしょうか。
闇に目を凝らす
 毎年、夏休みに帰省する度に、星空を見上げます。とてもよく星が見えるところなのです。天の河もくっきりと観ることができます。ところが、すぐ近くに野球場があります。ナイターなどをやっていますと、そのあかりが煌々と夜空を照らし、さっぱり星が見えなくなってしまいます。東京の空に星が見えないのも、これと同じ理由です。地上の光が強すぎるのです。

 やがてナイターの光が消え、夜の闇が深まってくると、星が輝き始めます。しかし、光に慣れた目は、すぐにそれを観ることができません。星を見るためには、星の見えない闇に目を凝らし続けるのです。すると何も見えなかった闇の中に、だんだんと小さな星の光が見えだします。やがて、満天の星を仰ぐことができるようになるのです。

 神さまが見えなくなったヨブが、その暗闇の中で、一生懸命に懊悩しながら「あなたはどこにおられるのですか」と叫び、嘆き、祈り続ける。それはまさに、暗闇に目を凝らすということでした。『ヨハネによる福音書』1章5節に、《光は暗闇の中に輝いている》と記されています。光なき暗闇の中にこそ、神さまが御臨在なさっているのです。その人生の暗闇、世界の暗闇に、決して失望せず、闇に目を凝らし続けておりますと、そこに今まで見えなかった光が浮かび上がってくる。ヨブにもそれが見えてきました。ヨブはいいます。『ヨブ記』42章2-6節

 あなたは全能であり
 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
 「これは何者か。知識もないのに
 神の経綸を隠そうとするとは。」
 そのとおりです。
 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
 驚くべき御業をあげつらっておりました。
 「聞け、わたしが話す。
 お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
 あなたのことを、耳にしてはおりました。
 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
 自分を退け、悔い改めます。


 これが『ヨブ記』の結論なのです。


神の確かさ

さて、『ヨブ記』のお話をしてまいりましたが、今日も『ヘブライ人への手紙』からご一緒に学びたいと思います。7章19節に、このように記されています。

他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 神さまに近づくための《もっと優れた希望》がある、と語られています。希望とは、まだ見ぬことへの確信です。その確信を揺るがせるような様々なことが起こるのが人生です。希望が、失望や絶望に変わってしまうことも少なくありません。《もっと優れた希望》とは、そういう様々なことがあっても、決して揺るがないようなしっかりとした希望なのです。

 そして、それは、神さまに近づくための希望であります。ヨブは「ああ、昔に戻りたい! 神さまに守られ、神さまが光となってくださり、神さまとの親しい交わりがあったあの頃に戻りたい」と嘆きましたが、どんなに嘆いても、叫んでも、祈っても、それによって神さまに近づくことができませんでした。神さまに近づくことは、どんなにそれを私たちが願ったとしても、神さまの方から私たちに近づいてくださらなければ、決して実現しないことだからです。

 神さまは、いろいろときに、いろいろな方法でイスラエルの民に近づいてくださり、御自分を表してくださったと、『ヘブライ人への手紙』の冒頭に語られています。本書の論述に従えば、天使によって、たとえばモーセによって、たとえば律法によって、アロンやレビの祭司制度によって、神さまは御自分に近づく道を人間に備えてくださいました。それが、神に近づこうとする人々の希望でありました。しかし、この希望は、人間としての罪や弱さのゆえに、とても不安定なものだったのです。それで、御子は天使に優り、モーセに優り、アロンやレビの祭司制度に優るということが、これまで語られてきたのです。

 神さまは闇である、黒雲、密雲の中に住まわれていて、人間は神さまを見ることも、分かることも、感じることもできないということをお話ししましたが、今、神さまは黒雲のうちでもなく、密雲のうちでもなく、闇のうちでもなく、イエス様のうちにおられます。そして、イエス様によって、御自分を私たちに表してくださっているのです。

 「神、御子によって我らに語り給へり」、これが私たちが神さまに近づくために与えられた、他のあらゆる希望に優る希望です。天使によらず、モーセやその律法によらず、アロンやその祭司制度によらず、神さまの御子であるイエス様が私たちの大祭司となって、とりなしをしてくださり、神さまに近づくことができるという希望なのです。25節

この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

 イエス様は常に生きていて、私たちのために執り成してくださっています。生きているだけではなく、私たちの救いのために、生きていてくださるということが、ここに語られているのです。私たちがどんな時にも、いかなる者であろうとも、です。イエス様は完全な救い主であると言われているのです。

 それでも、私たちは神さまが見えないという現実、深い闇を経験することがありましょう。そのような時、ヨブは深い闇に神を見ようと目を凝らし続けました。私たちもそのような信仰が必要でありましょう。しかし、私たちが、ヨブとは違うことがあります。それは、イエス様がおられるということなのです。

 ヨブは神の不在、神の沈黙に苦しみましたが、もう一つヨブを苦しめたのは、エリファズ、ビルダド、ツォファルという三人の友人たちの助言でありました。三人は、「君は罪人だから、神さまの裁きを受けているのだ。悔い改めよ」と言い続けたのです。しかし、ヨブには、これがどうしても納得できませんでした。自分に罪がない、とは言わない。しかし、もっと悪い人たちが裁きも受けずに幸せそうにしているではないか。もし、神さまが自分の罪だけをこんなに厳しく扱われるならば、神さまは正しいとは言えないのではないか。ヨブは、自分が罪人として神さまに拒絶されることが、納得できなかったのです。

 しかし、私たちにはイエス様がおられます。イエス様は、自らの命をもって、私たちの罪を贖い、私たちを神さまに受けいれられる者としてくださったのです。自分は神さまに受け入れられているのだという確信を、イエス様が与えてくださったのだと言ってもよいでありましょう。たとえ神さまが見えなくても、分からなくても、イエス様を信じるとき、それだけは変わらぬことである、と確信を持てるのです。神さまは、私を愛してくださっている。私のために、祝福を用意してくださっている。この確信を持ち続けることができるのです。どんなに愚かで、弱くて、罪深い者であっても、イエス様は「あなたは神に愛されているのだ」と保証してくださるのです。この希望をもって、神さまに近づく道を歩み続ける者でありたいと願います。
 
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