ヘブライ人への手紙 25
「イエスは天にて真の幕屋に仕へ給ふ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙8章1-2節
旧約聖書 イザヤ書53章
ゲツセマネの祈り
 前回、哲学者アランのお話しをしました。その教え子にシモーヌ・ヴェイユというフランスの女性哲学者がおります。ふたつの大戦の狭間にある波乱のヨーロッパで、ナチスと闘い、常に弱い立場の人、虐げられている人、苦しめられている人の側に立ち、レジスタンス運動などに積極的に加わり、「行動する哲学者」として知られる方です。今日は、彼女の代表的な著作である『重力と恩寵』からの一節をご紹介したいと思います。

病人を癒したり、死者をよみがえらせたりするキリストは、キリストの使命の中でも、みすぼらしく、人間くさく、低級ともいっていい部分である。超自然的な部分は血の汗であり、人間の側に慰めを求めても得られなかったことであり、できるならまぬがれさせてほしいとの切なる祈りであり、神から見捨てられているという思いである。

 病人を癒したり、死者をよみがえらせたりするなんてことは、イエス様の御業の中ではみすぼらしく、低級なものに属するんだと、切って捨てるような言い方をしています。これについては、いろいろおっしゃりたい方もおられることでありましょう。しかし、シモーヌ・ヴェイユが言わんとしていることは、癒しの御業がみすぼらしい低級なものかどうかということではなく、その後の部分がより重大であるということなのです。私たちがイエス様という御方を考えるとき、また心に思うとき、あるいは御前に祈るとき、最も注視しなければならないイエス様の御姿は、ゲツセマネの祈りにおける御姿であるということが言われているのです。

 なぜ十字架といわず、ゲツセマネの祈りというのでありましょう。それはゲツセマネの祈りが、イエス様の十字架が何であったかを物語るきわだった出来事であるからです。十字架は、一種の殉教と捉えることもできます。しかし、歴史のなかには、そのように自分の信念のために英雄的な死を選ぶ人はいなくはないのです。たとえばシモーヌ・ヴェイユ自身も、戦争の悲惨さを訴えるためのハンストを行い、34歳の若さで命を落としました。しかし、イエス様の十字架は、そういう英雄的な行為とはかけ離れたものでした。「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給ひし」と苦悩の叫びをあげ、「われ渇く」と悲痛な呻き声をあげて、神さまに見捨てられた思いを持って絶命なさった。このイエス様の弱々しさが、十字架の本質でありました。ゲツセマネの祈りはそのことを、私たちにとてもよく物語っているのです。

 イエス様は、十字架におかかりになる前夜、弟子たちと最後の晩餐を終えられたあとで、弟子たちを引き連れて、オリーブ山のゲツセマネという場所に行かれました。ゲツセマネに到着されると、イエス様は、《ひどく恐れ》(『マルコによる福音書』14章33節)、《悲しみもだえ始められ》(『マタイによる福音書』26章37節)、《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていない》(『マタイによる福音書』26章38節)と、弟子たちに慰めを求め、少し離れたところで《「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」》と、祈り始められたといいます。その様子について、聖書は《苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。》(『ルカによる福音書』22章44節)とも記しています。

 この苦悩に満ちたイエス様の祈りの場に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを招かれました。うれしいこと、たのしい時間や場所を共有するのと違って、苦しいことや悲しみを共有するのは、とてもしんどいことです。頼む方にしても、誰にでも気安く頼めることではないのです。だからこそ、苦しみや悲しみを共有する場に招かれることは、たいへん光栄なことであり、また本当に求められていることであったに違いありません。「共に祈って欲しい」と、主から慰めを求められていた弟子たちは、そのような格別なる主との交わりの中に招かれていたでありました。それなのに、彼らはすっかり眠りこけてしまいます。「目をさましていなさい」、「誘惑に陥らないように」という、イエス様の呼びかけも、意識のかなたに飛んでしまうほど、眠くて仕方がなかったのです。

 そこに、事もあろうに愛弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、イエス様を捕らえようと殺気だった人々を引き連れてゲツセマネの園にやってきます。そして、おもむろに主に近づき、接吻をしました。ユダが接吻した相手を捕らえる算段になっていたのでした。御自分の選んだ弟子に、愛のしるしである接吻をもって、裏切られたイエス様の心は張り裂けんばかりの悲しみに堪えておられたに違いありません。そこに棒や剣をもった人々が襲いかかります。弟子たちはみな、恐れをなして、蜘蛛の子を散らしたように逃げだし、イエス様を見捨てました。独りゲツセマネの園に残されたイエス様は、人々に抵抗するどころか、自ら進んで彼らの手にご自分を委ねられたのです。

 苦しみ呻き、悲しみ祈り、弟子たちに助けを求めて得られず、裏切られ、見捨てられ、暴力によって捕らえられたイエス様。それが、ゲツセマネの祈りにおけるイエス様の御姿でありました。それはそのまま「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給ひし」との十字架の叫びに、そして「われ渇く」との十字架の死に直結するのです。

 
大祭司の愛
 このイエス様の弱々しさ、惨めさ、苦しみの深さこそ、病の癒しとか、死者のよみがえりとか、そういう奇跡にもまさって、イエス様が私達に顕し、示し給う奇跡であると、シモーヌ・ヴェイユは言ったのです。いや、シモーヌ・ヴェイユが言ったというよりも、聖書が、そう言っているのです。とくに私達が今読んでおります『ヘブライ人への手紙』は、そのことを繰り返し、私達に教えています。

イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。2章17-18節

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。4章15-16節

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。5章7-10節

 これらの御言葉が何を語っているのかは明白です。イエス様がお受けになった痛み、苦しみは、私達を愛するがゆえの痛み、苦しみであったということです。

 私達が、恐れや不安に圧倒され、平安なく、喜びなく、苛立ちばかりが募り、怒りや、拒絶や、非難や、罪の意識や、後悔や、絶望や、そのような負の感情に押しつぶされそうになりながら、日々を生きているのはなぜでありましょうか。突き詰めていけば、それは自分自身の罪のせいであり、愚かさのせいであり、心と肉体の弱さのせいです。神さまは、このような私達を、イエス・キリストの姿をもって愛してくださいました。

 それは大祭司の愛でありました。5章2節にこう記されています。

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。

 大祭司は、私たちの罪や愚かさや弱さを追及する検察官ではありません。また「こうあれ」と叱咤激励する教師でもありません。過ちを追及することや、叱咤激励することも、愛の一面である場合がありましょう。しかし、愛がなくてもできることであります。そして、しばしば、それは、弱き者、愚かな者を強め、生かすのではなく、追いつめ、弱らせることがあるのです。大祭司の特質は、思いやりにあります。無知な人に教えるのではなく、迷っている人を叱るのではなく、《無知な人、迷っている人を思いやることができる》、その愛をもって、イエス様は私たちに寄り添い、包んでくださるのです。

 イエス様が血のしたたりのような汗を流して「できるならこの杯を過ぎ去らせてください」と祈りながら、絞り出すような思いをもって「しかし、私の思いではなく御心のままになさってください」と祈られるときに、イエス様は、自分の願いと神の御心の間で葛藤し、苦しみ、悩みつつ祈る私達と共にいてくださるのです。イエス様が眠りこける弟子たちを見て、慰めを求めても得られない孤独に耐えておられるときに、イエス様はだれも自分の苦しみを分かってくれないという孤独に打ちひしがれる私達と共にいてくださるのです。イエス様が「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給ひし」と叫ばれるとき、イエス様は、神に見捨てられるしかないような罪深き私達と共にいてくださるのです。

 私たちは、イエス様のうちにそのような大祭司の愛を見いだして、神われらと共にいますという永遠の救いを受けることができるのだと、聖書は語っているわけです。

 今日は、ここに聖餐式のパンとぶどう液が用意されています。このパンとぶどう液が意味するものは、わたしたちのために献げられたイエス様のからだと血です。イエス様は、自らの肉を裂き、血を流して、私たちの神と共に生きる命をあたえてくださったのです。ある人がこう言いました。このぶどう液は、イエス様が人々に踏まれ、押しつぶされて、絞り出された血汐をである、と。その血を、私達は自分の命としていただくのであります。イエス様の御苦しみによって、私たちは生きる者とされるのです。
天の大祭司
 今日お読みしましたのは8章1-2節でありました。

今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。

 これまで1章から7章まで読んできたわけですが、それは要するに、私たちには大祭司が与えられているということ、その大祭司が今も天における聖書で私たちのために執り成していてくださるということだというのです。だから、天にあって、私たちのために一生懸命に執り成してくださっているイエス様を仰ぎ見なさいということなのです。

 しかし、ここで私たちは、はたと困ってしまう。天のイエス様を仰ぎ見るということはどういうことなのか? 「天」とはどこにあるのか? 何をさしているのか? ここでいう「天」とは、空の上という意味ではありません。天とは、神さまの栄光の満ちているところ、輝いているところ、そのように理解すればいいのだと思います。そして、神さまのご臨在が満ち、栄光が輝いているのは、他でもなく、イエス・キリストのご受難においてなのです。

 最初にご紹介しましたシモーヌ・ヴェイユの言葉をもう一度見てみましょう。

病人を癒したり、死者をよみがえらせたりするキリストは、キリストの使命の中でも、みすぼらしく、人間くさく、低級ともいっていい部分である。超自然的な部分は血の汗であり、人間の側に慰めを求めても得られなかったことであり、できるならまぬがれさせてほしいとの切なる祈りであり、神から見捨てられているという思いである。

 病人の癒し、死者のよみがえり、そのような奇跡をみれば、誰もがそこに神さまの御業を見、神さまの栄光を見るでありましょう。しかし、それはどんなに素晴らしい出来事であったとしても、人間の願いが実現したに過ぎません。それに対して、イエス様の御受難において実現しているのは、神さまの御心でありました。人間の思いを実現させる神さまの御業と、神さま御自身の思いを実現させる神さまの御業を比べれば、どちらが栄光に満ちあふれたものであるかが、分かるでありましょう。それゆえシモーヌ・ヴェイユは、ゲツセマネの祈りにおけるイエス様の御姿にこそ、「超自然的な部分」、つまり神さまの格別なる栄光が表されているのだと言っているのでありましょう。

 ただそのことは、病の癒しとか、死者のよりみがえりとは違って、それを見る極めて霊的な目がなければわからないことです。宗教改革者のカルヴァンは、この箇所の注解でこういうことを言っています。

キリストにおいて、一見地上のものと見えるものは、信仰の目で霊的に見つめられなければならない。そこで、アブラハムの血筋から生じた彼の肉は、神の幕屋であったのだから、人を活す生命であり、これはまさに超自然のことである。

 要するに、天の大祭司であるイエス様の姿を見つめるということは、空を見上げることではなくて、地上でのイエス様の御姿を信仰の目をもって見つめることだ、というのです。そうすると、彼の肉は、神の幕屋であったことが分かる。これはどういうことかと言いますと、イエス様のうちに真の神さまがおられ、その神さまの愛と栄光が顕されているのだということです。もっとはっきりと言えば、イエス様の御苦しみによって、私達は救われ、新しい命をあたえられ、神さまに近づく道を得るのだということです。

 もう一つ、パスカルの言葉を、ご紹介したいと思います。今日はいろいろな人の文章を紹介して、少し混乱するかもしれないのですが、それだけ多くの人たちが、このことに深い感銘を覚えて書き記しているということなのです。パスカルの『パンセ』の中に「イエスの秘儀」と題された、やはりゲツセマネの祈り、十字架におけるイエス様について書かれた文章があります。その中の一部に、イエス様が語られる形でこのような言葉が記されています。

わたしは、ほかのどんな人よりももっと親しいあなたの友だ。わたしはあなたのために、ほかのだれよりも多くのことをした。ほかの人は、わたしがあなたのことで苦しんだほどには苦しまないだろうし、あなたが不実で、薄情である時に、あなたに代わって死のうとはしないだろう。けれども、わたしは死んだ。そして、これからも死ぬつもりであるし、また、今も死につつある。わたしの選んだ者たちにおいて、また、聖なる秘蹟において。

 イエス様は、他のだれよりも多くのことをしてくださった。イエス様は、他のだれよりも私のために苦しんでくださった。だから、イエス様は他のどんな人よりも私達を愛してくださる素晴らしい友なのだ。そのことを、信仰の目をもってイエス様のご受難の中に見いだす時、私達は天の大祭司として私達のためにとりなしてくださっているイエス様を見ることになるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp