ヘブライ人への手紙 27
「我かれらの神となり、彼らは我が民とならん」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙8章1-13節
旧約聖書 出エジプト記19章1-9節
罪の現実
  時々、本屋さんをぶらぶらして、気分転換をはかったりします。すると、どこの本屋さんでも、成功術とかセルフ・コントロール系の本がズラリと並んでいることに気づきます。並んでいるタイトルを読むと、凄いです。「人生のどんな問題でも解決する魔法のルール」、「自分に絶対自信がつくセルフ・コントロール」、「不思議なぐらい元気ができるリラックス法」、「心が楽になる生き方」、「あなたの運はもっとよくなる!」、「七日間で人生を変えよう」、「もっと楽に自分を変えられる」・・・あまりにもタイトルが軽すぎて、手にしてみる気も起こらないのですが、逆にこういうタイトルに惹かれ、藁にもすがる思いで、本を購入する方も多くいらっしゃるのでありましょう。

 ちらりと思いましたのは、こういう本のタイトルのような説教題を掲げたら、もっと教会に人が集まるのではないかしらん、ということです。人々は、生きることにへとへとになっています。その苦しさを、少しで和らげてくれるようなカンフル剤を求めています。「癒し」、「慰め」、「元気」、「夢」、「希望」、「成功」・・・そういった自分に優しい言葉や、ポジティブな励ましを、求めているのです。教会も、そのような人々のニーズに応える説教をしたらいいのではないか? そうすればもっと教会に人が集まるようになるのではないか。しかし、すぐにそのような気持ちを打ち消しました。教会は、人々のニーズに応える場所ではないからです。コリント教会に宛てたパウロの手紙『コリントの信徒への手紙1』1章22-24節にはこのように記されています。

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 人間が自分に必要だと思っている救いと、神さまがあなたに必要だと言っておられる救いの間には、大きなズレがあると告げられています。みんな、生きることにくたびれています。疲れきっています。そこで、ユダヤ人はしるしを求める。ギリシャ人は、知恵を求める。現代人は、癒しや慰めの優しい言葉を求める。しかし、神さまがあたえてくださったのは、十字架につけられたキリストでありました。十字架につけられたキリストから、しるしも、知恵も、癒しも、慰めも与えられることでありましょう。けれども、十字架のキリストが、もっと強くはっきりと、私達に主張していることは、罪の贖いです。あなたの罪を負って、イエス様は十字架で死なれたのだということなのです。

 あなたの罪! その問題を解決するために、イエス様は十字架にかかられました。罪とは、神さまと私達の間に横たわる問題です。人は、このような神との関係における罪について、なかなか考えようとしません。社会のルールを破ったり、人に迷惑をかけたりすることを、罪だと考える人はたくさんいます。しかし、神さまに対して、自分が罪を犯しているということは、なかなか考えませんし、考えても分からないのです。

 しかし、『ローマの信徒への手紙』3章23節で、《人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています》と、語られています。大空も、海も、山も、造り主なる神の栄光を現しています。空の鳥も、野の花も、命の主である神の栄光を現しています。神の栄光を現すとは、神さまの姿をそこに映し出しているということです。しかし、人間を見ていても、神さまが素晴らしいなんて少しも思えない。自己中心で、欲にかられていて、争いを好んで、人の幸せをうらやんで、いつも不平不満に満ちていて、神さまにあれがいない、これがないと文句ばかり言っている。それを見ていると、神さまなんかいないんじゃないか、神さまは意地悪なんじゃないか、と思う人がいても、不思議ではありません。このように人間を見ても、神様の栄光がわからないのは、神様と人間の間に横たわる罪の問題があるからだと、聖書は語っているのです。

 この罪こそ、人間の最大の問題なのです。この罪を取り除くためにこそ、独り子なるイエス・キリストを世にお遣わし下さったのです。そして、十字架にかけ、私達の罪の贖いとしてくださったのです。イエス様によって私達の罪を取り除き、私達が再び神と共に生き、神様の栄光を表す者となる道を開いてくださったのです。ここに神様の最大の愛があります。ここに神様のもっとも深い恵みがあります。ここに神様の完全な救いがあるのです。

 しかし、私たちは、神様をないがしろにする罪人であるが故に、神様に対する自分の罪に、気づかないでいます。それに気づかないから、救い主イエス・キリストの十字架も分からないのです。「あなたの罪を贖うためにイエス様が十字架にかかってくださった」、そんなメッセージに何の魅力も感じない。それよりも、「人生のどんな問題でも解決する魔法のルール」とか、「不思議なぐらい元気ができるリラックス法」とか、「心が楽になる生き方」とか、「あなたの運はもっとよくなる!」とか、そういう言葉に心を惹かれてしまうわけです。

 教会は、そういう人々にニーズに惑わされず、人間の罪と、その罪の贖いを成し遂げるために十字架につけられたキリストを語り続けます。罪の問題が解決されなければ、何も解決しないと信じるからです。しかし、罪の問題の解決を手に入れるならば、癒しも、慰めも、平安も、すべての善きものが、そこからわたしたちに流れてくるのです。


 
 
神様の失敗?
 今日、お読みしました『ヘブライ人への手紙』も、わたしたちの罪の問題を深く考えさせられながら、イエス・キリストの救いに目を向けさせるところです。

 先週もお話ししましたけれども、8章8節〜12節は、バビロン帝国の侵略によりエルサレムが廃墟のようにされてしまった時に、エレミヤに与えられた言葉です。神殿は破壊され、城壁は壊され、おもだった人々は捕虜として連れ去られてしまった。国が滅んだと言ってもよいでありましょう。なぜ、神の都とも言われたエルサレムが滅んでしまったのか。神の神殿が異邦人たちに蹂躙されるようなことになってしまったのか。それは、あなたがたの罪のせいだと告げるのです。その罪とは、《彼らはわたしの契約に忠実ではなかった》ことだというのです。

 たまたま、ある時代において、神様に従わない悪い時代があったということではありません。そういうことであるならば、神様は何度も何度もその罪をゆるし、チャンスを与え続けてくださったのです。また、たまたま、ある人が不信仰で、神様の御言葉を守れなかったということもでもありません。そうではなくて、すべての人たちが、すべての時代において、神様に従うことができなかったのです。それが、人間の罪の現実であった。だから、『ヘブライ人への手紙』は、これを《最初の契約の欠けたところ》、すなわち契約の欠点だというのです。神様の御声に聞き従うならば、神の民となるという契約です。しかし、神様の御声に聞き従うことができないのが、人間だったのです。これでは契約を結んだ意味がありません。だから、《契約の欠けたところ》と言うわけです。

 神様は、どうして、このような守ることができない契約を結ばれたのでしょうか。これは人間の失敗と言うよりも、神様の失敗であったというべきではありませんでしょうか。そうではないのです。8章8節と10節

『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。

『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』


 これを読みますと、神様は最初から新しい契約を用意しておられたように思えるのです。旧約聖書におけるイスラエルの歴史は、神様の教えに背き続けた歴史であるということもできますが、逆に神様の教えを一生懸命に守ろうとしてきた歴史でもあります。先週もヨシヤ王の話をしました。彼は力を尽くして神様に立ち帰ろうとしました。しかし、そうやっても、結局は神様の御言葉にとどまることができなかった。ヨシヤ王の死後、三ヶ月で偶像礼拝がはびこるようになってしまったのです。どんなに信仰があっても、どんなに熱心をもっていても、それだけでは神様のもとにとどまり続けることができない。信仰に生き、熱心さをもって神様に仕えれば仕えるほど、そういう人間の罪の現実が明らかにされてきたのであります。

 《最初の契約》の目的は、そこにあったのだと言ってもいいのです。新約聖書は、律法は、わたしたちを主イエス・キリストに導くための養育係であった、と語っています。神様に従い得ない人間の、罪の現実を知らしめる役割があったのだというのです。そのことを知るとき、人間ははじめて、自分の努力や熱心では克服できない、自分の罪の深さに気がつくのです。それに気づかなければ、神様がその罪を贖うために主イエス・キリストを十字架にかけられたということが、わからないからです。

もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。

 つまり、《最初の契約》には、余地があったということです。余地があるとは、新たなことをなしうる機会が残されていたということです。神様は、《最初の契約》に、はじめから、そのような余地を残されて、二段構えの契約をお考えだったのではありませんでしょうか。自分の罪の大きさを知るということ、そしてその絶望の中ではじめて十字架のキリストにうちに示された神様の愛が見えてくるのです。

新しい契約
 では、新しい契約とはどのようなものなのか。10-12節に、エレミヤを通して語られた神様の言葉が記されています。

 すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。


 律法とは、神様の言葉です。律法のうちには、神様のご性質が宿っています。聖なる性質、義なる性質、愛なる性質、そういう神様の性質が、言葉の内に宿っているのが、律法です。しかし、逆にいうと、わたしたち罪深い人間には、決して近づくことができないものでありました。字面を守るということはできるかもしれません。しかし、イエス様が教えてくださったような、律法のうちに隠されている神様のご性質までを、自分の力で身につけることはできなかったのであります。

 しかし、新しい契約は、律法をわたしたちの心に書き付ると言われています。わたしたちの考えるところ、願うところ、意志するところを、神様の御心に適う者にしてくださるということです。そうすれば、わたしたちは神様の御教えに従って生きることができるようになるというのです。

 これは言い換えれば、神様がいるところに、わたしたちが行くのではない。わたしたちのいるところに、神様が来てくださるということです。それが、神の御子であるイエス様が、もろもろ天を通過されて、わたしたちの隣人になってくださったということであるし、聖霊がわたしたちに与えられて、わたしたちの心を神の宮として住んで下さるということなのです。

 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」

 《主を知れ》と、教える必要がなくなるとあります。つまり、先生がいらなくなるのです。私のような説教者もいらなくなる。これは本当にありがたいことです。みんな、言わなくても分かっている。これが一番の理想だと思います。こんなことを申し上げると、本当にみなさん、がっかりなさるだろうと思いますが、説教を準備するとき、本当に辛い時があるのです。もちろん、ほとんどの場合は自分自身が喜びでありますし、力を与えられて説教をしているのですが、年に何度かは辛い時がある。神様の御心がどこにあるのか迷ったり、時間がなくて四苦八苦したり・・・だから、《主を知れ》と教える必要がなくなるというのは、私にとっては本当に救いだなあと思うのです。これは冗談としても、《主を知れ》という言い方が、気になる。「お前たちは何をやっているんだ。」と叱りつけているような、上からものを言うような言い方です。《主を知れ》というのは、たぶん「こういうことをしなさい」とか、「こういうことはしてはいけない」とか、教育とか、命令に近いようなことを想定しているのかもしれません。

 主を知るとは、そういう命令とか、教育とは、違うものだと思うのです。主を知るとは、本当はとっても楽しいことではないでしょうか。喜ばしい、命に満ちたことではないでしょうか。主を知ると生きる力が湧いてくる。主を知ればもっと知りたいと思うようになる。それがなくなったら、本当に寂しいことです。ここで言っているのは、そういうことがなくなるということではないと思うのです。主を知る喜びは、わたしたちにとって永遠になくならないことです。主の恵み、主の救い、主の愛を分かち合い、互いに学び合い、共々に主を讃美する。これが礼拝でありましょう。

 小さな者から大きな者まで・・・子供から大人までみんな主を知る喜びに溢れている。主を讃美している。そして、お互いのうちに主の栄光を見て、また喜びが溢れてくる。《主を知れ》ではなく「主を知る」ようになる。これが新しい契約の内容です。

 新しい契約の内容の一つは、主がいるところにわたしたちがいるのではなく、わたしたちがいるところに主がいてくださるということです。わたしたちのうちに主がいてくださり、わたしたちの心のうちに主の教えが与えられるのです。そして、二つめは主を知る喜びに満ちあふれるということです。それは主ご自身で充たされることだと言って良いかもしれません。

 そのためには、今日は最初から言っていることですが、わたしたちの罪の問題が解決しなければならないのです。これが根本問題なのです。

 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。


 罪の問題の解決、これが新しい福音のもっとも中心にあることなのです。この新しい契約=福音にわたしたちを招き入れるために、主は来てくださったのです。

神の確かさ

 
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