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聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があります。「旧約聖書」というのはイエス様がお生まれになる前に出来上がっていたものです。その内容は主に神様とユダヤ人の歴史と信仰にかかわる書です。「新約聖書」は、イエス様が十字架で亡くなられた後、使徒たちによって記されました。その内容は、イエス様の御生涯、そして教会の歴史、教会の信仰です。
しかし、そういう言い方では、「旧約聖書」と「新約聖書」の本当の意味での違いというものを言い表したことにはなりません。聖書を本当に理解しようとするならば、もっと本質的な「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを知る必要があります。すなわち「旧約聖書」は、神様との最初の契約が記された書であり、「新約聖書」は、神様との第二の契約が記された聖書という意味なのです。
神様との契約とは、何でしょうか? 契約と言えば、まず商売上での取引を思い浮かべるかも知れません。それもいいのですが、社会契約という言葉もあることをご存知だろうと思います。これは民主主義の基本と言ってもよい考え方です。人間は皆、互いに独立、自由、平等を持っています。それを一部の人たちが、他のひとたちのそれを、力で無理矢理に抑えつけてしまうのが、独裁政治とか、専制政治です。それに対して、民主政治は、みんなの約束に基づいて、国家や社会を築くことです。民主政治にも権力は必要です。そうでなければ、みんなが自由の名のもとに勝手なことを始めてしまう。泥棒だって、人殺しだって、自由だということになりかねない。ただし、民主政治の権力というのは、みんなの約束、同意によって定められたものです。それが、社会契約という考え方です。たとえば、わたしたちの国には、日本国憲法というものがあります。これは、日本に住むわたしたち一人一人が互いに交わした契約書だと考えることができのです。この契約に基づいて、わたしたちは皆、自由を自ら差し出し、ある人たちに権力を委ね、平和な社会のために責任的に生きているわけです。
この責任ということが大事です。商売上の契約にしても、社会契約にしても、違反したら関係が壊れます。そして、その関係を壊した代償を払わなくてなりません。つまり、契約は、責任的な関係の土台だと言ってもよいと思います。神様との契約も同じです。それは、神様とわたしたちの責任ある関係の土台なのです。
本来ならば、契約など結ばなくても、自然状態でそういう関係が結べれば、それが一番いいのかもしれません。たとえば親子関係は、そういうものです。しかし、その関係は決して対等ではありません。子供は親を選べませんし、縁を切ろうが何をしようが、他人にはなれないのです。他方、夫婦関係は違います。契約によって夫婦になるのです。契約を解消すれば、ただの他人です。最近では、敢えて婚姻届を出さないで、夫婦同然の暮らしをするということもあるようですが、そういう関係は、どうしても責任という点で、問題を孕んできます。人間の気持ちなどあまり信用がならないもので、何事もなく満たされあっているときはいいのですが、ふたりの関係に亀裂が生じるような危機が訪れたとき、脆く崩れてしまうような不安定さがあるのです。危機を乗り越えて、夫婦であり続けようとするには、多少足枷のようなところがあったとしても、契約というものが大事になります。そういう責任ある関係の土台があって、はじめてお互いを大切にし、愛し合うということが可能になってくるわけです。
神様とわたしたちの関係は、基本的には親子関係のようなものです。神様が創造主であられて、わたしたちはその被造物であることは、どんなにしても変わらない関係だからです。神様に対して、わたしたちが独立、自由、平等を持つなどということはないのです。ところが、神様から、それをわたしたちに与えてくださいました。神様が、人間を、他の動植物と違って、「神のかたち」におつくりになったということは、そういうことを意味しているのです。「神のかたち」とは姿ではなく、神様がわたしたちの独立、自由を認め、交わりの相手としてくださったということなのです。だから、わたしたち人間は、神様を信じない自由もあるいし、従わないで独立独歩に生きることもできるわけです。人間が、偉いからではありません。神様が、それをおゆるしくださっているのです。
その上で、神様は、わたしたち人間と良い関係を築こうとなさいました。お互いに独立しており、自由でありながら、その身を相手のために献げる。これが愛というものでありましょう。そのような愛による関係を結ぼうというのが、人間に「神のかたち」をお与えになった、神様の御心であったのです。
聖書を読み始めた人が、よくこういうことを質問されます。「なぜ、神様はアダムとエバの手の届くようなところに、禁断の木の実などを植えられたのか? これ見よがしにそんなものが植えてあったら、ぜったいに食べたくなるに決まっているじゃないか。食べさせたくないのだったら、ぜったいに手の届かぬところに置けば良かったのだ。人間が禁断の木の実を食べてしまったとしても、その責任は神様にあるんじゃないか?」しかし、そうではないのです。あの禁断の木の実は、わたしたち人間が、自分の自由を制限してまでも神様に従うこともできるし、神様など関係なく自分の思いのままに生きることもできる。そういう大きな自由の中に置かれているということの証しです。人間は、自らの責任で、生き方を選ぶことができるのです。神様は、禁断の木の実を、人間の世界の中心におくことによって、わたしたちにそのような尊厳をお与え下さったのです。
しかし、その結果、人間は神様の御心に従うよりも、自分の欲望に従ってしまいました。当然、その結果として神様と人間の関係は壊れてしまいます。人間が神様によって造られた者であることには変わりありませんが、神が願っていたような、愛をもって神様との関係に身を置いて生きる人間ではなくなってしまった。その意味で、神様と人間の関係は破綻してしまったのです。人間にしてみれば、自らの自由意志をもって、神様との関係を捨てたということになります。神様にしてみれば、自由な意志を与え、御自分との愛の中に生きるようにと願った人間との関係を失ってしまったということになるのです。
このように、神様と関係なく生きるということは、人間が自分で選んだことです。それで幸せになったのかといえば。けっしてそうではありませんでした。自分が不幸になるだけではなく、ひとをも不幸にするような存在になってしまったのです。
このような人間に対して、神様が与えてくださったのが、契約です。神様との関係を捨ててしまって、その結果、神なき望みなき者となってしまった者たちが、もう一度神様との関係を結んで、神様の祝福の中に生きるための、土台とするものとして与えられたのが、契約なのです。
契約は、普通は対等の関係で結ぶものなのだと思いますが、神様との契約というのは、こういう経緯を考えますと、神の恵み、あるいは救いであると言うことができます。一度は神様を捨ててしまった人間を、もう一度、契約をもって、神様との関係の中に、神様が恵みをもって招いてくださったのです。
そして、この契約というのは、『ヘブライ人への手紙』8章7節の言葉を用いれば、《最初の契約》と《第二の契約》という、二段構えになっています。それが、今わたしたちの手にしている「旧約聖書」と「新約聖書」なのです。どうして二段構えになっているのか? それについては前回にお話ししましたので、今日は割愛します。今日、みなさんとご一緒に聖書から聞きたいのは、礼拝ということについてなのです。 |
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神様と人間の関係の土台となるのが、契約であるということを申し上げてきました。では、その契約の内容は何でしょうか。それが、神様を礼拝することなのです。わたしたちは洗礼を受けてクリスチャンになります。洗礼を受けるということは、ちょうど神様との契約に、捺印を押すようなものです。こうして契約を交わしたクリスチャンの第一の務めは何か? 神を礼拝することです。「あなたはわたしの神ではない。わたしはあなたとは関係ない」と言って、禁断の木の実を口にしてしまった人間が、再び神様との関係に入れられて、「あなたはわたしの神です」と言うこと、これが礼拝の原点です。そして、そのような礼拝を可能ならしめるものが、契約なのです。
ですから、『ヘブライ人への手紙』は8章で契約について語り、9章では礼拝のことを語ります。契約が変われば、礼拝も変わります。《最初の契約》における礼拝が、新しい契約によってどのように変わったのか。そのことが、今日お読みしたところに記されていたのです。1-10節まで《最初の契約》における礼拝について書かれているところです。11-14節が《新しい契約》について語られているところです。
まず1-5節をごらんください。ここには《幕屋》、あるいは神殿という、旧約時代の《聖所》について記されています。《幕屋》にしろ神殿にしろ、基本的な構造は同じです。前の部屋と奥の部屋に分かれていまして、その間に《垂れ幕》があります。前の部屋を《聖所》と言い、奥の部屋を《至聖所》と言います。2節では、聖所にあたる部分が、《第一の幕屋》と呼ばれています。その中には《燭台、机、そして供えのパン》が置かれていたと書かれています。3節には、《至聖所》について書かれています。そこには《金の香壇》、《契約の箱》、その中には十戒のしるされた《石板》、また契約の箱の蓋の役割もしていた《償いの座》と《ケルビム》の像、《マンナの入っている金の壺》、《アロンの杖》がありました。これらのものが、どんな意味をもっていたか、どのように礼拝で用いられたか、それを今ここでお話しすることはできません。『ヘブライ人への手紙』も、《今はいちいち語ることはできません》と言っていますから、本筋には関係ないと考えていいと思います。
では、何が大切かといいますと、幕屋の中が、聖所と至聖所の二つに、分かれていたということです。そして、第一の契約、すなわち旧約時代には、もっぱら聖所での礼拝が中心であって、至聖所では年に一度、大祭司だけが、そこに入ることができたということなのです。6-7節にそのことが書かれています。
以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。
ここには礼拝理解について、非常に大事なことが、隠されています。ひとつは、《第一の幕屋》と《第二の幕屋》、つまり聖所と至聖所です。もうひとつは《祭司》あるいは《大祭司》です。もう一つは罪の贖いとして《献げる血》です。この三つは、神様との契約によって、わたしたちに与えられた礼拝とは何かということを理解するために、必ず知らなければならないことなのです。
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まず、聖所と至聖所であります。聖所は、礼拝のための場所でありますが、至聖所とは、人間が踏み込めない領域、神様の領域として存在していました。禁断の木の実のようなものです。禁断の木の実は、エデンの園の中央にありました。至聖所は、民の宿営所の中央にありました。わたしたちが暮らしている世界の中心に、人間が侵し得ない神様の存在があるということを認めること、それが神様と人間との関係を回復の第一歩なのです。
たとえば日曜日の礼拝を守るということも、そうです。一週間は七日あります。しかし、七日間のすべてを自分の好きなように生きていたら、どこに神様の存在を認めていることになるでしょうか。神様なしに生きているのと、何が違うのでしょうか。その一日を神様の日、聖なる日、自分の都合で勝手にできない日として、わたしたちは献げるのです。それが、わたしたちの中に神様がおられて、神様と共に生きているということでありましょう。
献金もそうです。神様は、私たちに日々の糧や楽しみのための、富を与えてくださいます。しかし、そのすべてを自分のものとするのではなく、十分の一を神様にお捧げするということを通して、わたしたちは神様と共に生活をするのです。すべてが自分の思い通り、好き勝手ではない。神様の領域というものを自分の生活のなかに確保して、それを大切にしながら生きるということです。
しかし、『ヘブライ人への手紙』は、逆にいうと、それが最初の契約の限界でもあったということを言います。8節、
このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。
つまり、至聖所の手前で礼拝はできるけど、至聖所の中には入ることができない。それは、神様の領域を侵すことができないという、人間の限界を示しているのだというわけです。しかし、新しい契約は違います。イエス様によってもたらされた新しい契約は、わたしたちを至聖所、つまり神様の懐にまで連れいってくださる、そういう素晴らしい契約なのです。
ちょっと話がそれますが、この『ヘブライ人への手紙』には、キーワードといいますか、何度も繰り返される言葉が、幾つかあります。その一つが、「さらに、もっとすぐれた」という言葉です。たとえば《より優れた者》(1:9)、《より優れた名》(1:9)、《もっと優れた希望》(7:19)、《いっそう優れた契約》(7:22)、《はるかに優れた務め》(8:6)、《更にまさった契約》(8:6)、《これらよりもまさったいけにえ》(9:23)、《更にまさった故郷》(11:16)、《更にまさったよみがえり》(11:35)と、これだけ繰り返されています。ここに、この著者の心を感じることができます。最初の契約(旧約聖書)の時代の人々も、それなりに神様への礼拝への道が与えられ、希望をもったり、神の恵みを戴いてきたかもしれません。けれども、イエス様がもたらしてくださった新しい契約、これは本当に凄いんだぞ、こんなに凄いんだぞ、そういう著者自身の感動をもって、この『ヘブライ人への手紙』は書かれているのです。
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次は祭司です。祭司とは、アロンとその子孫のことです。聖所に入って礼拝することができるのは、この祭司に限られていました。王様だろうと、預言者であろうと、祭司以外のものが、聖所に入ることは、決してありませんでした。アロンと家族関係にあるという特権が、必要だったのです。じゃあ、他の人々はどうしたのでしょうか? 聖所に入ることができず、聖所の外庭で神様を拝んだのです。旧約聖書の礼拝は、そのように神様に近づけない民に代わって、神様から特別にゆるしをいただいたアロンとその子孫が聖所で礼拝するという形でした。
イエス様の新しい契約は、このことにおいて、わたしたちに新しい礼拝をもたらしてくれました。それはわたしたちを皆、イエス・キリストという大祭司の家族にしてくださったのです。『ヨハネによる福音書』1章13節にはこう記されています。
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
《言》とは、神の言葉なるイエス・キリストのことです。わたしたちは血筋によらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただイエス・キリストの御救いと神様の愛によって、神の子として新しく生まれたのです。そして、大祭司の家族なる祭司とされたのです。それゆえ、わたしたちは聖所に入り、しかも神様の懐なる至聖所にまで入り、神様を礼拝できるようになったわけです。
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三つめのことは、ある意味で、これがすべてのことの基礎となるのですが、血による贖いです。最初の契約においても、礼拝の度ごとに祭壇に動物の血が流され、血による贖いがなされていました。しかし、動物の血による贖いは、不完全なものであったと、9-10節に記されています。
この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
動物の血が幾たび流されても、それでわたしたち礼拝する者の心が清められるわけではないのです。ですから、聖所で礼拝できるものは、祭司に限られていました。祭司であっても、至聖所に入ることはできなかったのです。このような動物の犠牲は、《改革の時》、つまり契約が刷新される時までの、《肉の規定》にすぎないのだというのです。《肉の規定》とは、人間としての限界をもつ規定ということです。人間が自分の力でできることの範囲で、決められたことであるということです。
新しい契約における礼拝においても、血による贖いということが必要になるのですが、それは《肉の規定》ではなく、《永遠の”霊”》によるものだと記されています。それが11-14節なのです。特に12節と14節が大切です。
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
さきほど「さらにまさった」という言葉が繰り返されるのが特徴だと言いましたが、《ただ一度》という言葉も、同じように繰り返される言葉です。いちいち拾いませんが、それは、すべてイエス様の御自身の血による贖いに関係して使われています。つまり、最初の契約においては、繰り返し動物の犠牲が献げられた。繰り返すということは、その贖いの血が不完全であるということの証拠です。しかし、新しい契約のおける贖いの血は、ただ一度で十分であり、完全なものでありました。どうしてか? 14節にこう書いてあります。
まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
動物の血による贖いが、《肉の規定》と言われていることに対して、イエス・キリストの贖いの血は、《永遠の"霊"によって》とあります。これは人間ではなく、神様の御手によって備えられた生け贄であるということです。この血によって、わたしたちは、本当の意味で、生ける神を礼拝する者にされるのだ、というのです。イエス様の血による贖いについては、15節以下でさらに詳しく記されておりますので、次回以降にご一緒に学んで参いりたい思います。
今日は、神様とわたしたちの関係としての契約。その契約に恵みによって、招きいれられ、わたしたちは神様との関係に生きることができるようになるということ、それはわたしたちが神様を礼拝する者となることだ、ということをお話ししました。しかし、その契約は二段階になっておりまして、最初の契約でははなはだ不十分でありました。それによっては、神様の前に生きることはできても、神様の懐に飛び込んで生きることができないのです。しかし、イエス様は新しい契約をもって、わたしたちを生ける神を礼拝する者としてくださったのです。
ヘブライ人への手紙では、11節に、《キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになった》とあります。実は、文語訳では「来らんとする善き事の大祭司」とありまして、この恵み、善き事がすでに来たものであるのか、これから来るのか、翻訳が別れています。わたしはどちらも真実であろうと思います。イエス様の恵みはすでに来ているし、これからまたさらに豊かに訪れるものであろうと思うのです。そのような恵みのためにイエス様が来てくださった、そのことを覚えて感謝したいと思います。 |
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目次 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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