ヘブライ人への手紙 29
「己を神に献げ給ひしキリストの血」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙9章1-14節
旧約聖書 イザヤ書1章27節
中に入ることができない
 エルサレムの羊の門の傍らに、ベトザタの池という奇跡の泉がありました。この池は、時々水が湧き上がり、水面を大きくゆらす、間欠泉であったと思われます。当時の人々は、それを、天使が舞い降りたしるしと信じまして、まっさきに飛び込んだ者の病気が治ると云われていたのであります。大勢の病人が、この池のほとりで、その「時」を待ち望んでいました。

 イエス様は、ひとりの男に声をかけられました。

 「良くなりたいのか」

 彼は38年間も、この池のほとりに横たわっていました。38年間、彼はずっとそこにいました。最初の頃、彼は池の表面をじっと見つめ、それ揺れ動くのを、一生懸命にいざりながら、池に飛び込もうとしました。しかし、彼がやっと池に飛び込んでも、必ず誰かが彼の先を越して、池に飛び込んでいたのでした。

 今度こそは・・・何度も、何度も、彼は池に飛び込んだでありましょう。しかし、やがて悟るのです。足の悪い私が、他の先に池に飛び込むなんて不可能だ、と。やがて彼は、水が動くのをみても、池に飛び込もうとしなくなりました。池の表面をじっと見つめることもなくなりました。治りたいという願いすらも、諦めの中にかき消されてしまいました。

 それでも、彼が38年間もそこに居続けたのは、他に行く場所がなかったからに違いありません。

 「良くなりたいのか」

 イエス様の問いかけに、彼は力なく答えます。

 「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」

 自分ではそこに入れない、自分をそこに入れてくれる人もいない・・・目の前に奇跡の泉があっても、その中にはいる手段がなければ意味がない。彼はそのように云ったのです。

 イエス様は、私たちに希望を与えてくださる御方です。それはどのような希望なのか? そのこともとても大事です。しかし、それがどんなに素晴らしい希望であっても、今まさに絶望のただ中で動けなくなっている者には、どのようにしたらその希望の中に入れるのか?

「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」

 それこそが、さしあたって重大な問題なのです。
地上の聖所
 私たちが読んでおります『ヘブライ人への手紙』9章も、この「中に入ることができない」という問題を、たいへん重要なテーマとして語っています。

 最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。(9章1節)

 荒れ野を旅するイスラエルに、聖所が与えられました。生きることを拒絶する厳しい世界、それが荒れ野です。その荒れ野に聖所がある、神様がそこにいらしてくださる、実際にそこにお住みになっているわけでなくても、神に祈り、神の祝福が期待する場所がある。それが地上の聖所です。地上の聖所は、私たちにとって大きな希望なのです。

 しかし、この地上の聖所は、それとはまったく逆のことも、私たちに物語っています。

以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。(9章6-7節)

 地上の幕屋は、内部が幕で仕切られた二重構造になっていました。第一の幕屋は聖所と言われ、毎日、祭司たちが民の祈りを携えてそこに入り、神に仕えていました。しかし、そこには神はおられませんでした。神が御臨在される場所は、第二の幕屋、至聖所、ヘブライ語では「聖の聖」、聖所の中の聖所でした。そこには決して入ることができず、入るものは死をもって罰せられました。

 神なき望みなき荒れ野の中において、「ここに神がいます」という奇跡の泉があった。それが地上の幕屋です。人々はその幕屋を囲むように暮らし、幕屋に向かって祈りをささげていた。しかし、人々はその幕屋に入ることはできませんでした。幕屋に入ることができたのは祭司です。その祭司ですら、まさに神様が御臨在なさるという至聖所には、入ることができませんでした。幕屋の中に一枚の幕があり、その幕が神と人の住み給うところを、厳格に分け隔てていたのです。

このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。(9章8-9節)

 地上の聖所、それは神なき望みなき世界に生きる者たちにとっての唯一の希望でありました。ユダヤ人らは、地上の聖所に望みをおいて生きていました。その他方で、地上の幕屋は、神のいますところに人は決して入ることができないという、人間の深い絶望のしるしでもあったのです。

 再び、ベトザタの池のほとりに横たわっていた、男のことを考えてみましょう。彼は、奇跡の泉に希望を託し、何度もその池に飛び込もうとチャレンジをしてきました。その結果、彼は絶望せざるを得ませんでした。いくら奇跡の泉が目の前にあろうとも、自分の力でそこに入れず、だれもそこに入れてくれるものもいないのであったら、何の意味もないからです。世に癒しなく、救いない彼が、最後の望みを託した奇跡の泉・・・しかし、それさえは彼にはどこにも救いがないのだということを教えるに過ぎなかったのでした。

 地上の幕屋と共に生きていた旧約時代の信仰者も同じです。神がここにいますということに望みを託し、神と共に生きるために、彼らは一生懸命に律法を守り、動物のいけにえをささげ、神様に喜ばれる者になろうとしました。しかし、それによっては、至聖所どころか、聖所にすら入ることはできなかったのです。代わりに祭司たちが彼らの祈りを携えて聖所に入り、神に祈りをささげました。しかし、その祭司ですら、神のいますところに入ることができなかったのです。誰も、そこに入る道がなかったのです。

けれども、キリストは
 《けれども、キリストは》と、聖書は語ります。11節、

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と、神のいますところ、神の愛と祝福の満ち満ちた盈満のうちに入ることができないで、絶望している私たちに対して、《けれども、キリストは》と語るのです。イエス様は、単に神様の救いを私たちに示す御方ではなく、神様の救いへの道を開いてくださった御方である。これが『ヘブライ人への手紙』の言いたいところなのです。

 では、いかにして神様と人間を隔てる絶対不可侵の垂れ幕を、イエス様は引き裂いてくださったのか? 第一に、イエス様が破かれた至聖所への垂れ幕は、《この世のものではない》、と言われています。つまり、これは、地上の幕屋の至聖所に入れるという話ではないのです。そもそも地上の幕屋は、神様と人間との関係の比喩なのです。至聖所も、そこに本当に神様が住んでいるというわけではありません。神様はあなたがたと共にいるけれども、そこには決して近づくことができない隔たりもあるのだよということを、私たちに具体的に示す比喩だったのです。

 ですから、そこには年に一度、大祭司が、限られた時間ですが、中に入り神に仕えることができました。では、大祭司は神様のいますところに入ることができたのかというと、決してそうではありません。そこに入るたびに、自分自身の罪と民の罪のための贖いの血を携えて行かなくてはならなかったのです。入る度に、ということは、それがいつも不完全なものであったということを意味しています。彼は地上の幕屋の至聖所に入ることはできましたが、天にいます神の住み給うまことの至聖所に入っていったわけではないのです。とはいえ、大祭司が至聖所に年に一度でも入ることができたということは、ひとつの希望でもありました。何があっても、決して入れないというのではなく、そこに入る可能性がどこかにあるのだということを示していたのです。

 イエス様が、至聖所に入られたのは、この大祭司とはまったく次元の違うことでありました。イエス様は、天にあるものの写し、影である幕屋ではなく、まことに神様がいらっしゃる実体として天の幕屋、そこに入る道を開いてくださったのです。

 第二に、大祭司は、民の罪のためのいけにえの血を携えて、地上の幕屋の至聖所に入りました。しかし、イエス様は、御自身の血を携えて、天の幕屋、つまり天の神様御自身のもとに行かれたのです。そして、天の神様と私たちの交わりを、完全なものとしてくださったのです。天の大祭司たるイエス様の血、贖いの血とは何を意味するのでしょうか。それはご自分の命のすべてを、罪人のために注ぎ出されたということ意味しています。

 しかし、こういう言い方ではまだ足りないと思います。12章4節にこうことが書かれています。

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 たしかに、私たちは罪と闘う力がなさすぎるのです。ですから、いつも罪の力に破れてしまいます。別の言い方をすれば、私たちは罪人である自分を、決して脱ぎ捨てることができないのです。

 罪人は、いつまで経っても罪人のさがの中にあります。しかし、イエス様は、二重の意味で御自分を捨てられたのです。ひとつは、神の御子であられたイエス様が、その栄光を脱ぎ捨ててまことの人の子となられ、罪深き世に身を置かれました。もう一つは、罪人と等しい誘惑の中に身を起きつつも、その誘惑に抵抗して、正しき者となられました。このように、イエス様は神様の御子でありながら罪人のひとりに数えられる者となり、罪人のひとりに数えられながらも、正しき者となられました。その姿が、十字架にあるのです。

 十字架におけるイエス様は、神に見捨てられた者であり、同時に罪人からも見捨てられています。このようにイエス様は、二重の意味において、御自分を捨てられました。その命を、神に対しても、人に対しても、捧げられました。それがイエス様の血であります。その血をもって、イエス様は神とっては嘉せられる者となり、人にとってはまことの大祭司となられたのです。

 ヘブライ人の手紙は、このイエス様の血が、私たちを清め、天の至聖所へ入る道を開いてくださったのだというのです。

なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 福音とは何か? イエス様のしてくださったことと、してくださること、この二つによって私たちが救われることだと、私はよく申し上げます。私たちは、あのベトザタの池のほとりに横たわっていた男のように、救われたいと思っても、救いへの望みがまったく持てない人間になっていたわけです。自分でも奇跡の泉に入れない。他にだれも自分をそこに入れてくれる人はいない。その中に入れば救われると分かっていても、これでは絶望してしまうしかないのです。しかし、イエス様は、そのような者を立ち上がらせてくださる御方です。それがベトザタの池の話でありますし、今日ヘブライ人への手紙が私たちに告げていることなのです。

 イエス様がしてくださったこと、してくださること。わたしがしてきたことや、これから出来ることではありません。他人がしてくれたことやしてくれることでもありません。そういうものに希望をもてば私たちは失望します。しかし、イエス様がしてくださったこととしてくださること、この二つによって、私たちは絶望の中で、新たな希望を得ることができるのです。「我は道なり」と言われたイエス様を信じたいと願います。
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