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福音とは何か? 福音とは、イエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって、私たちが救われることです。私たちの信仰、希望、愛は、すべてこの二つのことから始まるのです。
ところが、実際の生活となりますと、何事につけ、私たちが真っ先に考えることは、自分が何をしてきたか、何ができるのかということであり、人が自分に何をしてくれたのか、何をしてくれるのかということだろうと思います。「イエス様に頼れ、期待せよ」と言われても、イエス様は目には見えない御方です。どこで、どのように、働いてくださっているのかが、たいへん分かりにくいのも、事実でありましょう。ですから、とりあえず目に見える具体的なものに頼り、期待する生活になってしまう。その気持ちは、わからないでもありません。
その結果はどうでしょうか? しばらくの間は、それでうまくやっていけるかもしれません。けれども、いつまでもそれが通るわけではないのです。自分を頼りにした者は、自分に失望する時がきます。人を頼りにしてきた者は、当てがはずれる時がきます。そして、立ち上がれなくなるほどの自信喪失に陥ったり、期待を裏切った人に憎しみや恨みをぶつけたりすることもあるのです。
そうならないためには、あるいはそうなってしまったところから立ち直るためには、自分が何をしてきたか、自分に何ができるかではなく、また人が何をしてくれたか、何をしてくれるかでもなく、ただイエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つのことを原点として、私たちの信仰と希望と愛をしっかりと持つ者にならなければならないのです。
イエス様は、私たちのために何をしてくださったのでしょうか? 何をしてくださるのでしょうか? 新約聖書には、イエス様のなさったことが記されている「福音書」という文書が四つあります。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』です。どうして、これれらは、「キリスト伝」と言わずに「福音書」と言うのでしょうか? それは、これらが、単にイエス様の生涯を世に伝えるための文書ではなく、イエス様が、私たちのためにしてくださったことは何か、ということを伝える目的で書かれたものだからです。
福音書には、一つの際だった特徴があります。イエス様のご生涯は、33年でした。しかし、四つの福音書はどれも、イエス様がいかにお生まれになったか、いかにお育ちになったか、いかに教え、いかにご活躍なさったかということ以上に、イエス様の十字架について多くを語っています。イエス様が、ロバの子に乗ってエルサレムに入られてから、十字架におかかりになり、復活されるまでの一週間について、どの福音書もその約三分の一を割いて伝えているのです。『ヨハネによる福音書』などは約半分が、この最後の一週間の物語に費やされています。
イエス様が、私たちに何をしてくださったのか。こうしてみますと、その答えは、福音書においてはっきりとしています。それは、十字架にかかって死んでくださったということです。このイエス様の十字架こそ、福音である。この福音を、しっかりと受け止めるところから、私たちの揺らぐことのない信仰、希望、愛による生き方が始まるのです。 |
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「十字架」は、たいへん分かりにくいメッセージです。イエス様が、義しい人でありながらも、理解されずに殉教したことは、クリスチャンでなくても、認めている方がたくさんいます。あるいは、その十字架の上から、自分を十字架につけている人々や、野次馬たちを見下ろして、「神様、この人たちをゆるしてください」と祈られたことから、イエス様がその死の瞬間まで、愛の人であったことも、多くの人に理解されることでありましょう。けれども、2000年前のイエス様の十字架の死によって、今を生きている私たちが救われる、という話になると、どのように、イエス様の死と私たちの生が結びつくのか、実存的にそれを感じるということが難しいのです。信仰がなければ、もちろん分からないことでありますし、信仰があっても、なかなか分かりにくいことだと思います。
最近、西南学院大学神学部の教授をしておられる青野太潮先生の『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』という本を読みました。この先生の著書を読むのは初めてですが、いろいろなことを教えられ感謝でした。「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」とはどういうことか? 『ガラテヤの信徒への手紙』3章1節にこう記されています。
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
ガラテヤ教会の人たちは、十字架の福音を離れて、自分がしてきたことやできること、また人が何をしてきたか、何をしているかということばかりを追い求めることになってしまった。それを信仰だ、希望だ、愛だというようになってしまった。そのことに対してパウロが嘆いている言葉です。
青野先生が注目するのは、《キリストが十字架につけられた姿で》という部分です。これはギリシャ語の文法でいうと、現在完了形になっているというのです。現在完了形は、過去に起こったことが今も続いている、まだ終わっていないという状態を表す文法です。つまり、イエス様は、過去のある時点で十字架につけられて死なれたというだけではなく、今もなお十字架につけられたままの姿で、私たちの前にいらっしゃるのだということを、聖書は語っている。ギリシャ語で読めば、そういうニュアンスが伝わってくるのです。
残念ながら、日本語訳はどれを見ても上手に訳していないと、青野先生は言います。ただ文語訳聖書だけはこう訳しているのです。
愚かなる哉(かな)、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前(めのまえ)に顕されたるに、誰(た)が汝らを誑(たぶら)かししぞ
今、私たちが出会うイエス様は、復活のイエス様です。パウロが、ガラテヤ教会の人々に《汝らの眼前に顕された》と言っているのも、復活のイエス様のことを言っています。しかし、その復活のイエス様は、どういうお姿で、私たちと共にいてくださるのか。永遠の命を勝ち取られて、勝利の栄光に輝かれているキリストなのか。もちろん、そういう面もありましょう。しかし、それだけではありません。イエス様は、今も、十字架につけられたあのお姿をもって、つまり、傷つき、弱り果てて、人間の最も深い悲しみを体験されたところから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶叫されたお姿をもって、私たちと共に生きてくださっている。だから、私たちは、どんなに神様に背を向けた罪の中にあっても、どんな弱さの中にあっても、その中に、このような私の理解者、慰め主となって、共にいてくださるイエス様を見ることがゆるされているのだ、そこから新しい命をいただいて、神様に対して生きる新しい人間として生まれ変わらせていただけるのだ。そういうことを言わんとしているのが、あの《十字架につけられ給ひしままなるキリスト》という、聖書の言葉なのです。
先ほど、福音とは、イエス様が私たちのためにしてくださったことと、してくださることによって救われるということだ、と申しました。そして、イエス様がしてくださったことは、十字架にかかってくださったことだと、お話もしました。それだけではなく、《十字架につけられ給ひしままなるキリスト》という言葉から分かることは、イエス様が私たちのために今もしてくださっていること、そして今後もしてくださること、それはイエス様が私たちのために十字架を負ってくださることだ、と言い切れるのです。
そのようなイエス様を知るためには、いくら頭で考えても、お話しを聞いても、ダメです。聖霊の力によって、イエス様に出会うことが必要です。そして、パウロは、それ以外何も知る必要はない、と言っています。それほどイエス様の十字架は、福音の中心にある大事なことなのです。そして、イエス様の十字架が、今イエス様が私たちのためにしてくださっていること、これからイエス様がしてくださること、私たちの今と将来にかかわることでもあるということを知ることができるのです。 |
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イエス様は、十字架によって、何をしてくださったのでしょうか。ひと言でいいますと、十字架において、イエス様は、絶望のどん底にいる私たちに出会ってくださるのです。そのために、神様の御子である身分も、栄光も、お捨てになり、まことの人間となられた。それだけではなくして、人間としても、どん底の経験をされた。それが十字架です。そこで、イエス様は私たちと出会ってくださる。イエス様が出会ってくださるということは、神様が、そこで私たちに出会ってくださるということでもあります。
絶望とは、自ら救う術がどこにもないということでありましょう。どこにもないということは、神様にも頼めないということです。よく、どんなに絶望しても、神様がいらっしゃるから大丈夫だと、簡単に申しますけれども、本当に絶望した人は、神様にも頼めないような、自分の現実を経験した人なのです。たとえば、神様の裁きを受けている人、神様に顔向けできないような人、神様にも見捨てられている人、見放されている人、そのように神様をも失ったような罪人なのです。
十字架とは、そのような罪人の座に、イエス様が共におられるということを、物語っているのです。ですから、ヘンな言い方ですが、絶望していない人は、イエス様にお会いすることはできません。イエス様をこの目でみようが、その知識を頭に詰め込もうが、イエス様のうちにある神様の愛と救いを、知ることはできないのです。そして、絶望した人とは、神様に棄てられている罪人のことでありますから、自分がそのような存在であることを、経験することなしに、十字架のイエス様に出会うことはできないのです。
私たちが、神様の前にある、本当の自分の姿を知るならば、私たちは、きっと深い絶望を経験するでありましょう。実はそういう経験を与えるための装置が、律法です。律法とは、神様の言葉ですから、そこに神様ご自身のご性格が現れています。律法の前で、人間は自分の罪を知り、人間の近づきがたい神の聖さを思わざるを得ないのです。
律法主義の悪いところは、律法を骨抜きにして、形式的にそれを守ったつもりになり、自分は義人だと、胸を張ってしまうことにあります。そうすることによって、人は、神様の前にある、本当の自分の姿を見失ってしまうからです。
しかし、律法によって、自分の罪を知る人間は、神様の備え給う新しい契約、福音、キリストの十字架を知ることになるのです。その絶望の深い淵の中に、イエス様の十字架がある。そこで、神様が愛をもって、私たちと出会ってくださることを、経験するのです。これが、福音です。
15節に、《キリストは新しい契約の仲介者なのです》と記されているのは、そういうことです。前にも申しましたが、契約とは、関係を築く基礎となるものです。聖書でいう契約は、神様と人間との関係の基礎なのです。そして、それには二段階があるわけです。最初の契約は、律法でした。「ああしなさい」、「こうしなさい」、「あれをしてはいけない」、「これをしてはいけない」、そういう神様の教えを守ることによって、神様と人間との関係ができる。しかし、実は、律法とは、人間を立派にするためのものではなく、人間に罪の自覚を生じさせるためのものでありました。罪の浄めなくして、神様との関係に生きることはできないのだと、教育するための装置だったのです。
ですから、律法の中には、いかにして罪を清めるかという方法も書かれていました。簡単に言えば、動物の犠牲を神様にささげて、自分の罪をゆるしてもらうということです。それは、本当の意味での罪の浄めになっていないということは、繰り返し、繰り返しをそれを捧げ続けなければならなかったということによって明らかです。
しかし、神様は、新しい契約を与えてくださった。それがイエス様の十字架であり、福音なのです。それは、神から見捨てられているような深い絶望の中で、わたしたちが神様と出会うことができるということです。何をするということによってではなく、何もできないものであることを知ることによって、神様の愛、恵みを受けるのです。それよって、私たちが神様に近づく道が開けるのです。
今日お読みしたところには、この福音、新しい契約が、《遺言状》に喩えられています。ちょっと妙なたとえ話だと思いますが、遺言状とは、亡くなった方の遺志に基づいて、財産なり恩恵なりを子が受け継ぐということです。キリストの死と遺志によって、私たちが天の財産(嗣業)を受け継ぐということを言いたいのです。
一番分かりにくいのは、《契約の血》でありましょう。古い契約は、動物の血によって立てられた契約でありました。新しい契約は、キリストの血によって立てられた契約である、と言われています。古い契約と新しい契約では、その内容もさることながら、そのために用いられた《血》が違うのです。古い契約は、動物の血であった。新しい契約は、御子イエス・キリストの血であった。この血の違いが、契約の違いを表しているのです。
聖書では、血は血液という意味だけではなく、命そのものを表していました。血が注がれるとは、命が注がれるということなのです。新しい契約は、神の御子の血、神の御子の命によって立てられた契約であるということ、このことが持つ意味を、私たちは知らなければなりません。それはすなわち、神御自身の血、命、痛み、苦しみ、悩みを意味するのです。
罪の赦しは、罪を犯した者が痛みをもって願いを求めるものでありましょう。それが、動物の血による契約だと言えます。しかし、キリストの血による契約は、違うのです。罪を犯した者ではなく、罪を赦す者の痛みによって、赦しが成立します。キリストの血による契約は、神様が御自身が、痛みをもって、私たちをゆるしてくださった。自分自身の痛みをもって、私たちを受け入れてくださった。それが新しい契約であるということなのです。
私たちの罪を赦し、神様との和解、そして神様との交わりのうちに招いてくださるために、十字架にかかってくださったイエス様の恵みをもう一度深く感謝する者でありたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
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Translation
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