ヘブライ人への手紙 32
「来たらんとする善き事の影」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙10章1-4節
旧約聖書 レビ記1章1-17節
影から実体を知る
 みなさんもご経験があると思いますが、健康診断で再検査を言い渡されまして、お腹のCTとエコーの検査をいたしました。画像の写真を見ますと、白黒の陰影画像です。それを見せられて、「ほら、ここが○○ですよ」と、お医者さんのお話を聞いていましたが、白いものがみえたり、くろっぽいものがみえたりするだけなので、いったいお腹の中がどうなっているのか、私にはさっぱり分かりませんでした。わからなくても、「まあ、心配はないでしょう」と言われてホッとしたわけです。それにしましても、陰を見て実体を知るといいますか、お医者さんというのは、知識とか経験を駆使しまして、そういう陰影だけでできた写真からお腹の中のようすが手に取るように分かるようです。凄いことだなあと思いました。

 しかし、上には上がいるものでして、以前にマッサージの技術をもった方が夕礼拝にお見えになっていたことがあります。夕礼拝が終わった帰り際のことですが、その方がわたしの後ろ姿を見て、「先生、ここが凝ってますね」と、わたしが一番つらく思っていた部分をぴたりと指摘されたのです。この人は超能力者なんじゃないかと思うほどビックリしました。CTとかMRIとかは、それでも「らしきもの」が映っている写真がありますが、洋服を着た背中を見るだけで、体の中のおかしいところを言い当ててしまったわけです。

 このように、実体そのものをみなくても、その影を見て、実体そのものを知ることができる人たちがいます。わたしの場合、カウンセリングといいますか、人のお話しを聞くということがよくあります。困って牧師に相談してくる方々は、たいてい自分でもわけが分からなくなってしまって、話が非常に混沌としていたり、中心的な問題はさっぱり語らず、周辺的な問題ばかりだったりします。しかし、そういう人たちの話に一生懸命耳を傾けていますと、「ああ、この人はほんとうはこういう問題で悩んでいるんじゃないかな」と見えてくることがあるのです。それを上手に導いてあげて、ご本人が認識できるようになると、急に呪縛から溶けたように楽になるということがあります。こういうことは、それぞれの分野で、みなさんがご経験なさっていることではないでしょうか。知識や経験というものを積み重ねていきますと、影から実体を読み取る目、心というものが養われてくるわけです。
影は悪ものじゃない
 そういう影の話が、『ヘブライ人への手紙』10章1節に出て来ます。

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

 律法は《影》に過ぎず、役に立たないと、律法否定みたいなことが書いてあるようにも読めますが、《影》を否定的な意味にとる必要はありません。律法は、十戒をはじめとして神様が与えてくださったお言葉です。しかし、神様の言葉と言いましても、神さまの言語で語られているわけではありません。神様の御心を、人間に分かる言語に置き換えて、語られているのです。ですから、それは神様の御心そのものではなく、《影》であると、『ヘブライ人への手紙』は注意をしているのです。

 その際、ただちに「だから、それは実体がないんだ」と結論に持っていくのは危険です。『使徒言行録』に影についてこんな話があります。

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。(『使徒言行録』5章15節)

 ペトロの影に触れることは、ペトロに触れることと同じだと考えられていたのです。実際に、ペトロの影が病人にかかると病が癒されたのかどうか、それはわかりません。しかし、そういうことがあったからこそ、人々はこぞってペトロの影に触れることを求めたのではないかと考えるのが、自然でしょう。

 影ではありませんが、イエス様の衣に触れて癒された女性の話もあります。少し長いですが、ちょっと読んでみたいと思います。

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(『マルコによる福音書』5章25-34節)

 聖書には、女性が触れたのは、イエス様ではなく、イエス様の服であったと書かれています。

後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

 この女性は、服の上からイエス様に触れたとか、そういうことではなく、服に触ろうとし、服に触ったのです。イエス様の服は、イエス様の実体そのものではありません。そういう意味では、ペトロの影と同じです。服は、イエス様の影なのです。

イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。

 イエス様も、「わたしに触れたのは誰か」ではなく、《わたしの服に触れたのはだれか》と言っておられます。それを弟子たちが混同してしまって、「こんな人混みの中で『わたしに触れたのは誰か』と言われても困ります」と訴えているのですが、イエス様は「わたしに」と言わずに、《わたしの服に》と言っておられるのです。

 しかし、女性が服に触れたとき、イエス様のうちから力が出ていった。女性も、その力を体に感じ取り、病気が癒されたのを知ったのです。つまり、服というイエス様の影を通して、イエス様の実体に触れ、力を受けたというのです。最初にCTとかエコーの話をしましたが、そのように実体そのものを見たり、それに触れなくても、影を通して実体を見たり、それに触れたりすることができる。ですから、影というのは大事なのです。少なくとも悪いものではありません。

 だとしたら、律法もそうです。律法という影は、他ならぬ神様の影だということを忘れてはいけません。神様の影ですから、そこには神様の性質、神様のお心、神様の願い、そういうものが込められています。影には、神様の輪郭や形が現れているのです。そして、ペトロの影やイエス様の服に触れた者が癒されたように、つまり実体に触れるのと同じ経験をしたように、律法を通しても神様に触れるという経験をすることができるのです。
律法とは何か
 そもそも律法にはどんなことが書かれているのでしょうか。律法の中心は、十戒といわれる十の戒めにあります。

@ あなたは、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
A あなたは、自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
B あなたは神、主の名を、みだりにとなえてはならない。
C 安息日をおぼえて、これを聖とせよ。
D あなたの父と母を敬え
E あなたは、殺してはならない。
F あなたは、姦淫してはならない。
G あなたは、盗んではならない。
H あなたは、隣人について、偽証してはならない。
I あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。

 これは神の民の憲法みたいなものでありまして、これを中心にさまざまな規則が与えられました。礼拝所の作り方、礼拝の守り方、いけにえの捧げ方、祭司のための規則、礼拝者のための規則があったり、人を傷つけてしまった場合はどうするか、家畜を傷つけてしまった場合はどうするか、落とし物や迷子の家畜をみつけたらどうするか、人から借金をして返せなくなってしまった場合はどうか、貧しい人、やもめ、外国人をどのように保護するのか、裁判はどうするか等、民法や刑法のような規則があったり、あるいはこれを食べてはいけないとか、伝染病が流行ったらどうするかなど衛生法のようなものもありました。

 ただ、イエス様はこういう数々の律法のひとつひとつを形通りに守ることが大切なのではなくて、そこに表されている神様の心を汲み取ることが大事だということを言っておられます。いくら律法を形式的に守っていても、その中にある神様の心を守り、実行しなければ律法を守ったことにならないのだというのです。たとえば「人を殺すな」と律法に言われている。しかし、イエス様は、神様の御心は「人を殺さなければいい」ということではなくて、「人を生かすような隣人になりなさい」ということなのですから、それをしなければ律法を守ったことにならないのだというのです。

 あるいは、安息日を守るということはどういうことも、イエス様はたびたび律法学者たちと議論をなさいました。安息日というのは、すべての仕事をやすんで神様を礼拝する日です。律法学者たちは、すべての仕事を休むことが律法を守ることだと考えていました。たとえばお医者さんも仕事を休んだ。しかし、イエス様は安息日であっても、人々を癒されます。それを見咎めて、律法学者たちが、イエスという男は、律法を破壊するとんでもない異端者だ、と決めつけました。イエス様は、そんな彼らに、「安息日に人を助けて良いことをするのが神様の御心なのか、それとも人を見捨ててまで規則、規則と言うことが神様の御心なのか、考えてみなさい」と応酬したのです。

 イエス様が厳しく批判された律法主義は、影だけを見て、実体である神様をみようとしなかったのです。だから、いくら律法を学んでも、神様のお心が分かりません。素人である私が、CTの写真を見ても、どこが黒い、どこが白いということぐらいしかわからないのと同じです。影しか見ることができず、それがどんな実体を表しているのか、それを想像することができないのです。けれども、お医者さんというのは、影の写真を見ながら、その実体をイメージします。だから、影の写真は診察のために欠かせない、とっても重要な情報源になるのです。

 律法も、神様の影でありますから、影そのものを大事にするのではなく、その影のもとなる実体に目を向けることが大切になります。では、律法とは何なのか? 律法から実体を見るというのはどういうことなのか? イエス様は、律法学者の質問に答えるという形で、数多くある律法が指し占めていること、その根本精神は何かということについて教えらました。

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコによる福音書12章29-31節)

 要するに、これらすべての律法は、神様を心尽くして畏れ敬うこと、隣人を自分のように愛すること、この二つを根本精神としているのだ、と言われたのです。確かに、十戒を改めて読んでみますと、前半は神様を畏れ敬うこと、後半は隣人を大切にすることについて書かれているのがわかります。神への信仰と隣人への愛、この二つがすべての神様の教えの中心なのです。

 これは、旧約聖書だけの話ではないはずです。実は、パウロも、この二つを常にセットで考えている人でした。たとえば、《愛がなければ信仰はむなしい》(1コリント13:2)とか、《尊いのは愛によって働く信仰だけである》(ガラテヤ5:6)とか、《信仰によって心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざしてしっかりと立つ者となるように》(エフェソ3:17)とか、《信仰によって働き、愛によって労苦する》(1テサロニケ1:3)とか、信仰と愛を別々のものとしてではなく、かならずといっていいほど二つの柱として一緒に語っています。

 そういうことを考えましても、私たちクリスチャンにとって、律法は影に過ぎないから、もういらないんだとは言えないことが分かります。旧約聖書の律法の中心が、信仰と愛であるならば、新約聖書の福音の中心も、信仰と愛なのです。信仰と愛は、神様との関係と人との関係に正しく生きるということです。律法をきちんと見ることができるならば、神様が求めていることは、そのような信仰と愛であるということがちゃんと分かるはずなのです。
律法の不完全さ
 ところが、ここで、律法の不完全さが問題になります。律法を本気で守ろうとするならば、つまり形式的に守っているかどうかではなく、神様と人との関係を正しくしようと本気になって生きようとするならば、律法を守ることによって、自分を完全にすることができないことが分かるはずだ、と言うのであります。

 今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』に、そのことが書かれています。ここには、神様への礼拝の問題が語られているのです。「神様との関係を正すにはどうしたらいいのか」ということが言われていると言い換えてもいいと思います。律法では、そのために、贖罪の日というものを設定し、大祭司が年に一度、民の罪と自分の罪をあがなうために至聖所に入り、あがないの儀式をしました。それによって、民の罪はゆるされたものとされ、神様との正しい関係に入れたわけです。

 神様との正しい関係に入れたのですから、それで良さそうなものです。しかし、ヘブライ人への手紙の著者は、そうはいいません。毎年それを繰り返さなければならないということは、いったい何を意味するのか? それは、幾ら犠牲をささげても、結局は罪の問題が何も解決していないということを物語っているのではないか? それにもかかわらず、神様に近づくことができたのは、動物の犠牲に効果があったからなのか? そうではなく、ただ神様の憐れみのゆえではないか? 実際、旧約聖書の中にも、神様は動物の犠牲を喜んでいるのではなく、罪を悔いる砕かれた魂をご覧になっているのだと言われているところがあります。動物をいけにえとささげたから罪がゆるされるのではないことは、律法の精神をちゃんと見抜くことができる人には、旧約時代から、わかっていたことなのです。

 『ヘブライ人への手紙』は、《いけにえよっては、神に近づく人を完全にしない》《雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができない》と、そのことを確認しています。

 では、犠牲をささげることに、どんな意味があるのでしょうか。それこそ、来るべき良いことの影なのだ、というのです。どういう意味かと言いますと、イエス・キリストが、十字架にかかって、御自分を神にささげてくださる。この犠牲によって、私たちの罪が完全にゆるされる日が来るのだということに、希望をもたせるためなのだというわけです。

 そのお話しは、5節以下に続いていきます。今日は、律法とは、決して悪いものとして退けられているのではないのだということを、よく理解していただきたいとおもうのです。律法主義に陥ってはなりません。しかし律法を軽んじたり、退けてもいけません。律法によって、わたしたちは、自分の罪を深く知り、その罪をゆるしてくださるイエス・キリストの十字架の恵みを深く知ることになるのです。
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