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『ヘブライ人への手紙』は、内容を二つに大別することができます。第一部は、今日お読みしました10章18節までの部分で、「イエス・キリストこそ唯一の、完全なる救い主である」ということが語られています。第二部は、この後10章19節から終わりまでの部分で、「それならば、わたしたちはどういう信仰をもつことができるのか」ということが語られるのです。
今日は、その第一部の最後の部分を、ご一緒に学びたいと思います。最後の部分ですから、当然、ここには第一部の結論が書かれている、と言ってもいいと思います。それは何かといいますと、14節にこう記されています。
キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
イエス様が成し遂げてくださった私たちの御救いは、《唯一の》、《永遠に》、《完全な》という言葉で語られています。唯一の救い、永遠の救い、完全な救い、これがイエス様によって私たちに与えられた救いである。これが第一部の結論です。
この手紙が送られた相手は、教会です。どこの教会かは、種々の議論がありまして、エルサレム教会であるとか、ローマ教会であるとか言われております。いずれにしましても、この手紙を読んだのは、教会に集まるクリスチャンでした。それならば、イエス様が私たちの救い主である、ということは、よく分かっていたに違いありません。そして、それを信じていたのです。それにもかかわらず、『ヘブライ人への手紙』の著者は、もう一度、そのことを伝える必要を感じていました。どうしてでしょうか。イエス様が救い主であるということだけでは、十分ではなかったのです。唯一の、永遠の、完全な救い主であるということを、もう一度しっかりと胸に刻んで欲しかったのです。 |
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イエス様は、唯一の救い主である。これはイエス様の他に、私たちの救いはないということです。私たちは日々、いろいろな問題に直面しています。仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、健康のこと、お金のこと・・・・この世にある限り、そういう様々なこの世的な問題を免れることはできません。そういう問題を、ひとつひとつ担ったり、解決したりしていかなければなりません。そういう時におきましても、イエス様は唯一の救い主であるということを信じ、イエス様への信仰をもって生きていくのが、クリスチャンの生活、つまり信仰生活でありましょう。
ところが、うっかりすると信仰生活が、「信仰と生活」に分離してしまうことがあります。信仰がなくなってしまうわけではないのですが、その信仰が、日々の生活に結びつかなくなってしまうのです。本来は、仕事においても、家庭においても、人間関係においても、健康上の問題でも、あらゆることにおいてイエス様が私たちの唯一の救い主でいらっしゃる。これが私たちの信仰です。しかし、心の問題、魂の問題は、イエス様に祈り求める。けれども、毎日の生活においてはこの世の富、知恵、力を頼みとし、この世的な評価を追い求めて生きている。言ってみれば、ダブルスタンダードです。こうなりますと、最初のうちは、あまり気づかないかもしれませんが、イエス様の御救いに対する喜び、感謝、讃美が、だんだんおろそかにされていき、ついには何の力もなくなってしまうのです。
『ヘブライ人への手紙』の著者は、そのことを2章1-3節でこのように警告しています。
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。
イエス様の大いなる御救いに無頓着になり、イエス様に聞くことがおろそかになり、この世の事柄に押し流されてしまうようになる、と語られています。信仰は、イエス・キリストが唯一の救い主である、という信仰に立たなければ、神様の祝福を味わうことができないものになってしまうのです。 |
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また、イエス・キリストは永遠の救い主であられます。永遠とは何か? これを神学的、哲学的に丁寧に考えようとしますと、たいへん難しい問題になります。しかし、いま私たちは、そういうことを論じる必要はありません。要するに、永遠というのは、人間が知ることができない時間なのです。『ペトロの手紙2』3章8節にはこのように記されています。
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
私たちには、一日がとても短い時間に感じられるかもしれません。しかし、神様にとっては千年に匹敵するほど十分な時間がそこにある、と語られています。言い換えれば、それだけのことを、神様は一日のうちに考え、成し遂げることができるということです。
あるいは千年は、たいへん長い時間に思えます。しかし、神様にしてみれば、一日のようにあっという間に過ぎていく時間でもあるというのです。イエス様の御救いは、わたしたちの時間感覚とは違った、このような神様の時間の中で考えなくてはわからないののです。
これについては4章1-2節に、こういうことが記されています。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信仰は、自分の感覚を信じることではなく、神様の御言葉を信じることです。わたしたちがもうお終いだ、と思ってしまうような時にも、実は、神様の御業はまだ終わっていません。それが、限られた時間の中に生きている私たちの感覚と、永遠の神様との御言葉の違いなのです。それがわからなくなってしまって、もうお終いなのだと、ひとりで勝手に思い込んでしまう。ついに神様を見限ってしまう。そういう早とちりがないように気をつけましょうと、ここで言われているのです。
3章12-14節も大切な御言葉ですので読んでおきたいと思います。
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。
イエス様の御救いは、永遠の神様の時で行われています。最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける者でありたいと願います。 |
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それから、イエス様は完全な救い主であるとは、どういうことでありましょうか。完全であるとは、あらゆる人間の罪、苦しみがイエス様の救いの中に包みこまれている、ということです。
武田泰淳(1912-1976)が「わたしの中の地獄」というエッセイを書いています。その一部をご紹介しましょう。
地獄を知りつくすことは、できない。地獄の地獄性は、それほどかぎりないものである。ここまでが地獄、これが地獄の本質と、簡単にとり出して見せることができるくらいなら、それは「地獄」とは言えない。(中略)
「地獄」とは、何か。人間の苦悩のすべてである。したがって、いかに世間知らずの私でも、その一部を目撃し、あるいは感得している。ほんの一部、語るに足らぬほどわずかではあるが、知らないとは答えられない。よく知っていると言えばウソになるが、まるで知らないということも、いつわりになる。苦悩の全貌をつかむことなど、私にできるはずがないのだが、いかなる名僧智識も、人類の苦悩の全貌を目撃し感得することは不可能なのであるから、宗教上の指導者たちもまた、地獄について完全に知り得てはいないはずである。
もちろん、すぐれた聖職者、信仰者は、私の数倍、数百倍も人間の不幸について知っているにちがいない。さもなければ、彼らは信徒たちに、宗教的に語りかけることができないからだ。地獄、苦悩、不幸について真に知っていることが、彼らを彼らたらしめる最初の資格である。
つまづきがある。壁がある。矛盾がある。絶望がある。迷いがある。くらやみがある。疑いがある。自分および他人に対する、許しがたい裏切りがある。みにくさがある。汚れがある。弱さがある。競争がある。攻撃がある。抹殺がある。地球上の総人口、生きとし生けるものに平等にわかち与えられている、この地獄的要素の、すべてをすっかりひきうけることの困難は、なんと巨大なものであろうか。
武田泰淳氏は、人間の苦悩を地獄だと言っています。これは、本当に的を射た表現だろうと思います。地獄にいるのは、鬼です。鬼には、愛も慈悲もありません。そのような救のない地獄の中で、数多の苦悩を味わいながら生きているのが、人間であろうというのであります。
そして、「地球上の総人口、生きとし生けるものに平等にわかち与えられている、この地獄的要素の、すべてをすっかりひきうけることの困難は、なんと巨大なものであろうか。」と語られています。誰もそんなことができる人はいないのだ、という否定的な意味が込められた言葉です。宗教家もそうですが、ボランティアや、お医者さんや、様々な人が、自分だけではなく他の人々の地獄を覗き、それを少しでも一緒に担おうとします。けれども、地獄そのものをすっかり引き受けて、人々をそこから救済するなんてことは誰にでもできないのです。
『ヘブライ人への手紙』の著者もそういうことがよく分かっているのであろうと思います。だからこそ、イエス様がまさに人間の地獄をすっかりと引き受けてくださった方であるということを強調するのです。4章15-16節
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
それから、5章7-10節にもこう記されています。
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
イエス様は私たちのあらゆる地獄を知り給うお方であるからこそ、私たちの完全な救い主であるというのであります。
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このように、『ヘブライ人への手紙』は、すでにイエス様を信じている人たちに向かって、もう一度、イエス様こそあなたがたの唯一で、永遠の、完全な救い主であるということを伝えるのです。そこには、信仰者でありながら、その信仰に生きられなくなってきているクリスチャンがいたからです。
先ほどお読みしましたが、4章2節には、《彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした》と書かれています。御言葉を、私たちの生活に役立てることだ、と語られています。それに対して、この手紙を読んでいた教会の人たちは、役に立たないことばかり勉強していて、それが信仰だと思っていたらしいのです。5章12節
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。
知識においては教師並みなんだけど、御言葉によって生きるということになると子どもと同じで手取り足取り導いてやらなくてはならないということでありましょう。そして、6章1-2節に、こう続いていくのです。
だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
知識はもういい、それよりも信仰によって生きるということを始めようではないか、というのです。そのためには、イエス様を生きた救い主として信じること、唯一の、永遠の、完全なる救い主として信頼すること、それが大事なのです。
さて、今日は『ヘブライ人への手紙』の第一部にまとめということでお話しをしてきましたが、最後の最後に、こういう風に記されています。
罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
罪の赦しは、関係の回復であります。イエス様の御救いの、一番のことは何かといえば、イエス様が、私たちの罪の贖いのために、御自分の命をささげてくださって、神様と私たちの関係を新しくしてくださった、ということにあるのです。ですから、もう《罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。》と言われています。どうしたら神様にゆるされるのか、何をしたら愛されるのか、そういうことは考える必要はないのだ、ということなのです。
大切なことは、イエス様が御自分の命をささげて築いてくださった、神様と私たちの新しい関係を受け入れ、そこに生きることです。別の言葉で言えば、神の子どもらとして、神さまの愛にまったき信頼をもって生きることなのです。そのことが、この手紙の第二部として書かれています。来週からそのことをご一緒に学んで参りましょう。 |
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