ヘブライ人への手紙 40
「ノアはすべて神の命じ給ひしごとく為せり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章7節
旧約聖書 創世記6章1-22節
超人の生き方
 先週の説教の中で、正岡子規の話をいたしました。子規は、七年間結核を患い、カリエスも併発し、最後の二年間はまったくの寝たきりの状態で、三十四歳で亡くなりました。先週お話したのは、病苦の中にある子規のもとにひとりのクリスチャンの友人が訪ねてきて、イエス様の復活や永遠の命ということを伝えたという話でした。そのことを子規は『墨汁一滴』という随筆集の中に書いておりまして、こういうのです。

余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何(いかん)せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇(いとま)あらず。願くは神先づ余に一日の間(ひま)を与へて二十四時の間(あいだ)自由に身を動かしたらふく食を貪らしめよ。而して後に徐(おもむ)ろに永遠の幸福を考へ見んか。(正岡子規、『墨汁一滴』)

 見舞いに来てくれた友人の善意、その心を有り難いものと感謝しながらも、一瞬一瞬が病苦と戦いである自分には、「今の救い」という話には関心があっても、「あの世の救い」などと言われてもピンと来ないというのが正直な気持ちだ、というのです。

 わたしはこれをもって子規の心の頑なさを責める気にはなりません。むしろ子規は当然のことを言っているのでありまして、先週もお話ししましたが、イエス様御自身がそのことをよく分かっていてくださるお方でありました。ですからイエス様は、まず病を癒し、過ちをゆるし、恐れを取り除き、今の問題で頭を抱え正気を失っている人々の正気を取り戻してから、根本的な罪のゆるしや永遠の命という神様の救いをお伝えになったのです。

 永遠の命の救いということがわかりましても、この世に生きる限り悩みや苦労が尽きないという現実は、少しも変わりありません。しかし、小説に喩えますと、結末が違ってくるのです。わたしたちは、死んだら何もかも虚無に服するという結末をもった物語の中に生きているのか、それとも神様の愛に抱かれ、慰めと労苦の報いを受ける結末を物語の中を生きているのか。それによって、同じ労苦をしているにしましても、その意味が違ってきます。

 イエス様の御救いを受け、罪のゆるしと永遠の命を知ることは、あの世のことかもしれないけれども、それだけで終わるものはではないのです。そのような結末をもった新しい文脈の中で生き始めると、絶望が希望に変わり、無意味に思えたことに何らかの価値が見いだせるようになり、今という時が見つめる人生観や世界観も変わってくるのです。

 ただし、このような生き方を、現実からの逃避であると批判する声があります。マルクスは、「宗教は阿片である」と言って、宗教が与える幸福は幻想的なものであって、現実の物ではないと言いました。ニーチェは、「神は死んだ」という有名な言葉を残して、やはり来世に救いを求める宗教のあり方を、現実逃避だと批判しています。

 それではこういう人たちは、現実の世の中にどういう救いがある、と唱えているのでしょうか。マルクスは、社会革命によって理想的な共産主義社会が実現するということを思い描きました。ニーチェは。自分に革命を起こし、無意味な現実を越えた超人になることを提唱しました。超人とは、わたしの解釈でいいますと、無意味な世界の中で、無意味な存在になってしまう弱い人間ではなく、自分を絶対化することによって逆に無意味な世界を呑みこんでしまう強い人間になるということです。

 もしかすると、正岡子規は、ニーチェのいう超人的な生き方を体現した人であるかもしれません。喀血やら痛みやら身動きのできない不自由さやら、一瞬たりとも休むことなく病苦と闘い、泣き、わめき、叫ぶばかりの毎日を送りながら、『病状六尺』という随筆の中には「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」(『病状六尺』)なんてことまで書いています。そして、鎮痛剤で痛みを抑えながら、死ぬ二日前まで執筆活動を続けました。その文体には、死と隣り合わせに生きている人のような重苦しさがなく、たとえ病気の苦しみについて書いているときにもどこか軽やかなところがありまして、いったいどこからこのような明るさ、強さが生まれるのかと不思議に思うぐらいなのです。同じ『病床六尺』の中には、こんなことも書かれています。

余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(『病状六尺』)

 「如何なる場合にも平気で生きて居る」というのは、本当すごい言葉です。たいへんな苦しみが襲うとき、生きる意味を見失って、死にたい、死にたいと死ぬことを願う人はたくさんいます。しかし、生きる意味が損なわれるような状況で、なおそれを自分の人生としてうけいれ、その中で自分らしく生きていくということ、これはほんとうにすごいことだと思うのです。

 正岡子規は、なぜそんな強い生き方ができたのか? それは彼が生きる意味を問わなかったからである、ともいえます。。子規はこういうことも書いています。

死生の問題は大問題であるが、それは極単純な事であるので、一旦あきらめて仕舞へば直に解決されて仕舞ふ。それよりも直接に病人の苦楽に関係する問題は家庭の問題である。介抱の問題である。病気が苦しくなった時、また衰弱のために心細くなった時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。殊に唯淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護して呉れさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めて呉れさへすれば、病気などは殆ど忘れて仕舞ふのである。(『病床六尺』7月16日)

 「死生の問題は大問題であるが、それは極単純な事であるので、一旦あきらめて仕舞へば直に解決されて仕舞ふ。それよりも・・・」とは、どういうことでありましょうか。なぜ生きるのか。死んだからどうなるのか。このように生きる意味を考え始めたら、本当に悩ましい気持ちになる。しかし、この問題は、考えても答えなど出てくることではないと諦めてしまえば、あとは簡単です。なぜ生きるのかではなく、如何に生きるのかという、実際問題だけをクリアしていけばいいのです。

 如何にしたら、苦しみを和らげることができ、如何にしたらその中で生きていることを楽しめるのか。それだけを考えていけば、さしあたって大切なのは、如何なる治療を受けるか、如何なる看護を受けるか、そういうことだけとなります。死の不安とか、生きる意味とか、そういうことは一切考えずに、実際に生きているんだから、ただ生きるということだけを最後まで全力で求め続ければ、人間の人生はそれでいいのだということでありましょう。

 一面においては、とても前向きであるように聞こえますが、わたしに言わせれば、要するに刹那主義であります。それに加えて個人主義、利己主義でもある。では、献身的に介護する家族の悩み、苦しみはどうなのか? 刹那の救いさえも望めない境遇の場合はどうなのか? 子規は、そういうことにまでは思いが及びません。自分の人生の物語さえ完結していればそれでいいという、割り切りがあるのです。
超人の生き方の結末
 それは、マルクス、ニーチェなど無神論者たちが唱える、いわゆる強い生き方の問題点となります。これについては、もう結論が出ているといってもいいのでしょう。マルクス主義は、レーニンやスターリン、すなわち暴力革命を生み、理想国家として建国されたはずのソビエト連邦は、すでに崩壊しました。ニーチェのニヒリズムも、ナチスや新左翼の刹那的で、盲目的な暴力行為を正当化するために、利用されることになりました。マルクスにしろ、ニーチェにしろ、彼等自身がそのようなことを目論んでいたのではないとしても、結局、そのような強い生き方は、利己的、刹那的、盲目的な生き方に通じていき、その結果とんだ大火傷をすることになるということなのです。

 実は、聖書はそのことをちゃんと物語っているのです。先週、エノクの話をいたしました。アダムとエバが楽園を追放されて以来、人間はどんどん神様を離れていき、七世代目にあたるエノクの時代には、かなり世の中が乱れきっていました。その中で、エノクは神と共に歩み、永遠の命を証ししたという話でした。今日は、その後を見て参りたいと思います。エノクからさらに三世代が過ぎ、ノアの時代になります。それは超人の時代でもありました。『創世記』4章1-4節にこう記されています。

さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

 神の子らと人間の娘が結婚し、ネフィリムという英雄たちを生んだ、と書かれています。ここで、《神の子ら》とは、いったいどんな人たちを指しているのかが問題になります。

 だいたい二つの考え方がありまして、一つは「天使」という考えです。しかし、イエス様は天国ではみなが家族であって、嫁いだり娶ったりすることはないのだと仰っていることから類推して、天使が結婚するというのも変な話なのです。

 もう一つの考えは、「信仰者」という考えです。『創世記』4章の最後に、エノシュの世代から主の名を呼び始めたということが書かれています。信仰者として生きる人たちが現れ始めたということであります。そういう人たちを、《神の子ら》と呼んだのではないかという説があるのです。わたしもそれが妥当ではないかと思いますが、わからないことはわからないとするのがわたしの聖書の読み方ですから、ここでも結論は出さないようにしたいと思います。

 いずれにせよ、結果として人間的なものと神的なものが混淆した新しい人類が誕生したということが語られているのです。この新しい人類は、肉体的にも、知性的にも、それまでの人間を越えていて、人々を支配する指導的、君主的な種族、英雄の種族だったと言われています。つまり超人でした。

 これらの超人たちは、一見すると神のごとく輝かしい理想的な人間に見えたかもしれません。そして、これを人間の進歩と受け取り、この英雄達によって新しい人類の時代が幕開けるのだと期待した人々もいたでありましょう。

 しかし、聖書によれば、これは進歩でなく堕落だったのです。超人が英雄視される世の中は、神様を離れ、悪いことが幅を利かせ、不法がはびこり、乱れに乱れ、絶望的なまでに腐敗した世の中とないったというのです。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(『創世記』5章5-6節)

この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。(『創世記』6章11-12節)

 聖書が一貫して語っていることは、人間は神ではない、ということです。人間は、人間としての謙遜さをもって、人間らしくあるべきであって、決して神のようになろうとするべきではないのです。このことを語り出せば、それだけで一つの説教になってしまいます。しかし、一つ、二つのことを思い起こしておきましょう。 

 まだアダムとエバがエデンの園で幸せに暮らしていたときのことです。誘惑者がやってきてエバにこのように囁きました。「神様は、この実を食べるとほんとうに死ぬと言ったのですか。それは違います。この実を食べるとあなたが神のようになることを神様はご存知なのです」というものだったのです。エバはこの誘惑にのっかり、禁断の木の実を口にしてしまいました。これが罪の第一歩だったことを、私たちは忘れてはなりません。

 けれども、このような誘惑を徹底的に退けた方がいらっしゃいます。それがイエス様でした。イエス様もまた荒れ野でサタンの誘惑をお受けになります。「あなたは神の子ではないか。神の子なら断食などせずに石をパンに変えてみたらどうか」。しかし、イエス様は「人は神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」と、神の言葉を聞きながら生きることが人間の本分であるとお答えになったのです。それからサタンは、イエス様を神殿の屋根の上に連れて行きます。そして「あなたが神の子ならこの高台から飛び降りてみよ、きっと天使があなたを助けるだろう」と囁くのです。これに対してもイエス様は「神を試してはならない」と、神様を信頼して生きることこそ人間の本分であるとお答えになったのでした。するとサタンはイエス様に山の上から世界を見下ろさせ、「もしわたしを拝むならこれをみんな与えよう」と言いました。イエス様は「主を拝み、ただ主に仕える」、これこそが人間の本分であるとお答えになりました。

 イエス様は、徹底して人間であろうとなさいました。それは神様の言葉に従い、神様の愛を信頼し、神様を礼拝して生きる、つまり神様の前に謙遜に生きるということだったのです。
ノアの信仰
  今日は、ノアの信仰についてです。ノアの物語は、『創世記』6-9章に記されています。子どもでも知っている有名なお話しですから簡単に申しますが、神様は人間が悪いことばかりをしていることに心を痛めて、人間を造ったことを後悔し、洪水でこれを一掃されるのです。

 ところが神様はノアとその家族を救おうと、箱舟をつくることをお命じになります。ノアがお言葉のとおりに箱舟を作り上げると、雨がふりやがて植物も、動物も、人間も、いっさいのものが洪水に呑みこまれてしまいました。

 ただし、ノアとその家族、それから一つがい、あるいは七つがいずつの動物たちは箱舟にのりこみ、神様の裁きとしての洪水を免れたというお話しです。

 このノアの信仰として、注目したい一つの点だけお話しをしたいと思います。それは、この洪水物語の中で、ノアは、言葉を一言も発していないということです。もちろん話をしなかったのではありません。しかし、聖書には、ノアの言葉がひとつも記録されていないのです。

 ノアの物語の中で、たえず発言されているのは神様です。人間の罪に心を痛め、ついに洪水を決心された時の神様の御心が語られています。箱舟の作り方について指示されたみ言葉もあります。神様が洪水の計画についてノアに打ち明けられる場面もあります。そして、洪水が引き、箱舟から外に出るように指示される神様のみ言葉もあります。また。このような恐ろしい裁きを二度と起こすまいとの神様の誓いの言葉もあります。ノアとその息子たちを祝福される言葉もあります。ノアとその子孫との間に結ばれた虹の契約の言葉があります。

 しかし、ノアの言葉はひとつもありません。正確には9章に終わりに一度だけ、ノアの言葉がでてきます。しかし、それは洪水物語とは直接関係がありません。洪水が終わり、ノアが農夫として暮らしている時に末の息子であるハムのしたことを怒り、その息子カナンを呪ったという言葉です。

 ノアの信仰は、ノアの言葉ではなく、ノアの行動によって、物語られているのです。そのことが、信仰とは言葉ではなく、行動、生き方であるということを物語っていると言ってもいいでありましょう。そのノアの行動とは何か。6章22節にこう記されています。

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

 ノアが物語る信仰とは、このみ言葉によって示されているのです。『ヘブライ人への手紙』11章7節をもう一度読んでみたいと思います。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

 ノアは神様のお言葉を受けたとき、恐れかしこみながらそれに従いました。自分の考えでも、願いでもなく、超人という英雄的な知恵ある人々や力ある人々の言うことでもなく、神の言葉にしたがったのです。

 その姿は、英雄とはほど遠いものだったに違いありません。神様がおっしゃったというだけで、本当に来るかどうかも分からない洪水に備えて、ひたすら箱舟を造り続けるノアは、この地上でもっとも愚かな者、気の小さい者、無能な者とされたでありましょう。誰もがノアは無意味なことをしていると思ったに違いありません。しかし、ノアは、それこそが自分の救いであり、愛する者の救いであると信じていたのです。

 神に救いを求めるということは、弱い人間のすることだ。それが超人たちの主張です。宗教は阿片だと言ったマルクスもしかり、神は死んだと言ったニーチェもしかり、ノアの時代の超人たちもそうであったでありましょう。しかしその結末は、先ほどお話ししたとおりです。人間としてのまことの知恵、力は何か? それは神様に愛されているということであり、愛なる神様のみ言葉に従うことである。それをノアは身をもって証明したのです。

 それが、ノアは《その信仰によって世界を罪に定め》たと記されている意味です。信仰とは人を裁くことではありません。クリスチャンが信仰的な信念をもって、あの人はいい人だ、あの人は悪い人だなんていうのはもってのほかです。ノアはそんなことをしたのではありません。人から後ろ指を指されながらでも、神様の言葉に愚直にしたがったのです。そのことが、ノアと神を恐れぬ超人たちの世界を峻別しました。そして結果として、ノアの信仰による正しさが、この超人たちの知恵と力による世界の正しさに勝ったのです。

 ノアのようにみ言葉に従うということは、決して簡単なことではないように思います。しかし、神様は私達に従い得ないようなことをお命じになっているわけではありません。それなのにみ言葉に従えないとしたら、私たちの心のどこかに、神を神としない傲慢さがあり、神様と争っているということが原因ではありませんでしょうか。私たちは神ではありません。人間に過ぎないものです。しかし、だからこそ神様は私たちの天の父としてこの弱き、愚かな人間を愛し、慈しんで下さるのです。神様の前に、心から遜った人間になりたいと願います。そして、み言葉を恐れかしこみつつ聞くものでありたいと願います。
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