ヘブライ人への手紙 41
「神の造り給ふ基礎ある都を望みて」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙11章8-16節
旧約聖書 申命記33章12節
人間の孤独
 三月の下旬に、次女が手術をいたしました。その折には、皆様に多くのご心配とお祈りをいただきまして、本人はもちろん、私どもも心を強められまして、試練を乗り越えることができましたこと、あらためて御礼を申し上げます。

 娘が手術をするということになって、わたしが一番感じたのは、人間のいのちの孤独ということでした。御自身やご家族がご病気をなさった方は、誰もが同じように感じておられると思いますが、どんなにまわりの者が心配しても、そばに寄り添ってあげても、苦痛のひとかけらさえも替わってあげることはできません。たとえ年端もいかぬ子どもであろうと、自分自身の苦痛はすべて自分で請け負い、耐え抜かなければいけないのです。

 大人も子どもも関係なく、人間は皆そのような孤独ないのちを生きています。苦しいのは病気だけではありません。自分の愚かさや弱さが、自分を苦しめることがあります。世の中や身近な人々によって苦しめられることもあります。誰のせいでもない理不尽な苦しみもあります。しかし、どんな苦しみであろうと、また誰が与えた苦しみであろうと、最終的には自分自身で負っていかなければなりません。

 イエス様は《自分の十字架を負って、わたしに従いなさい》(『マルコによる福音書』第8章34節)と言われました。「自分の十字架を負う」などと言いますと、何か英雄的な生き方が言われているように思えるかもしれませんが、そうではありません。生きるということ自体が、わたしたちの十字架なのです。自分の十字架を負いなさいとは、どんなに苦しみに満ちていようと、悲しみや恥にまみれていようと、自分のいのちを終わりの日まで耐え忍んで生き抜きなさいということなのです。

 そのうえで「わたしに従え」と、イエス様は仰っておられます。この「わたしに従え」というイエス様の言葉を、どう受けとめるか? その受け止め方によって、私たちの信仰生活の質がちがってきます。孤独と悩みに満ちたいのちを生きること、それだけでもたいへんなことなのに、そのうえ更に猶、イエス様に従うという重荷まで背負わされていると受けとめるならば、何の歓びにも力にもならない信仰となってしまうでありましょう。

 しかし、「わたしに従え」という言葉は、そういうことではありません。ひとりで耐え、ひとりで決断し、ひとりで歩くしかない人生に、「わたしに従え」と言う言葉が力強く響いてくる。重い十字架に意気阻喪し、座り込んで泣き言ばかり言っている私たちに、「わたしに従え」と行く手を示す声が聞こえる。それは、まさに人生の救世主の声なのです。

 「わたしに従え」と仰るイエス様は、「わたしは良き羊飼いである」とも仰ってくださいました。今日の週報の「今週のみ言葉」の一言メッセージにも書かせていただきましたが、イエス様は羊飼いのなかにも、ほんとうの羊飼いと雇い人に過ぎない羊飼いがいると教えておられます。雇い人とは、報酬のために働いている人です。報酬がなければ仕事をしませんし、報酬に見合わないような仕事もしないのです。ですから、イエス様は「雇い人は狼が来たら羊を棄てて逃げるだろう」と言っておられます。

 考えてみますと、世の中はみんなそうです。わたしたちを騙そうとか、陥れようとか、そういうことを考えている人ばかりではありませんし、一生懸命に、親身になってくれる人もたくさんおりましょう。それはそれでとても有り難いことです。しかし、夏目漱石の『こころ』という小説のなかで、登場人物の「先生」が、主人公の「わたし」にこんな風に語る場面があります。

平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。

 何事もない時は善人であるが、いざという時には悪人になるから恐ろしい。自分も含めて、人間にはそういうところがあるのではないでしょうか。

 わたしは若い頃に「人を信じてはいけない」ということを学びました。今でもそう思っています。「人を信じない」などといえば、よほどひねくれた者だと思われるかもしれません。しかし、わたしが学んだのは、騙されまいとして何でも疑ってかかるということではありません。どんなに善良さに満ち溢れた人であっても、人間であるかぎり破れがあります。それにも関わらず、人を信じることはその人に非常な重荷を負わせることになるのです。

 わたしも、「牧師先生を信じています」などと恭しくいわれると逃げ出したいぐらいの重圧を感じます。しかし、「牧師さんも人間だから」と言ってくださるとホッとするのです。人間には完璧はない、破れをもった存在であるということを知った上で、人に接していかないと、信じていたのに裏切られたとか、騙されたとか、人を責める人間になってしまうのではないでしょうか。しかし、最初から人間の弱さということを加味していれば、結果的に裏切られたような思いをしても、その人がそれまで一生懸命にしてくれたこと、その力に及ぶ限りのことをしてくれたことに対する感謝の思いも生まれてくることがあるのです。

 そのように、たとえ限界はありましても、人の親切とは有り難いものですが、自分自身の救いを考えると、決して当てに出来るものではないのです。やはりわたしたちは深いところでは、孤独を味わうのです。

 そこに「わたしは雇い人ではない。良き羊飼いだ」と仰るイエス様がいらっしゃる。そして「わたしに従え」と招いてくださる。そうです。「わたしに従え」とは、私たちに更なる重荷を貸すものではなく、意気阻喪し、途方に暮れている私たちへの招きの言葉なのです。この招きに応えて、イエス様を見つめ、信頼し、望みを託し、どこまでもついて行く者となること、それが信仰なのです。
信仰とは信頼すること
 今日お読みしました聖書には、アブラハムの信仰について記されていました。

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 これは『創世記』第12章に書かれています。アブラハムは75歳で、妻のサラと甥のロトを伴って、ハランの地を去りカナンの地に向かいました。その時、彼は行き先も知らずに出発したと書かれています。行き先を知らないと言いましても、いろいろなレベルがあると思います。『創世記』には、《カナン地方に向かって出発し、カナン地方に入った》とあります。ですから、「カナンの地」については何か示しがあったのかもしれません。けれども、いったいカナンの地がどんなところであるのか、そこに何があるのか、そこで何をすればいいのか、そういうことまでつまびらかにされていたのではないのです。《行き先も知らずに》というのはその意味であろうと思います。

 要するに、アブラハムは何もわからないで神様に従ったということなのです。納得して従ったのではありません。理解も納得もできないけれども、信頼したのです。その信頼をもって神様の言葉に従ったのでありました。これが信仰の姿なのです。11節に妻サラの信仰が書かれていますが、これもまったく同じです。

信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。

 アブラハムには、子どもがいませんでした。妻サラは器量の良しの女性だったようですが、子どもを産めない身だったのです。それにもかかわらず、神様は、サラにはアブラハムの子が与えられると約束なさいました。

 『創世記』を読みますと、アブラハムもサラもそのことがなかなか信じられなかったようです。それはそうでありましょう。幾ら願っても与えられなかった子どもであります。ふたりはもうとっくに諦めておりました。そのうえサラも年をとり、いずれにせよ子どもを産むのが難しい年齢に達していました。どうしたって無理な話、有り得ない話、だれだってそう思うのです。それをあえてのみ込んで、二人は神様を信じました。約束なさった方は真実な方であると信じたのです。神様が嘘をつくはずはないということです。

 信仰とは、理解や納得をもって従うことではありません。理解や納得とは、要するに自分の考えに合致するということです。神様の言葉や御心が自分の考えに合致した場合だけ従うというのでは、神様を信じていることにならないのです。

 自分の考えを遥かに越えて優れた神様のお考えがあります。それは、とても計り知れない知恵です。イエス様がペトロの足を洗おうとしたとき、ペトロは自分の考えに従って「わたしの足など決して洗わないでください」と拒絶しました。すると、イエス様は「わたしのしていることは、今はわからないかもしれない。しかし、後できっと分かるときがくるだろう」と答えられました。後できっと、従って良かったなあ、信じてよかったなあ、と思えるときが来るのです。

 アブラハムとサラは、生まれた子どもにイサクという名前を付けました。イサクとは「笑い」という意味です。それまで心から笑うことができなかった人が、神の真実を信じ続けた結果、心から笑うことができるようになった。信仰とはそういう経験をすることなのです。
信仰の希望
 続けて、『ヘブライ人への手紙』はこのように語っています。

信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。

 アブラハムはカナンの地に来ました。そこで「この土地をあなたの子孫に与える」という神様の約束を聞きます。約束なさった方は真実な方でありますから、これは確かに果たされました。しかし、それはなんと600年も後のことだったのです。

 アブラハムは妻サラを葬るためにマクペラにある洞穴を墓地として銀400シェケルを出して買い取りました。神様があなたの子孫に与えると言われた広いカナンの地で、ただそれだけがアブラハムの所有でした。アブラハムの子イサクも、孫のヤコブも、このカナンの地を神の約束の地として信じ、そこに住み続けましたが、神の約束が成就されるのをみることなく、マクペラの墓に葬られました。

 しかし、実に驚くべき事でありますが、アブラハムはもちろん、イサクもヤコブもその子らも、この神様の約束を信じ続けたのです。前後しますが10節の順番に読んでみましょう。

アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。(10)

 神様がお造りになった確かな基礎をもつ都、それは神の御国ということでありましょう。神様の御国で神様と共に住むこと、それがアブラハムの望みであったのです。

 このことについて、『ヘブライ人への手紙』はさらに説明を加えて、それは天の故郷であったと言っています。室生犀星は「故郷は遠くにありて思うもの そして悲しく思ふもの」と、詩によみました。これは「故郷なんて、遠くから思っている分にはいいけれど、帰るなんてまっぴらだ」という詩です。これについては、ひとりひとり違う思いがあることでしょうけれども、この世の故郷というのは、必ずしも憩いの土地ではないということだと思います。だから、聖書もいうのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。(15)

 神様の言葉に従い、この世の故郷を捨てて旅立ったアブラハムでありますけれども、結局、カナンの地で寄留者としてのい生涯を送りました。その子イサクも孫のヤコブもそうです。それに不満があったら、神様の約束に見切りをつけて、自分の故郷に帰れたはずです。しかし、彼らは、それをしませんでした。それは神様に従う生活が、故郷にいる生活にまさったものだったからに違いありません。故郷にいれば多くの財産も家も土地もあったかもしれません。しかし、神様に従ったばかりに、この世に自分のものは何もなくなってしまったのです。しかし、それよりも素晴らしいものを得ていた。それは何かというと天の故郷に対する希望です。

だから、13節のように言われるのです。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

 天の故郷とは、何でありましょうか。今日、私たちは申命記の言葉を読みました。これがアブラハムの孫であるヤコブが、12人の子どもたちを祝福する場面で、末っ子のベニヤミンを祝福している言葉です。

主に愛される者はその傍らに安んじて住み、終日、神に身を寄せて、その御守りのもとに住まう。

 終日、神様に身をよせて、神様と共にあること。これがヤコブが望み見ていたこと、また子供らに願ったことでありました。この希望は父イサクから受けた者であり、イサクはその父アブラハムから受けたものに違いないのです。本当にわたしたちが安らぐことができる場所、それが神様のもとにこそあります。なぜなら、それこそが、私たちの本当の故郷だからです。

 紀元4世紀頃のキリスト教に影響を与えたアウグスチヌスは、「あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですからわが魂はあなたのうちに憩うまでは安きを得ません」と、神様に祈りました。また前にお話ししたことがあるかと思いますが、17世紀の科学者であり、宗教思想家でもあったパスカルは、「人間の心の奥深いところには、神のかたちをした空洞があって、この空洞は神以外の何物を入れても、決して満たされない空洞なのだ」と言いました。わたしたちは、この世のどんなものに満たされていても、神様を見いだし、神様に満たされ、神様と共にあるということを経験するまでは、決して本当に安息を得ることはできないのです。だから、アブラハムは、この世の故郷に戻ろうなんてことは少しも考えなかった。ただただ天の故郷を求め、そこに希望を持って、信仰の生涯を生き抜いたのだというのであります。

 最初に、イエス様が自分の十字架を負ってわたしに従いなさいと言われたというお話しをしました。そして、私たちが負うべき十字架とは、この世を生きることそのものだと申しました。この十字架は、誰も代わって負ってくれる者はいません。親子であろうが、夫婦であろうが、牧師であろうが、人の十字架を負うことはできません。自分の十字架は自分が負わなければならないです。しかし、「わたしについてきなさい」と呼びかけ、招いてくださるお方、それがイエス様なのです。イエス様は雇い人としてではなく良き羊飼いとして、私たちを導き、守り、支えてくださいます。

 どこへ導いてくださるのでしょうか。それは、やはり天の故郷だと言えましょう。イエス様はこうも言われています。「わたしの父の家には住むところがたくさんある。」、「行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしにもとに迎える」 信仰とは、こように仰ってくださるお方を信じて、その招きに応えることなのです。
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